第1章 第25話 割れた器
第1章 第25話
割れた器
小皿を火に入れる朝、ソーマはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。庭の乾燥棚には、夜露を避けるための布がかかっている。その下には三枚の小皿があった。
一枚は、最初に形を保った本命の皿。二枚は、割って断面を見るために作った試験用の皿だ。
十分に待ったつもりだった。布を替え、風を避け、日差しを急がせず、同じ配合の厚い試験片を割って中を確かめた。
それでも、火の前では、その「つもり」が急に頼りなくなる。
朝食のあと、ソーマは棚の前に木札と小秤を並べた。
まず色を見る。三枚とも、縁も底も明るい。濃く湿った部分は見当たらない。
次に重さを見る。小皿そのものを正確に量るには小秤が小さすぎるため、同じ配合、同じくらいの厚みで作った小片を毎日量っていた。小片の重さは、二日前からほとんど変わっていない。
音も確かめる。試験用の皿を爪で軽く叩くと、こつ、と硬い音がした。湿った粘土を叩いたときの、鈍く重い音ではない。
最後に、土魔術を使う。
手をかざし、形を動かさずに反応だけを確かめる。本命の皿の底には、縁より強い抵抗が残っていた。だが、それが底の厚みなのか、わずかに残る水分なのか、ソーマにはまだ区別できない。
ソーマは木札に書いた。
乾燥判定。色は明るい。小片の重さは安定。音は硬い。皿底の抵抗は強い。土魔術だけでは判断できない。
そして、試験用の一枚を割った。
割るために作った皿だった。そう分かっていても、指に力を入れる瞬間、胸が痛んだ。
小皿は小さな音を立てて二つに割れた。断面は外側も中心も、ほぼ同じ色をしている。濡れた筋は見当たらない。
ソーマは長く息を吐いた。
完全に同じ形ではない。それでも、本命と同じ配合で、近い厚みに作った皿の中心が乾いている。
焼いてみる価値はある。
ただし、割れないとは言えない。
棚に残ったのは、本命の一枚と、もう一枚の試験用の皿だった。
昼前、ソーマはその二枚を藁で囲った小箱へ入れた。箱の中で皿が触れ合わないよう、間に布を挟む。従者が持とうとしたが、ソーマは自分で抱えた。
落とせば割れる。そう分かっていても、人へ渡す気にはなれなかった。
窯場では、小さな火の準備が進んでいた。
今日は白石や白い崖の砂を焼く日ではない。オルグが、古い陶片と普通の土の試験片を窯の端で焼き、火の回り方を見るための小さな火だった。
大きな窯の中心は熱が強すぎる。小皿を置くのは、火口から離れた端の低い場所である。それでも火である以上、割れる可能性は消えない。
オルグは小箱を開けると、二枚の小皿を見比べた。
「二枚か」
「一枚は本命です。もう一枚は、焼成の試験です」
「さっき、一枚割ったんだな」
「はい。中心に濡れた筋はありませんでした」
オルグは二枚を持ち上げず、縁と底を目で確かめた。
「乾いてはいるように見える。だが、見えることと、無事に焼けることは別だ」
「はい」
「割れると思って置け」
その言葉に、ソーマは小さくうなずいた。
思っている。けれど、思いたくない。
その両方が胸にあった。
観察。
窯の端でも、熱は一様ではない。窯口に近ければ風が入り、奥へ寄れば熱がこもる。下からの熱、横からの熱、薪がはぜたときの熱。
けれど今日の二枚は、窯内の場所を比べるための試験ではない。成形も乾燥の始まりも完全には同じでない二枚から、置き場所だけの違いを結論づけることはできなかった。
今日は、低い火で焼くと土がどう変わるかを知るための初焼成だ。
オルグは、平たい古陶片を一枚、窯の端へ敷いた。その上に二枚を並べる。間は指二本分ほど空け、火口からの距離と高さはできるだけそろえた。
「最初からここに置く。途中で動かすな」
「はい」
「熱いものを動かせば、それだけ割れる理由を増やす」
火が入った。
最初のうちは、何も起きなかった。薪の煙が白く流れ、熱がゆっくりと窯の奥へ回っていく。ソーマは線の外に立ち、手を握りしめた。窯の前は熱く、頬が乾く。木の燃えるにおいと、土から抜ける湿り気のにおいが混じる。
待つしかない。
それが、一番難しかった。
しばらくして、試験用の皿から小さな音がした。
ぱき。
大きな音ではなかった。だが、ソーマには胸の内側で何かが割れたように聞こえた。
「一枚、いったな」
オルグが言った。
ソーマは息を止めた。
まだ取り出せない。熱い。見えない。割れたのが縁だけなのか、底まで裂けたのかも分からない。
反射的に一歩前へ出かけたソーマの肩を、オルグが押さえた。
「近づくな」
「でも」
「今行っても何もできん。顔を焼くか、欠片を浴びるだけだ」
ソーマは足を止めた。
待って、乾かして、試験用の皿を割って、慎重に置いた。それでも割れる。
手を出せばもっと悪くなると分かっているのに、何かしたい気持ちだけが残る。
悔しさが、喉の奥まで上がった。
オルグは窯を見つめたまま言った。
「待ったから割れない、とはならん」
「……はい」
「待たなければ、もっと悪いだけだ」
その言葉は慰めではなかった。
だから、胸に残った。
焼成は続いた。
本命の小皿からは、音がしなかった。少なくとも、ソーマの耳には聞こえなかった。だが、だから無事だとは限らない。窯の中で静かにひびが入っているかもしれない。底がゆがみ、縁が反っているかもしれない。
火が落ち、灰が赤みを失うまで待つ。
さらに、窯が冷めるまで待つ。
熱いまま取り出せば、外の冷たい空気で割れるかもしれない。急に冷やすことも、土へ余計な負担をかける。
夕方近く、ようやく窯の端から二枚が取り出された。
試験用の皿は、縁から底へ斜めに裂けていた。割れ目の近くには黒っぽい部分が残っている。
黒い部分が残水のせいなのか、火の回り方や空気の入り方のせいなのか、今のソーマには決められない。形の違いも、乾き方の違いもあったはずだ。
分からないことは、分からないまま記録する。
そして本命の小皿は、割れていなかった。
ただし、皿と呼ぶには歪んでいた。
片側の縁がわずかに下がり、底は完全には平らではない。色も均一ではなく、窯の奥を向いていた側が少し赤みを帯び、手前側には灰色が残っている。
指で叩くと、こつ、と硬い音がした。
前世の言葉が浮かんだ。
素焼き。
これは完成した食器ではない。水を長く入れれば染みるかもしれない。強くぶつければ割れるだろう。食卓へ出せるものかどうかは、まだ確かめていない。
けれど、泥には戻らない。
ソーマは小皿を見つめた。
手が震えていた。
嬉しいのか、悔しいのか、すぐには分からなかった。
三枚のうち、一枚は乾燥を見るために割った。一枚は火の中で割れた。残った一枚も歪んでいる。
それでも、残った。
オルグは割れた皿の断面を見て、低く言った。
「今日は、割れた理由を一つに決めるな」
「はい」
「厚みか、乾きか、火の回りか。次に一つずつ減らして見ろ」
ソーマは黙ってうなずいた。
炉内の熱も、皿の厚みも、乾き方も、まだ思うようにはそろえられない。
技術は、またひとつ複雑になった。
帰り道、ソーマは残った小皿と割れた二枚を布で包んで持った。
割れたものも捨てない。断面を見るためだ。乾燥を見るために割った一枚と、火の中で割れた一枚。その違いを書き残さなければならない。
屋敷へ戻る前に、鷹のくちばし亭へ寄った。
リナは、夕方の仕込みを手伝っていた。ソーマの顔を見るなり、手を拭いて裏口へ出てくる。
「焼いた?」
「はい」
「どうだった?」
ソーマは布を開いた。
まず、二つに割れた試験用の皿を見せる。次に、乾燥を見るために割ったもう一枚の断面を見せた。
最後に、歪んだ小皿を取り出した。
リナはしばらく黙っていた。夕方の光が、小皿の不揃いな縁に当たり、赤みと灰色がまだらに見えた。
「残った」
「はい。ただ、食器として使えるかは、まだ分かりません。水が染みるかもしれません」
「でも、残った」
リナはもう一度言った。
その声に、ソーマは胸が詰まった。
ソーマは失敗の数を見ていた。割れたこと。ゆがんだこと。色がそろわないこと。火の強さを量れないこと。次も同じ結果になるとは言えないこと。
リナは、残った一枚を見ていた。
どちらも正しい。
「触っていい?」
「落とさなければ」
リナは両手で受け取った。かつて欠け皿を見せたときと同じように、慎重に縁を見た。指先で軽く叩き、少し笑う。
「前より皿」
ソーマは思わず息を漏らした。
「まだ、前より、です」
「うん。でも、前より皿」
その言葉だけで、少し救われた。
夜、ソーマは記録紙を広げた。
初焼成。低い火の窯端。二枚。
本命、残る。歪み。色むら。食器としての可否は未確認。
試験用、火の中で割れる。黒い部分あり。原因は判断できない。
別の試験用一枚、焼成前に割る。中心に濡れた筋なし。
待っても割れる。待たなければ、もっと割れる。
次は、厚み、乾燥、火の回り方を一つずつ確かめる。
書いているうちに、悔しさがまた戻ってきた。
待った。
乾燥を見た。
試験用の皿を割った。
オルグに止められた日から、さらに待った。
それでも一枚は、火の中で割れた。
十分にやったと思ったあとの失敗は、堪えた。
だが、手元には小皿がある。
歪んだ、まだらな、弱い小皿。
それは、失敗の中に残った最初の器だった。
ソーマはその小皿を机の上に置いた。
水は、明日になってから試す。今は、火を通った土がここにあることを、静かに見ていた。
土は、火に入ってもすべてが器になるわけではない。
けれど、火を通った土は、もう泥には戻らなかった。
次に必要なのは、ただ焼くことではない。
水を受け止める器にするため、何が足りないのかを知ることだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




