第1章 第30話 旅立ちの土
第1章 第30話
旅立ちの土
持っていける土は、思ったより少なかった。
ソーマは机の上に四つの試料箱を並べ、記録紙の束を紐でくくった。焼成で割れた試験皿の破片も、布に包む。
そこまではよかった。
だが、それらを旅用の小箱へ移そうとして、手を止めた。
馬車には積める。けれど、旅先で自分で管理し、比べ、記録できる量には限りがある。十二歳の子供が学びに行く荷として、四箱分の土と紙を抱え込むのは多すぎた。
五歳のころ、庭の泥団子を一つ割って途方に暮れていた。
いま、目の前には七年分の失敗と観察がある。庭、川、崖、宿屋、窯場。土は紙と木札と破片に姿を変え、積み重なっていた。
けれど、全部は持っていけない。
その事実が、旅立ちを急に現実のものにした。
前の晩、ダリオは書斎でフェルド老師の名を出した。
ラウゼンという都市がある。王都ほどではないが、鉱石商、鍛冶師、薬師、錬金術師が集まる大きな街だという。山から掘り出された鉱石が川と街道を通って運ばれ、職人たちはそれを砕き、焼き、溶かし、それぞれの仕事に使う。
フェルド老師は、そのラウゼンの外れに住んでいるらしい。
かつては王立錬金院にいたが、黄金を生む奇跡ばかりを求める院と折り合わず、追われるようにして去ったと聞く。錬金術とは、記録し、反応を見て、混じったものを分けることだと言い続けた老人だった。
偏屈で、口も悪い。弟子を取らないという評判もある。
それでも、オルグは言った。
「おまえの記録を見て、鼻で笑うかもしれん。だが、どこが駄目かは言える老人だ」
それは、いまのソーマに必要な相手だった。
独学は、限界に来ている。
なぜ器が割れたかは、少しずつ分かるようになった。厚み、乾かし方、火の当たり方。だが、焼成後も割れずに残った器が、なぜ残ったのかは説明できない。
同じ場所から採った土でも、日が違えば湿りが違う。同じ配合だと思っても、砂の粒や窯の位置までそろえられてはいない。
ソーマは記録紙の束を見下ろした。
観察。
全部を運べないなら、残すものを選ぶ。
宿屋の排水記録。白石と壁材の記録。泥団子の乾燥。粘土の選別。初めての窯入れで生まれた破片。火の地図。土魔術で感じた粒や湿りの記録。
成功品だけを見せても、分からないことは伝わらない。
どこで迷い、何を見落とし、何をまだ説明できないのか。その筋道を残さなければ、フェルド老師に会っても、珍しい土を抱えた子供で終わってしまう。
まず、宿屋の裏口の記録を一冊にまとめた。
水の道、沈み場、枝柵、浅鉢、点検板。五歳のころの字は拙く、紙の端も汚れている。だがそこには、ソーマが初めて誰かの暮らしを少しでも楽にしようと考えた跡があった。
次に、白石と壁材の記録を選ぶ。
熱を持つ粉。水を一気に入れないこと。厚塗りは割れやすいこと。藁はひびを止めるが、多すぎれば隙間になること。
泥団子と粘土の記録もまとめた。
黒土は崩れやすい。粘土は縮む。砂は器の骨になる。よく伸びる土ほど、乾くと割れやすい。
最後に、陶器の記録を重ねる。
乾くと縮む。中の湿りは見えない。焼くと割れる。残っても水を吸う。窯の場所で色も硬さも変わる。
試料箱は、四つから一つへ減らした。
庭の粘土。川砂。白い崖下で、白石の筋や粉の多い場所を避けて採った崩土の試料。
初めて残った炭置き皿については、当時の配合を書いた木札と、それを基準に後から作った比較用の乾燥片を選んだ。当時と同じ土はもう残っていない。だからこそ、同じものではないと分かるように記録と一緒に持っていく。
さらに、乾燥の確認で割った厚手の試験片と、炭置き皿と同じ窯入れで割れた試験皿の破片も包んだ。
入らないものは置いていく。
その選別は、思ったより苦しかった。
リナが来たのは、作業の途中だった。
十四歳になった彼女は、もう小さな宿屋の娘というより、店を支える若い働き手の顔をしている。けれど今日は、胸の前で包みを抱え、どこか落ち着かない目をしていた。
「本当に行くの?」
「はい」
ソーマは試料箱の蓋を閉じた。
「ラウゼンまで、馬車で何日だっけ」
「天気がよければ四日です。途中で泊まるので、五日ほど見ているそうです」
「遠いね」
「はい」
それだけの言葉で、部屋が静かになった。
リナは机の端に置かれた紙を見た。藁を混ぜる作業の手順板を、読みやすく書き直した写しだった。
「これも持っていくの?」
「写しだけです。元の板は宿に残した方がいいので」
「うん。あれ、まだ使ってる」
リナは少し笑った。
「炭置き皿も、まだ割れてないよ」
「水に濡れてはいませんか」
「濡らしてない。トマが、炭だけ入れるって今でも見てる」
その言葉に、ソーマは小さく息をついた。
トマも、リナも、グレッグも、もうソーマがいなくても宿の裏口を見られる。うれしいことだった。
リナは抱えていた包みを差し出した。
「これ。道中で食べて」
中には、蜂蜜と木の実を混ぜた固い焼き菓子が入っていた。日持ちする菓子だ。最初に排水の手伝いをしたころ、グレッグが礼に持たせてくれたものと似ている。
「ありがとうございます」
「それと、これ」
リナは小さな木片を出した。
そこには、彼女の字でこう書かれていた。
前より大丈夫。
ソーマは木片を見つめた。
五歳のころ、宿屋の裏口で泥に足を取られながら、何度も失敗した。灰を混ぜて泥を悪化させ、浅鉢をあふれさせ、雨を見落とした。
完全な成功ではなかった。
それでもリナは、いつも「前より」と言った。
前より大丈夫。
前より、皿らしい。
前より便利。
その言葉が、ソーマの技術を何度も暮らしの側へ戻してくれた。
「持っていきます」
そう言うと、リナはうなずいた。
けれど、次の瞬間には唇が震えた。
「……行っちゃうんだね」
ソーマは答えようとして、言葉を失った。
行く。
その事実が、自分以外の誰かを寂しくさせるのだと、いまさらのように分かった。
「学びたいんです」
それだけを言うのが精一杯だった。
「知ってる」
リナは笑おうとした。けれどうまく笑えなかった。
「ソーマは、分からないものを見つけると、行かないと気が済まない顔をするもん」
「すみません」
「謝らないでよ」
リナは首を振った。
目元を押さえたが、涙は隠せなかった。
「寂しいだけ」
その言葉が、ソーマの胸を強く打った。
彼は研究のこと、記録のこと、フェルド老師のことばかり考えていた。期待と不安で頭がいっぱいだった。
けれどリナは、もっと単純な理由で泣いている。
友人が遠くへ行く。
それだけで、泣く理由になる。
前世でも、ソーマは人の涙にうまく触れられる人間ではなかった。いまも、どうすればいいのか分からない。
ただ、木片を大切に握った。
「手紙を書きます」
「土の話ばっかり?」
涙声で、リナが言った。
「たぶん」
「じゃあ、読めるように書いて」
「はい」
「難しい言葉ばっかりにしないで」
「はい」
「あと、皿ができたら送って」
「割れなければ」
「割れても送って」
ソーマは少しだけ笑った。
「割れた理由も書きます」
「それは、ソーマっぽい」
リナも泣きながら笑った。
その晩、鷹のくちばし亭で小さな餞別の食事が開かれた。
大げさな宴ではない。グレッグが煮込みを出し、トマが皿を運び、リナが焼き菓子を追加した。点検板のそばには、素焼きの炭置き皿が置かれている。中には炭片と短い藁、小石が入っていた。
グレッグは、ソーマに木の杯を渡した。
「ラウゼンはでかい街だ。変なやつも多い。荷物から目を離すな」
「はい」
「飯もちゃんと食え。考え込むと食べ忘れる顔をしてる」
「……はい」
「偉い先生だろうが何だろうが、危ないことを言われたら、その場で決めずに戻って考えろ」
「覚えておきます」
トマは、少し気まずそうに立っていた。
「俺、雨の日板をちゃんと見るから」
「お願いします」
「炭置き皿も濡らさない」
「助かります」
「だから、帰ってきたら、もっとちゃんとした皿を作ってくれよ」
「作れるようになれば」
「またそれかよ」
トマが笑うと、ソーマの胸も少し軽くなった。
オルグは、壁際で腕を組んだまま、最後まであまり話さなかった。
やがて、布袋を一つ差し出す。
「開けろ」
中には、三種類の砂が小袋に分けられていた。川砂、砕き砂、そして白い崖下の崩土から、白石や粉の多い粒を避けて分けた砂だ。どの袋にも、採った場所と日付が無骨な字で書かれている。
「向こうで比べろ。場所が変われば、砂も変わる」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。戻ったら、何を言われたか聞かせろ」
それは、帰ってくることを前提にした言葉だった。
ソーマは深く頭を下げた。
出発の朝、ダリオは荷をもう一度確かめた。
記録帳。試料箱。着替え。小秤。紹介状。オルグからの砂。リナの木片。焼成で割れた試験皿の破片。
多すぎるものを減らし、必要なものを選ぶ。
それは研究と同じだった。
屋敷の前には、父が手配した馬車が待っていた。御者のマルクと、護衛を兼ねる従者のセドが、荷台の紐を確かめている。
「ラウゼンでは、まず私の知己の家に滞在する。フェルド老師のところへは、紹介状を持って行きなさい」
「はい」
「ただし、師になってもらえるかどうかは、会ってから決まる」
「はい」
「教えを請うこと。断られることもある」
ソーマはうなずいた。
フェルド老師が記録帳を見て笑うかもしれない。何も教えてくれないかもしれない。七年分の記録を、子供の泥遊びだと言うかもしれない。
それでも行く。
ダリオは、少しだけ表情を和らげた。
「五歳の君は、庭の水たまりを見ていた」
「はい」
「いまの君は、町の外へ土を学びに行く」
ソーマは父を見た。
「土属性でよかったと、まだ言い切れるほどではありません」
「言い切る必要はない」
ダリオは静かに言った。
「だが、君は土属性であることから逃げなかった。それで十分だ」
その言葉は、旅の荷よりも重く、温かかった。
ミリアは、外套の襟を直した。
「無理をしないこと。ちゃんと食べること。ちゃんと眠ること。危ない粉や火に近づくときは、大人を呼ぶこと」
「はい」
「それと、手紙を書くこと」
「はい」
母の手は少し震えていた。
ソーマはその手を見て、自分が子供であることを思い出した。前世の記憶があっても、いまの自分は十二歳の息子だ。母にとっては、遠くの都市へ行く子供にすぎない。
「行ってきます」
ミリアは小さくうなずいた。
馬車は鷹のくちばし亭の前で、一度だけ止まった。
グレッグ、トマ、リナ、宿の者たちが、朝の道に並んでいる。オルグは少し離れた場所で腕を組んでいた。
昨夜、もう別れは言ったはずだった。
それでもリナの目元は赤い。
「手紙、忘れないで」
「はい」
「土の話だけでもいいけど、元気かも書いて」
「はい」
リナは何度か息を吸ってから、笑った。
「行ってらっしゃい、ソーマ」
「行ってきます」
馬車が動き出す。
宿屋の看板が、少しずつ遠ざかる。裏口は見えない。だが、そこには点検板があり、炭置き皿があり、リナたちの日々が続いている。
ソーマは膝の上の試料箱を押さえた。
箱の中には、庭の粘土、川砂、白い崖下の崩土、比較用の乾燥片、焼成片がある。どれも小さく、地味で、世界を変えるようには見えない。
けれど、彼はもう知っている。
土は、足元にあるだけではない。
水を逃がし、壁を支え、器になり、ときに地中にまだ見ぬものを隠している。
そして土を知るには、ひとりの記録だけでは足りない。
馬車は町の門を抜けた。
ソーマは初めて、故郷の外へ土を学びに行く。
不安はある。
期待もある。
試料箱の中で、乾いた粘土片が小さく鳴った。
その音は、新しい問いが待っていることを、静かに知らせるようだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




