第1章 第29話 記録帳の行き止まり
次回は1章最終回です。
第1章 第29話
記録帳の行き止まり
十二歳の春、ソーマの机は土で埋まりかけていた。
試料箱は四つになり、木札は束になり、記録紙は紐でくくっても端から反り返る。庭の粘土、川砂、白い崖下の崩土、焼いた小皿の破片、窯の端で色を変えた試験板。
どれも捨てるには理由があり、残すにも理由があった。
十歳の夏から二年のあいだ、ソーマは土を採り、混ぜ、乾かし、焼き続けた。
オルグや従者の見守る範囲で崩土を少量ずつ採る。土の量と水の滴数を書く。乾燥棚の位置を書く。窯の地図に板の場所を書き込む。
記録は、前よりずっと増えた。
けれど、そのすべてを前にして、ソーマは初めて思った。
自分は、何を知っているのだろうか。
朝食を終え、母に入れてもらった温かい茶を机の端へ置く。窓の外では、庭の乾燥棚に春の風が当たっていた。かつて泥団子を並べていた棚には、今は小皿の破片と焼成試験板が置かれている。
五歳のころに宿屋の裏口を直してから、七年が過ぎた。
リナは宿の仕事をずいぶん任されるようになり、トマも下働きというより若い働き手の顔になった。オルグの仕事場へ行く回数は減ったが、壁材や窯のことで迷えば、今も叱られる。ダリオは、ソーマが記録に使う紙を用意してくれるようになった。
だから、記録は増えた。
増えすぎた。
ソーマは一枚の記録紙を開いた。
溜まり跡の土二、灰色の砂多め土一。日陰乾燥。ひび少ない。
別の紙には、こうある。
粘り土二、砂一。底割れ。黒い部分あり。
同じ配合のように見える。
だが、一枚目の土は雨水の溜まり跡から採ったものだ。二枚目は白い崖下の崩土だった。砂の粒も、乾燥日数も、厚みも、窯の位置も違う。
同じ言葉で書いているのに、同じ条件ではない。
観察。
記録帳には、材料、成形、乾燥、焼成、結果が書かれている。だが書き方は時期によって違った。
五歳のころは、「白い粉、危ない」とだけ書いている。七歳のころには、手触りと水へのなじみ方が増えた。十歳以降は、窯の場所、色、割れ方、乾燥試験片の断面も書くようになった。
成長の跡ではある。
けれど、比較するには不揃いだった。
仮説を立てよう。
記録を分ければ、原因候補が見えるかもしれない。
ソーマは机の上に四つの札を置いた。
材料。
成形。
乾燥。
焼成。
まず、割れた小皿の記録を分ける。
縁割れは、成形か乾燥の問題かもしれない。底割れは、厚み、乾燥、火の回り方のどれかかもしれない。黒い部分は、火が十分に回らなかったのか、土の中に残ったものがあったのかもしれない。
すぐに手が止まった。
ひとつの失敗が、ひとつの札に入らない。
縁割れは成形のせいかもしれない。乾燥のせいかもしれない。焼成で広がっただけかもしれない。
分類しようとするほど、紙は机の上で散らかった。
失敗。
ソーマは椅子の背にもたれた。
分類すれば分かると思った。だが、分類するための情報が足りない。五歳のころに書かなかったことを、十二歳の今になって補うことはできない。
あのときの厚みも、乾かした日数も、火の当たり方も、もう戻らない。
午後、リナが屋敷へ来た。
手には小さな包みがある。宿で焼いた菓子と、点検板に使う炭を分けたものだった。彼女は机の上を見て、目を丸くする。
「すごいことになってる」
「整理しようとして、散らかりました」
「整理してたのに、前より散らかってない?」
「はい」
リナは遠慮なく言ったが、笑わなかった。紙の山を見て、一枚を手に取る。
「これは?」
「初めて残った小皿の記録です」
「あの炭置きの?」
「はい」
「まだ使ってるよ。縁に擦れはあるけど、ひびは増えてない」
「濡らしていませんか」
「濡らしてない。トマが濡れた石を入れようとして怒られてた」
その報告に、ソーマは少しだけ笑った。
あの小皿は、まだ使われている。
不完全だが、用途に合えば生き残る。そう学んだはずだった。
だが、机の上の記録は、どれも失敗の理由を求めて沈んでいる。
「同じものを、もう一度作れないんです」
ソーマは言った。
リナは紙を置いた。
「炭置き皿?」
「はい。似たものはできます。でも、同じようには残りません。割れたり、火が十分に通らなかったり、歪んだりします」
「一枚目も歪んでるけど」
「それすら同じにできません」
言葉にすると、胸の奥が重くなった。
リナは机の上の木札を指でそろえた。
「じゃあ、何が違うか分からないの?」
「違うところが多すぎます」
材料が違う。水が違う。練りが違う。厚みが違う。乾燥が違う。窯が違う。置き場所が違う。
全部が少しずつ違う。
そして、その少しずつ違いの結果、小皿は割れた。
その日の夕方、ソーマは当時の配合を基準にした比較試験を始めた。
初めて残った小皿に使った、雨水の溜まり跡の土は、もう当時と同じ状態では残っていない。だから、同じ場所で採った近い手触りの粘り土二杯に、灰色の砂多め土一杯を混ぜる。
同じものを再現する試験ではない。
昔の配合が、今の条件でどこまで近い形になるかを確かめる試験だった。
小皿を三枚作る。さらに、同じ配合で厚みをそろえた小片を一枚作る。
水は小匙で量り、追加した滴数を書く。木べらで混ぜる回数も書く。土魔術は、成形前に硬い塊や偏りを探すためだけに使った。
四枚がそろうまで、できた小皿は湿らせた布の箱に置く。最後の一枚を作り終えてから、同じ板へ並べ、日陰の棚で乾かした。
六日後、小片を割る。
断面に濃い湿りは残っていない。
小皿のうち一枚には、すでに縁のひびが入っていた。これは焼かない。
残る二枚を、オルグの窯の奥の、前に試験板を置いた位置へ並べた。高さ、向き、古陶片の上に置くことをそろえる。
それでも、二枚は同じではない。
一枚は火の中で割れた。
もう一枚は残ったが、初めての炭置き皿より火が十分に通らず、表面を爪でこすると粉が少しついた。
当時の皿と同じにはならなかった。
ソーマは窯場の端で、割れた皿と残った皿を見つめた。
悔しかった。
失敗した理由を少しずつ拾えるようになった分だけ、分からない部分がはっきり残る。
オルグは隣で腕を組んでいた。
「似たようにはなったな」
「同じではありません」
「同じものを作るのは難しい」
「はい」
「難しい、で止まるか」
ソーマは顔を上げた。
オルグは割れた皿ではなく、ソーマの記録帳を見ていた。
「おまえの記録は、悪くない。だが、独りで増やしすぎた。どこを見るか決める前に、全部見ようとしてる」
「全部、関係しているので」
「関係してる。だから順番が要る」
順番。
ソーマはその言葉を記録紙に書こうとして、手を止めた。
何から見るべきか。
それが分からないのだ。
材料か。乾燥か。厚みか。火か。水か。土魔術の使い方か。
全部が関係していると分かるほど、手が止まる。
屋敷に戻ると、ダリオが書斎で待っていた。
ソーマは記録帳と、比較試験に使った小皿の破片を机に置いた。父はそれを見て、すぐには何も言わなかった。
「なぜ割れたか、説明できるか」
「一部なら」
「なぜ残ったかは」
「……説明できません」
その言葉を口にするのは、思ったよりつらかった。
割れたものの理由は少し分かる。厚み。乾燥。火。
だが、残ったものがなぜ残ったかは、偶然としか言えない部分が大きい。偶然を技術とは呼べない。
ダリオは静かにうなずいた。
「それが限界か」
「僕の独学では、たぶん」
初めて、そう言った。
独学の限界。
前世の知識はあった。観察もした。土魔術も上達した。オルグやリナたちにも支えられた。
だが、体系がない。記録の作法も、実験の順序も、窯の熱を読む方法も、材料をそろえる方法も、すべて手探りだった。
手探りでここまで来た。
だが、ここから先も同じようには進めない。
ダリオは机の上の記録紙を一枚取った。
「これは、いつの記録だ」
「五歳のころです。宿屋の白い壁材が割れたときのものです」
「こちらは」
「十歳の小皿です」
「同じようなことを書いているな」
「はい。厚いと割れる。乾き方が違うと割れる。外だけでは分からない」
ダリオは紙を戻した。
「君は、同じ問いを形を変えて見てきたのだな」
ソーマは黙った。
水の道。白石。泥団子。壁材。粘土。小皿。
全部、別のもののようでいて、同じ問いが繰り返し出てくる。分けること。混ぜること。乾かすこと。焼くこと。中を見ること。記録すること。
だが、それらをひとつの形にできない。
夜、ソーマは自室で記録帳を開いた。
机の上には、割れた小皿、火の地図、試料箱の木札、白い崖下の粘土片がある。どれも、自分が積み上げてきたものだ。
それなのに、道が見えない。
ソーマは記録紙の最後に書いた。
記録は増えた。
原因候補は増えた。
だが、見る順番が分からない。
同じ条件をそろえられない。
残った理由を説明できない。
独学の限界。
書いてから、しばらく筆を置けなかった。
その言葉は敗北のようだった。
けれど、少し違う気もした。
限界が見えたということは、そこまで来たということでもある。
五歳のころは、自分がどこに立っているのかも分からなかった。今は、少なくとも何をそろえられず、何を記録できていないのかが見える。
問題は、その先へどう進むかだった。
翌朝、オルグが屋敷へ来た。
珍しいことだった。彼は庭の練習場を見て、乾燥棚の割れた小皿を眺め、最後にソーマの記録帳を手に取った。
「おまえはもう、壁屋の手だけでは足りん」
ソーマは顔を上げた。
「オルグ親方でも、分からないことですか」
「分かることもある。だが、おまえが知りたいのは、壁屋の仕事より広い。土、火、水、金属、粉、記録。そういうものをまとめて扱う連中がいる」
「錬金術師、ですか」
その言葉は、どこか遠いものだった。
黄金を作る怪しい術師。貴族を騙す者。薬を煮る偏屈者。町の噂では、そんなふうに語られることも多い。
オルグは鼻を鳴らした。
「まともな奴は少ない」
「少ないんですか」
「少ない。だが、ひとり知ってる。まともかどうかは知らんが、記録と反応にうるさい老人だ」
ソーマは息を止めた。
オルグはそこで名前を出さなかった。
ただ、ダリオの方を見た。
父は静かにうなずいた。
「その話は、今夜しよう」
ソーマの胸が、強く鳴った。
記録帳は行き止まりに来た。
だが、行き止まりの向こうに、誰かの名前があるらしい。
そのことが怖くもあり、少しだけ救いでもあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。
感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




