第4章 第125話 王都の小さな畑
第4章 第125話
王都の小さな畑
春の初め、王立錬金院の裏畑には、小さな札が並んでいた。
何もしない区画。
土だけを耕した区画。
白い結晶を少しだけ使った区画。
札はどれも同じ大きさで、文字も同じ形だ。
違いがあるのは、土の中だけだった。
「今日、植えるの?」
セラが尋ねた。
「今日、植えます」
ソーマは答えた。
ナーシャが持ってきたのは、育ちの早い青菜の種だった。王都の市場でも手に入る、特別ではない普通の種だという。
「特別な種を使うと、種が良かったのか土が良かったのか、分からなくなるわ」
ナーシャは言った。
「普通のものが、普通に育つかを見る方が先ね」
畑の世話を引き受けてくれたのは、錬金院で薬草を管理している年配の女性だった。彼女は札を読み、少し心配そうに笑った。
「土へ混ぜるものが増えると、畑の周りが急に賑やかになりますね」
「問題があれば、すぐに止めます」
ソーマが言うと、女性は頷いた。
「止めても良いならなら、試していいです」
白い結晶を扱う人は、土を耕す人とは別の人にした。
ナーシャが箱を開け、必要な分だけを小さな器へ移す。ソーマは少し離れた場所で、その量を帳面へ写す。セラは使った器に印を付け、ハンナは区画の番号を確かめた。
手順は順調だった。
皆んな落ち着いている。
結晶を土へ混ぜ込んだあと、世話役の女性が水を撒いた。
「これでいいんですか」
ソーマは訊いた。
「今は、これでいいです」
女性は答えた。
「畑では結果はすぐには出ないです。水をやって、数日経てば、芽が出るでしょう。それまでは待ちましょう」
ソーマは、魔法で土の中を読もうとした。
けれど、植えたばかりの畑には、昨日までと同じ土しかない。
目的を書いてから、薄く魔力を流す。
右の区画は乾きやすい。
左の端は締まりやすい。
結晶を入れた区画に、今すぐ違いは見えない。
それを、そのまま帳面へ書いた。
「何も分からないのですか」
セラが訊く。
「今は、何も変化は見られませんでした」
ソーマは答えた。
「でも、前の土がどうだったかの記録は残せます」
それがあれば、芽が出た時に比較できるだろう。
畑の世話は、植えた翌日から始まった。
水をやる者。
札を確かめる者。
芽の数を数える者。
土の表面が乾きすぎていないかを見る者。
誰か一人の手に任せれば早いかもしれない。けれど、畑の違いを記録に残すのなら、何をしたかも記録しなければならない。
世話役の女性は、朝のうちに小さな板へ印を付けた。
「今日は、左だけ水が早く乾いた」
「昨日は、中央の草を多く抜いた」
短い言葉だ。
だが、それがなければ、芽の色が変わった時に、理由を述べられない。
ソーマは、土魔法で畑を読む前に、その板を必ず見た。
雨が降った次の日は、魔法で湿り気を読んでも、結晶の影響だとは言えない。世話役が水を多くやった日も同じである。
十日ほど経つと、区画ごとの芽の数に、わずかな違いが出始めた。
結晶を使った区画には、葉が二枚になった芽が多い。
何もしない区画には、芽が出ていない場所がいくつかある。
けれど、土を耕したが結晶は使っていない区画も、結晶を使った区画より少ないし、色が薄い。
「白い結晶が効いたのかな」
手伝いの女性が言った。
ソーマは畑へしゃがみ込んだ。
濃い緑の芽は、確かにきれいに見える。
前世の知識が、早く答えを出せと背中を押す。
けれど、近くの札には、三日前に結晶の区画だけ水が少し多く撒いたと書かれていた。低い場所で、水が残りやすいことも、最初の地図に残っている。
「まだ分かりません」
ソーマは答えた。
「芽が多いことは記録します。でも、結晶の効果だとは、まだ書けません。この後に芽が出るかもしれません」
女性は少し残念そうにしたが、すぐに頷いた。
「待つんだね」
「はい」
「畑なら、それがソーマにとって一番難しい仕事かもしれないね」
ナーシャは笑って、芽の間へ小さな棒を立てた。
「待っている間にも、虫は来るし、雨は降る。何もしないことと、見ていないことは違うんだよ」
その言葉を聞いて、ソーマは帳面の記録を再開した。
午後、エリシアが畑へ来た。
彼女は紙へ描かれた区画図と、実際の芽を何度も見比べる。
「ここだけ、芽の色が濃いですね」
「濃く見えます」
ソーマは言った。
「そう書きました」
「見えます、ではなく、濃いのではありませんか」
エリシアは少し首を傾げた。
「濃いかもしれません。でも、朝と夕方で見え方も違います。フェルド老師の光がない時は、同じ緑でも違って見えます」
エリシアは一度、黙った。
それから、畑の横に白い板を立てた。
「では、明日から、ここに置いて比べましょう。同じ明るさで見られるように」
ソーマは笑った。
「また、比べるものが増えますね」
「増やしても、比較した方が良いこともあります」
エリシアは答えた。
その言葉に、ソーマは頷いた。
魔法の地図も、畑の地図も何が違うのかを、後から確かめられるためのものだ。
封書を開く前、ソーマは畑をもう一度見た。
芽は小さい。
まだ、食べられるほどには育っていない。
結晶が役に立つかどうかも、確定していない。
それでも、この畑には、火を遠ざける倉庫とは違って静けさを感じる。
危険かもしれないものを、近づけない。
近づけるなら、小さく試す。
試した後も、誰かが見続ける。
その積み重ねの先に、今の発芽した芽がある。
一方、軍務局の封書は、重く感じた。
黒い粉や破壊のための知識を求める声が、書かれているのかもしれない。
ソーマは、畑の札をまっすぐに直した。
《小さな畑。芽あり。結論は、まだ出さない》
その言葉を、今度は迷わず書けた。
数日後、畑には小さな緑が並んでいる。
何もしない区画にも。
土だけを耕した区画にも。
白い結晶を使った区画にも。
芽はまだ短く、朝の水滴を抱えている。
ソーマは、しゃがみ込んでその色を見た。
「同じに見えますね」
セラが言った。
「今は」
ナーシャが答えた。
「同じに見えることも、大事な記録だよ。違ったら、むしろ怖い」
世話役の女性は、芽の間に生えた草を抜きながら笑った。
「早く伸びる芽より、ちゃんと根を張る芽の方が、あとで手がかからず楽なこともあります」
その言葉に、ソーマは土箱の訓練を思い出した。
すぐ答えを出せないことを、失敗だと思っていた。
けれど、待たなければ分からないものがある。
土の中の空間も。
事故の別紙も。
畑の芽も。
それぞれを同じ方法では確かめられない。
ただ、分からない時に、強い力で答えを引き出そうとしてはいけないことは同じだった。
さらに日が過ぎていった。ある日、結晶を使った区画の芽が、ほかより少しだけ濃い緑に見える朝があった。
ソーマはすぐに帳面を開いた。
だが、《効果あり》とは書かなかった。
前の日に雨があった。
結晶を使った区画は、少し低く、水が残りやすい。
世話役の女性が、そこだけ丁寧に草を抜いたかもしれない。
「どう書きますか」
エリシアが尋ねた。
「濃く見える、と」
ソーマは答えた。
「理由は未確認。水の残り方も、草を抜いた回数も比べます」
エリシアは頷いた。
「それでいいです」
以前なら、前世の知識に引かれて、肥料になったのだと決めていただろう。
封書が届いた翌朝も、ソーマは先に畑へ行った。
軍務局の返事を考える前に、芽の札を見たかった。
世話役の女性は、すでに水桶を置き、芽の間の土を指でほぐしている。
「今日は、封書の話をするんでしょう」
「します」
「それでも畑を見に来たのかい」
「畑のことを、忘れたくないので」
女性は少し笑った。
「畑は逃げないわ。けれど、見ない日が続けば、すぐ違いが分からなくなるわ」
ソーマは区画を一つずつ歩いた。
結晶を使った区画の芽は、確かにいくつか濃い。
だが、全部ではない。
何もしない区画にも、雨の後で急に伸びた芽がある。
土だけを耕した区画には、虫に食われた葉が残っている。
ひとつの結果だけを見れば、どの区画にも都合のよい答えがある。
「昨日より、芽が増えましたね」
セラが言った。
「昨日より、暖かいですから」
ソーマは答えた。
言ってから、二人で笑った。
自然なことを、結晶のせいにしない。
それは簡単なようで、期待している時ほど難しい。
昼、エリシアは軍務局の封書を持って畑へ来た。
「返事は急がないといけません」
「はい」
「でも、畑の記録を持って行くのですか」
ソーマは少し考えた。
芽の色。水の残り方。未確認の欄。
それらは、軍務局が求めている答えではない可能性が高い。
けれど、白い結晶について今の自分たちが知っているのは、そこまでだ。
「持って行きます」
ソーマは言った。
「役に立つかもしれない、とだけ話すより、まだ分かっていないことも一緒に見せたい」
エリシアは封書を見た。
「分からないことを見せれば、根拠が弱く見えるかもしれません」
「それでも、作れるから使う、にはしたくないです」
畑の芽が、風に揺れた。
破壊するために求められる知識と、育てるために使う知識。
どちらも同じ結晶から始まる。
だからこそ、用途だけでなく、分からないことも伝えなければならない。
夕方、ソーマは芽の横に小さな木札を追加した。
《濃く見える芽あり。理由未確認》
世話役の女性は、その札を読んで頷いた。
「いい札だね」
「良い結果だとは書いていませんよ」
「良い結果かどうかは、まだ分からない。でも、明日も見に来る理由にはなる」
その言葉を聞いて、ソーマは封書を胸へしまった。
明日、軍務局へ行く。
そこで何を求められるかは分からない。
けれど、小さな畑で待つことを覚えた自分なら、すぐに答えを決めずに話せるかもしれない。
夕方、ソーマが畑の札を確かめていると、錬金院の使いが一通の封書を運んできた。
封には、軍務局の印がある。
白い結晶について、話を聞きたい。
そう書かれていた。
ソーマは、芽の並ぶ小さな畑を振り返った。
ここでは、結晶は育てるために使えるかもしれないという曖昧な状況だ。
軍務局では、曖昧さは求められないのだろう。
封書を持つ手が、少し重くなった。
それでも畑の芽は、何も知らずに風へ揺れている。
ソーマは帳面に最後の一行を書いた。
《小さな畑。芽あり。結論は、まだ出さない》
その一行を残してから、封を開けた。
畑を離れる時、ナーシャが言った。
「育てるための知識を、もし急いで答えを求める人へ渡すなら、待たねばならない理由も一緒に渡しな」
ソーマは頷いた。
封書の中にたとえ何が書かれていても、自分のできることをするだけだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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また次話でお会いしましょう!




