第1章 第24話 火に入れる前
第1章 第24話
火に入れる前
布をかけた小皿が棚に置かれてから、さらに三日が過ぎた。
表面の色は少しずつ明るくなり、縁の波打ちもそこで止まっている。底はまだ縁よりわずかに濃く見えたが、初日にあった冷たい湿りは感じにくくなっていた。
それでもソーマは、小皿に触らなかった。
火に入れたい。
その気持ちは、指先から喉元まで、じりじりと上ってくる。五歳のころに欠けた皿を見て以来、土が水に戻らない器へ変わる瞬間を、ずっと遠くに見ていた。今、その入り口が目の前にある。
焦ってはいけない。
そう知っていても、焦りは消えなかった。
庭の乾燥棚には、小皿のほかにも試験片が並んでいる。同じ配合で作った薄い板、厚い板、厚みをそろえた小片。どれも、小皿を火に入れる前に乾き方を知るためのものだった。
小皿を焼くには、乾いたかどうかを確かめなければならない。
正確に水分を量る道具はない。けれど、見る方法は一つではなかった。
観察。
薄い板は、全体が明るい色になっている。父から借りた小秤に載せると、昨日と今日で重さがほとんど変わらない。爪で軽く叩くと、短く澄んだ音がした。
厚い板は、表面こそ乾いているが、裏側の色が少し濃い。二日前より軽くはなったものの、まだ重さが変わっている。叩いた音も、薄い板より鈍い。
厚みをそろえた小片は、その中間だった。
色。重さ。音。手に触れたときの冷たさ。
どれも手がかりにはなる。だが、一つだけで決めてはいけない。
小皿は、縁こそ明るい。けれど底は厚い。外から見て乾いていても、内側に水が残っているかもしれない。
仮説を立てよう。
厚みが違えば、乾く速さも違う。水が残ったまま火に入れれば、熱で水が急に膨らみ、皿は割れる。ひどければ、破片がはじける。
オルグは以前、そう言っていた。
昼前、オルグが屋敷の庭へ来た。
壁屋の親方は、乾燥棚の前まで来ると、まず小皿には触れずに周りを見た。日当たり、風の通り、布を渡した木枠、皿の下に敷いた板の湿り。
「焼きたい顔だな」
第一声がそれだった。
ソーマは少し黙ってから答えた。
「……はい」
「まだ早い」
オルグは即座に言った。
ソーマの胸が沈んだ。
「表面は乾いています」
「表面はな」
「重さも、昨日からあまり変わりません」
「昨日から変わらんことと、焼けることは違う」
短い言葉が、まっすぐ刺さった。
オルグは薄い板を一枚取り、爪で軽く叩いた。
こつ、と短い音がする。
次に厚い板を叩くと、音は低く、少し鈍かった。
「聞け。だが、音だけを信じるな」
「はい」
「色も見る。重さも見る。冷たさも見る。それでも迷うなら、同じ土の試験片を割る」
オルグは、小皿と同じ配合で作った厚めの小片を指した。
「これは割っていいか」
「はい。試験片です」
オルグは小片を手に取り、両手で折った。
外側は明るく乾いていた。だが断面の中央には、周りより濃い色の筋が残っている。
ソーマは息を呑んだ。
「中が、まだ湿っています」
「外だけ見ていたら分からん」
小皿そのものを割ることはできない。だから、同じ配合で、厚みの近い試験片を作り、断面を見る。
分かっていた方法だった。けれどソーマは、望ましくない答えを見るのが怖くて、厚い試験片を割るのを後回しにしていた。
焦りは、観察を遅らせることもある。
ソーマは木札に書いた。
厚片、中心湿り。小皿の底も危険。
「土魔術では分からんのか」
オルグが尋ねた。
ソーマは小皿へ手をかざした。
動かさない。形を整えない。中をのぞこうとして、力を押し込まない。
底の中心は、縁より抵抗が強く感じられる。だが、それが厚みのためなのか、水分のためなのか、今のソーマには区別できない。
「少しは感じます。でも、厚いことと湿っていることが、まだ同じように感じます」
「なら、曖昧なまま火に入れるな」
「はい」
土魔術は万能ではない。
砂利と細かな土を選り分けることはできる。粗い粒や混ざり残りを確かめることもできる。けれど、皿の底の内側に残る水分を、確実に見抜くほどではない。
だから、最後の判断を土魔術だけへ任せてはいけない。
色や重さ、試験片の断面と照らし合わせる。そのうえで、分からないなら待つ。
オルグはうなずいた。
「今日は焼くな」
「はい」
「風が片側だけに当たらんようにしろ。布が湿ったら替えろ。皿の下に湿りが残るなら、硬くなるまで台は替えるな」
ソーマは書き留めた。
片側風。布の湿り。台の湿り。動かさない。
「それと、焼く前にもう二枚作れ」
ソーマは顔を上げた。
「二枚、ですか」
「本命を割りたくないんだろう。なら、割るための皿を作れ。同じ形に近づける練習にもなる」
壊すための皿を作る。
皿を作りたい気持ちからすれば、少し残酷に聞こえる。けれど、壊さなければ分からないことがある。
「作ります」
その日、小皿は焼かなかった。
ソーマは、基準にしている配合を同じ木匙で量った。溜まり跡の土二杯、灰色の砂多め土一杯。水も前回と同じ滴数だけ加え、木べらで混ぜる回数をそろえる。
まず、木枠の高さまで粘土板をのばす。
そこで土魔術を、ごく弱く使った。皿の形になってから厚みを直すのではない。板の段階で、硬い塊や粗い粒の偏りを探す。抵抗が強い場所は、まだ縁を立てる前に木べらでならし、必要なら練り直す。
最初に作った一枚は、底の中央に偏りを感じた。
ソーマは皿の形にせず、もう一度板へ戻して練り直した。
形になってから無理に直せば、薄い縁が沈み、全体がゆがむ。形になる前に偏りを減らす方が、ずっと安定する。
二枚の試験用小皿を作り終えるまでに、昼が過ぎた。
どちらも本命の皿と同じ丸い木板を目安にして、直径をそろえた。底と縁の厚みは木枠で確かめる。完全に同じにはならない。それでも、以前より差は小さい。
オルグは二枚を見比べた。
「同じに作るのは難しいだろ」
「はい」
「だから職人は、何枚も作る。手が覚えるまで作る」
ソーマは、二枚の試験用小皿を見た。
似ている。けれど同じではない。縁の高さ、底の厚み、くぼみの深さ。ほんの少しの違いが、乾燥にも焼成にも影響する。
それでも、同じものを作ろうとしなければ、違いを比べることもできない。
ソーマは本命の小皿と試験用の二枚へ、それぞれ木札を付けた。
本命一。
試験二。
試験三。
試験用の二枚には、乾かし始めた時刻と、厚みの記録も添えた。本命とは乾かし始めた日が違う。その差を忘れないためだった。
それから八日、ソーマは毎朝、三枚と試験片を見た。
布を替える。風向きを確かめる。色を見る。小秤で小片の重さを量る。厚い試験片を一つずつ割り、断面に濃い筋が残らないかを見る。
待つことは、何もしないことではなかった。
夕方、リナが庭へ来た。棚に小皿が三枚並んでいるのを見て、目を丸くする。
「増えてる」
「二枚は、割るための皿です」
「皿なのに?」
「本命を火に入れる前に、中まで乾いているか確かめるためです」
リナは少し眉を下げた。
「もったいない」
「僕もそう思います。でも、割らないと中が分かりません」
「じゃあ、本命のための皿?」
「そうです」
リナはしばらく三枚を見ていた。
「皿を作るのに、皿を壊すんだね」
「はい」
「変なの」
「はい」
けれど、それが必要だった。
その夜、ソーマは記録紙に書いた。
本命一。初回の皿。乾燥継続。
試験二、三。割って断面を見る。
土魔術は、成形後の修正より、成形前の偏りを減らすために使う。
乾燥判定は、色、重さ、音、試験片の断面を合わせて行う。
分からないなら、焼かない。
最後の一文を書いたとき、手が止まった。
焼かない。
それは何かをすることではなく、しないことだった。だが、火の前で待つためには、確かな理由と、確かな手順が要る。
庭の乾燥棚で、本命の小皿と、割るための二枚の小皿が、静かに乾いていた。
火は待っている。
そして待つ間にも、土はゆっくりと縮み続けていた。
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また次話でお会いしましょう!




