第2章 第31話 ラウゼンへの道
第2章 第31話
ラウゼンへの道
町の門の外では、土の色が変わった。
ソーマは馬車の小窓から、遠ざかる故郷の道を見ていた。アルディス家の庭にあった湿った黒土でも、鷹のくちばし亭の裏口に溜まっていた油混じりの泥でもない。
門の外の街道は、踏まれ、乾き、砕かれ、車輪に削られた灰茶色をしていた。
馬車が揺れるたび、試料箱の中で乾いた粘土片が小さく鳴る。
その音を聞くと、朝のリナの顔が浮かんだ。目元を赤くしながら、それでも笑って「行ってらっしゃい」と言った顔。『前より大丈夫』と書かれた木片は、上着の内ポケットに入っている。
ソーマは膝の上の箱を押さえた。
胸には寂しさが残っていた。
旅は、思っていたより静かだった。
御者のマルクは口数の少ない男で、護衛を兼ねる従者のセドも必要なことしか言わない。馬の蹄、車輪の軋み、革紐の擦れる音。町の中ではいつも誰かの声がしたのに、街道では風の音が広かった。
ソーマは最初、その静けさを少し持て余した。
これからラウゼンへ行く。フェルド老師に会う。記録帳を見せる。独学の限界を越えるために、誰かに教えを請う。
期待はある。
だが、期待だけではなかった。
記録帳を鼻で笑われたらどうしよう。子供の泥遊びだと言われたら。七年分の紙のどこにも価値がないと、見抜かれてしまったら。
そう考えると、試料箱が急に重くなる。
ソーマは気持ちを逸らすように、窓の外へ目を向けた。
観察。
街道の両脇には畑が続いていた。春蒔きの準備なのだろう。浅く起こされた土は、黒いところと赤茶けたところがまだらに混じっている。
少し進むと、畑の土は軽くなり、風が吹くたび細かな砂が舞った。さらに先では、道の脇に低い崖が現れ、地層が縞のように見えた。
上は黒っぽい表土。
その下に、赤茶色で粘りのある層。
さらに下に、白っぽい砂の多い層。
故郷の白い崖とは違う。けれど、ここにも重なった土がある。少し場所が変わるだけで、足元の土の色も手触りも変わっていく。
ソーマは小さな木札を取り出した。
「セドさん。次に休む場所で、少し土を見てもいいですか」
セドは一瞬だけ困った顔をした。
「街道脇を掘るのは許可しません。崩れる場所もあります」
「掘りません。安全な場所に、すでに落ちている土だけを見たいです」
「それなら、休憩地でマルクにも相談しましょう」
昼前、馬車は石で囲まれた井戸のある水場で止まった。旅人や商人が馬を休ませる場所らしく、井戸のそばには水桶が並び、道の端には車輪で削られた細かな粉が溜まっていた。
ソーマは、まずその粉を見た。
素手では触らない。木匙で紙片の上へ少しだけ移し、色と粒を確かめる。
細かな砂と粘土。乾いた馬糞の粉。灰。車輪の木屑。革に使った油らしい黒ずみ。
いろいろなものが混じっている。
これは、土地本来の土を示す試料ではない。
街道の粉は、その土地の土に、人と馬車が運んだものが重なったものだった。
仮説を立てよう。
この粉だけを採っても、地層や畑の土は分からない。自然の土を比べる試料には向かない。
けれど、人の往来が土をどう変えるかを見る試料にはなる。
ソーマは紙ごと粉を小袋へ入れ、木札に書いた。
出発一日目。石囲いの井戸の休憩地。街道表面の粉。通行による混入が多い。自然土の比較には不適。人の活動による混合試料として保存。
目的に合わない試料を選んだ。
だが、記録する価値はあった。
道の土は、人が通ることで変わる。宿屋の裏口と同じだ。人の暮らしは土を変える。
休憩地から少し離れたところに、雨で削られて地層の見えている低い斜面があった。
セドは馬車を降り、先に周囲を見た。足元に崩れかけた土がないことを確かめてから、ソーマを呼ぶ。
「斜面には近づいてはいけません。下に落ちている欠片だけです」
「はい」
ソーマは、斜面を見上げずに済む距離でしゃがんだ。表面に落ちていた小さな土の欠片を、木匙で一つずつ紙へ載せる。
赤茶色の欠片には粘りがある。白っぽい欠片は、木匙の先で崩すとざらついた。
土魔術を弱く通す。
赤茶色の欠片には、均一ではない硬い粒が点々と感じられた。
鉄分かもしれない。
だが、決められない。
木札に書く。
出発一日目。石囲いの井戸の休憩地、道脇の低い斜面から落下した欠片。赤茶色の層、粘りあり、硬い粒あり。白っぽい層、砂が多い。採取は落下物のみ。
記録を書いていると、マルクが水袋を肩に掛けながら言った。
「坊ちゃん、ラウゼンへ行けば、そんな土はいくらでもありますよ」
「ラウゼンは、土が違うのですか」
「違うなんてもんじゃない。街に入る前から、道が黒くなる。鉱石を運ぶ馬車が多いからな」
黒くなる。
ソーマは顔を上げた。
「黒い土ですか」
「土というか、粉です。鉄やら石炭やら、何やら。雨のあとなんか、靴が真っ黒になります」
鉱石の粉。
工房の粉。
人が運び、砕き、こぼしたもの。
ラウゼンという都市が、まだ見ぬ形で近づいてきた。
午後の道は、丘陵へ入った。
馬車はゆっくり上り、車輪は石を噛む。窓の外には切り通しの崖が続いた。そこには、故郷では見なかった灰色の硬い層がある。上の土は薄く、草の根が浅い。ところどころに赤い筋が走っていた。
ソーマは手を伸ばしたくなった。
だが、馬車は動いている。勝手に止めることはできないし、切り通しの斜面は危ない。
見るだけ。
それも旅の練習だった。
夕方、馬車は宿場町へ着いた。
小さな宿の部屋は、鷹のくちばし亭より狭く、床板が少し傾いていた。食事は硬いパンと豆の煮込み、塩気の強い干し肉。味は悪くないが、リナの宿の煮込みを思い出して、少しだけ寂しくなった。
食後、ソーマは灯火の下で木札を整理した。
故郷から一日離れただけで、土はもう違う。
畑の黒土。
街道の混合粉。
赤茶色の粘り土。
白っぽい砂の多い層。
灰色の硬い層。
記録をしていると、気持ちが少し落ち着いた。知らない場所でも、観察すれば足場ができる。
その夜、ソーマはリナへ最初の手紙を書いた。
まだラウゼンには着いていないこと。街道の土には、人や馬車が運んだ粉が混じること。自然の土を採るつもりで、目的に合わない粉を選んでしまったこと。宿の煮込みが少し塩辛いこと。
最後に少し迷って、こう書いた。
元気です。まだ少し寂しいですが、町を出ると土が全然違いました。
翌日、川を渡った。
故郷の川より広く、流れは少し速い。橋のたもとには砂が溜まり、粒は故郷の川砂より黒っぽかった。
ソーマは橋番に頼み、河原へ降りてもよい場所を確かめた。セドが見守る中、流れから離れた砂だまりの表面だけを、木匙で少量すくう。
宿で借りた小さな皿に水を入れ、目で大きさの近い砂粒と黒い粒を選んで沈めた。
黒い粒の一部は、同じくらいの大きさに見える砂粒より早く底へ沈んだ。
重い粒かもしれない。
だが、形や大きさが違えば、沈み方も変わる。これだけで重さや金属の種類を決めてはいけない。
土魔術を弱く通すと、黒い粒のいくつかは硬く、重い点のように感じられた。
鉄かもしれない。
別の鉱石かもしれない。
ただの黒砂かもしれない。
まだ分からない。
それでも、川の流れが粒を分け、重いものを集める働きを持つことは見えた。
胸が少し高鳴る。
分離。
沈降。
重い粒。
これまで庭や宿屋で見てきたものが、旅の川にもあった。
道はつながっている。
土も、水も、現象も。
三日目、遠くに山が見え始めた。
街道を行く荷馬車の数が増える。積まれた袋からは灰色の粉がこぼれ、道の轍に溜まっていた。マルクの言った通り、ラウゼンへ続くこの街道は、進むほど少しずつ黒ずんでいく。
空気にも、乾いた石と煤の匂いが混じり始めた。
ソーマは馬車の中で、試料箱を抱え直す。
故郷を離れた寂しさは、まだ消えない。
リナの赤い目も、母の震える手も、父の静かな声も、ときどき胸を締めつけた。
それでも窓の外には、見たことのない土が続いている。
新しい地層。
新しい川砂。
新しい粉。
知らない都市。
ラウゼンはまだ遠い。けれど、その気配はもう街道の土に混じっていた。
ソーマは木札に書いた。
土地ごとに土は違う。
人が通れば、土には別のものも混じる。
都市へ続く街道では、黒い粉が増えるように見える。
書き終えたあと、彼は小さく息を吸った。
これから会う老人は、この土をどう見るのだろう。
フェルド老師。
王立錬金院を去った錬金術師。
黄金を無から生む者ではなく、分離と記録にうるさい老人。
期待と不安が、また胸の中で並んだ。
三日目の夕方、前方を見ていたマルクが言った。
「明日の昼には、ラウゼンの城壁が見えるはずです」
ソーマは窓の外を見た。
黒ずんだ街道は、山の向こうへ続いている。
馬車はその先の大都市へ向けて、ゆっくり進んでいった。
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