表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/80

第1章 第29話 記録帳の行き止まり

次回は1章最終回です。

第1章 第29話


記録帳の行き止まり


 十二歳の春、ソーマの机は土で埋まりかけていた。


 試料箱は四つになり、木札は束になり、記録紙は紐でくくっても端から反り返る。庭の粘土、川砂、白い崖下の崩土、焼いた小皿の破片、窯の端で色を変えた試験板。


 どれも捨てるには理由があり、残すにも理由があった。


 十歳の夏から二年のあいだ、ソーマは土を採り、混ぜ、乾かし、焼き続けた。


 オルグや従者の見守る範囲で崩土を少量ずつ採る。土の量と水の滴数を書く。乾燥棚の位置を書く。窯の地図に板の場所を書き込む。


 記録は、前よりずっと増えた。


 けれど、そのすべてを前にして、ソーマは初めて思った。


 自分は、何を知っているのだろうか。


 朝食を終え、母に入れてもらった温かい茶を机の端へ置く。窓の外では、庭の乾燥棚に春の風が当たっていた。かつて泥団子を並べていた棚には、今は小皿の破片と焼成試験板が置かれている。


 五歳のころに宿屋の裏口を直してから、七年が過ぎた。


 リナは宿の仕事をずいぶん任されるようになり、トマも下働きというより若い働き手の顔になった。オルグの仕事場へ行く回数は減ったが、壁材や窯のことで迷えば、今も叱られる。ダリオは、ソーマが記録に使う紙を用意してくれるようになった。


 だから、記録は増えた。


 増えすぎた。


 ソーマは一枚の記録紙を開いた。


 溜まり跡の土二、灰色の砂多め土一。日陰乾燥。ひび少ない。


 別の紙には、こうある。


 粘り土二、砂一。底割れ。黒い部分あり。


 同じ配合のように見える。


 だが、一枚目の土は雨水の溜まり跡から採ったものだ。二枚目は白い崖下の崩土だった。砂の粒も、乾燥日数も、厚みも、窯の位置も違う。


 同じ言葉で書いているのに、同じ条件ではない。


 観察。


 記録帳には、材料、成形、乾燥、焼成、結果が書かれている。だが書き方は時期によって違った。


 五歳のころは、「白い粉、危ない」とだけ書いている。七歳のころには、手触りと水へのなじみ方が増えた。十歳以降は、窯の場所、色、割れ方、乾燥試験片の断面も書くようになった。


 成長の跡ではある。


 けれど、比較するには不揃いだった。


 仮説を立てよう。


 記録を分ければ、原因候補が見えるかもしれない。


 ソーマは机の上に四つの札を置いた。


 材料。


 成形。


 乾燥。


 焼成。


 まず、割れた小皿の記録を分ける。


 縁割れは、成形か乾燥の問題かもしれない。底割れは、厚み、乾燥、火の回り方のどれかかもしれない。黒い部分は、火が十分に回らなかったのか、土の中に残ったものがあったのかもしれない。


 すぐに手が止まった。


 ひとつの失敗が、ひとつの札に入らない。


 縁割れは成形のせいかもしれない。乾燥のせいかもしれない。焼成で広がっただけかもしれない。


 分類しようとするほど、紙は机の上で散らかった。


 失敗。


 ソーマは椅子の背にもたれた。


 分類すれば分かると思った。だが、分類するための情報が足りない。五歳のころに書かなかったことを、十二歳の今になって補うことはできない。


 あのときの厚みも、乾かした日数も、火の当たり方も、もう戻らない。


 午後、リナが屋敷へ来た。


 手には小さな包みがある。宿で焼いた菓子と、点検板に使う炭を分けたものだった。彼女は机の上を見て、目を丸くする。


「すごいことになってる」


「整理しようとして、散らかりました」


「整理してたのに、前より散らかってない?」


「はい」


 リナは遠慮なく言ったが、笑わなかった。紙の山を見て、一枚を手に取る。


「これは?」


「初めて残った小皿の記録です」


「あの炭置きの?」


「はい」


「まだ使ってるよ。縁に擦れはあるけど、ひびは増えてない」


「濡らしていませんか」


「濡らしてない。トマが濡れた石を入れようとして怒られてた」


 その報告に、ソーマは少しだけ笑った。


 あの小皿は、まだ使われている。


 不完全だが、用途に合えば生き残る。そう学んだはずだった。


 だが、机の上の記録は、どれも失敗の理由を求めて沈んでいる。


「同じものを、もう一度作れないんです」


 ソーマは言った。


 リナは紙を置いた。


「炭置き皿?」


「はい。似たものはできます。でも、同じようには残りません。割れたり、火が十分に通らなかったり、歪んだりします」


「一枚目も歪んでるけど」


「それすら同じにできません」


 言葉にすると、胸の奥が重くなった。


 リナは机の上の木札を指でそろえた。


「じゃあ、何が違うか分からないの?」


「違うところが多すぎます」


 材料が違う。水が違う。練りが違う。厚みが違う。乾燥が違う。窯が違う。置き場所が違う。


 全部が少しずつ違う。


 そして、その少しずつ違いの結果、小皿は割れた。


 その日の夕方、ソーマは当時の配合を基準にした比較試験を始めた。


 初めて残った小皿に使った、雨水の溜まり跡の土は、もう当時と同じ状態では残っていない。だから、同じ場所で採った近い手触りの粘り土二杯に、灰色の砂多め土一杯を混ぜる。


 同じものを再現する試験ではない。


 昔の配合が、今の条件でどこまで近い形になるかを確かめる試験だった。


 小皿を三枚作る。さらに、同じ配合で厚みをそろえた小片を一枚作る。


 水は小匙で量り、追加した滴数を書く。木べらで混ぜる回数も書く。土魔術は、成形前に硬い塊や偏りを探すためだけに使った。


 四枚がそろうまで、できた小皿は湿らせた布の箱に置く。最後の一枚を作り終えてから、同じ板へ並べ、日陰の棚で乾かした。


 六日後、小片を割る。


 断面に濃い湿りは残っていない。


 小皿のうち一枚には、すでに縁のひびが入っていた。これは焼かない。


 残る二枚を、オルグの窯の奥の、前に試験板を置いた位置へ並べた。高さ、向き、古陶片の上に置くことをそろえる。


 それでも、二枚は同じではない。


 一枚は火の中で割れた。


 もう一枚は残ったが、初めての炭置き皿より火が十分に通らず、表面を爪でこすると粉が少しついた。


 当時の皿と同じにはならなかった。


 ソーマは窯場の端で、割れた皿と残った皿を見つめた。


 悔しかった。


 失敗した理由を少しずつ拾えるようになった分だけ、分からない部分がはっきり残る。


 オルグは隣で腕を組んでいた。


「似たようにはなったな」


「同じではありません」


「同じものを作るのは難しい」


「はい」


「難しい、で止まるか」


 ソーマは顔を上げた。


 オルグは割れた皿ではなく、ソーマの記録帳を見ていた。


「おまえの記録は、悪くない。だが、独りで増やしすぎた。どこを見るか決める前に、全部見ようとしてる」


「全部、関係しているので」


「関係してる。だから順番が要る」


 順番。


 ソーマはその言葉を記録紙に書こうとして、手を止めた。


 何から見るべきか。


 それが分からないのだ。


 材料か。乾燥か。厚みか。火か。水か。土魔術の使い方か。


 全部が関係していると分かるほど、手が止まる。


 屋敷に戻ると、ダリオが書斎で待っていた。


 ソーマは記録帳と、比較試験に使った小皿の破片を机に置いた。父はそれを見て、すぐには何も言わなかった。


「なぜ割れたか、説明できるか」


「一部なら」


「なぜ残ったかは」


「……説明できません」


 その言葉を口にするのは、思ったよりつらかった。


 割れたものの理由は少し分かる。厚み。乾燥。火。


 だが、残ったものがなぜ残ったかは、偶然としか言えない部分が大きい。偶然を技術とは呼べない。


 ダリオは静かにうなずいた。


「それが限界か」


「僕の独学では、たぶん」


 初めて、そう言った。


 独学の限界。


 前世の知識はあった。観察もした。土魔術も上達した。オルグやリナたちにも支えられた。


 だが、体系がない。記録の作法も、実験の順序も、窯の熱を読む方法も、材料をそろえる方法も、すべて手探りだった。


 手探りでここまで来た。


 だが、ここから先も同じようには進めない。


 ダリオは机の上の記録紙を一枚取った。


「これは、いつの記録だ」


「五歳のころです。宿屋の白い壁材が割れたときのものです」


「こちらは」


「十歳の小皿です」


「同じようなことを書いているな」


「はい。厚いと割れる。乾き方が違うと割れる。外だけでは分からない」


 ダリオは紙を戻した。


「君は、同じ問いを形を変えて見てきたのだな」


 ソーマは黙った。


 水の道。白石。泥団子。壁材。粘土。小皿。


 全部、別のもののようでいて、同じ問いが繰り返し出てくる。分けること。混ぜること。乾かすこと。焼くこと。中を見ること。記録すること。


 だが、それらをひとつの形にできない。


 夜、ソーマは自室で記録帳を開いた。


 机の上には、割れた小皿、火の地図、試料箱の木札、白い崖下の粘土片がある。どれも、自分が積み上げてきたものだ。


 それなのに、道が見えない。


 ソーマは記録紙の最後に書いた。


 記録は増えた。


 原因候補は増えた。


 だが、見る順番が分からない。


 同じ条件をそろえられない。


 残った理由を説明できない。


 独学の限界。


 書いてから、しばらく筆を置けなかった。


 その言葉は敗北のようだった。


 けれど、少し違う気もした。


 限界が見えたということは、そこまで来たということでもある。


 五歳のころは、自分がどこに立っているのかも分からなかった。今は、少なくとも何をそろえられず、何を記録できていないのかが見える。


 問題は、その先へどう進むかだった。


 翌朝、オルグが屋敷へ来た。


 珍しいことだった。彼は庭の練習場を見て、乾燥棚の割れた小皿を眺め、最後にソーマの記録帳を手に取った。


「おまえはもう、壁屋の手だけでは足りん」


 ソーマは顔を上げた。


「オルグ親方でも、分からないことですか」


「分かることもある。だが、おまえが知りたいのは、壁屋の仕事より広い。土、火、水、金属、粉、記録。そういうものをまとめて扱う連中がいる」


「錬金術師、ですか」


 その言葉は、どこか遠いものだった。


 黄金を作る怪しい術師。貴族を騙す者。薬を煮る偏屈者。町の噂では、そんなふうに語られることも多い。


 オルグは鼻を鳴らした。


「まともな奴は少ない」


「少ないんですか」


「少ない。だが、ひとり知ってる。まともかどうかは知らんが、記録と反応にうるさい老人だ」


 ソーマは息を止めた。


 オルグはそこで名前を出さなかった。


 ただ、ダリオの方を見た。


 父は静かにうなずいた。


「その話は、今夜しよう」


 ソーマの胸が、強く鳴った。


 記録帳は行き止まりに来た。


 だが、行き止まりの向こうに、誰かの名前があるらしい。


 そのことが怖くもあり、少しだけ救いでもあった。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ