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第4章 第122話 粉を吸う布

第4章 第122話


粉を吸う布


 坑道から戻った次の日も、ソーマの喉には石の粉の乾いた感触が残っていた。


 水を飲めば消えるものだと思った。けれど、深く息を吸うと、胸の奥が少し重い。


 工房の窓辺には、昨日、口元へ巻いた布が干してあった。内側は白ではなく、薄い灰色になっている。


「これだけで済んでよかった」


 ベリルが言った。


 彼は朝から工房へ来ていた。古い採石場の話をするためではない。坑内で働く者が、どんな布を口元へ巻くかを教えるためだった。


「濡らした布を巻く者もいる。乾いたままの者もいる。だが、長く働けば、どちらも粉を吸う」


「粉を全部止めることはできないんですね」


「できると言う奴は、穴の中で働いたことがない奴だ」


 ベリルは、干した布を見た。


「だから、少しでも減らす。苦しくなった者を、早く外へ出す。そのために、布の汚れを見る」


 ソーマは布の灰色を見た。


 粉が目に見えなければ、人は大丈夫だと思ってしまう。けれど、布に残れば、少なくとも存在していることは分かる。


「布を、口元だけに使うのでは足りないかもしれません」


 ソーマは言った。


「粉が溜まる場所を減らせば、吸う量も減ります」



 その日の午後、ソーマたちは北門東倉の空の一角で、小さな試験をした。


 細かな白土を少しだけ床へ撒き、歩く人の足元でどう舞ってどこへ行くかを見るだけだ。


 ハンナは入口の外に立ち、風が入る時間を記す。セラは窓の開き具合を変え、布を数枚、通路の端へ下げた。ベリルは、口元へ巻く布を三人へ渡す。


 荷役人が、空箱を抱えて通路を往復した。


 最初は、白土が足元からふわりと上がる。


 高く舞うほどではない。けれど、通路の端へ置いた黒い板の上には、すぐ薄い粉が残った。


「人が通るたびに、同じ場所へ粉が寄ります」


 ソーマは言った。


「壁際に溜まった粉が、次の人の足でまた動く」


「だから、壁際を掃けばいいのか」


 荷役人が訊く。


「掃くだけでは、また舞います」


 ベリルが答えた。


「濡れた布で拭う方がましだ。だが、拭う人まで粉を吸わないようにせんとな」


 ソーマは床へ掌をかざした。


 土魔法で粉を集めることはしない。集めれば、細かな粒をさらに動かすかもしれない。


 ただ、床の低い場所を読む。


 通路の端に、わずかに沈んだ筋がある。白土はそこへ寄りやすい。


「ここへ、取り替えられる布を置けないでしょうか」


 ソーマは指した。


「粉が溜まる前に、布で受けるんです」


 エリシアが床を見た。


「布を置くだけなら、歩く人がつまずきます」


「なら、床に浅い受けを作る」


「深く掘るのは駄目です」


 ベリルが言った。


「荷車の車輪が取られる」


 ソーマは頷いた。


 粉を受ける場所と、人が歩く場所を、ちゃんと分ける。そのための形を、まず皆で考える。



 翌朝、ベリルは工房へ三枚の布を持ってきた。


 新品の白い布。


 昨日、口元へ巻いた灰色の布。


 そして、坑道の入口で荷を運ぶ者が使った、端だけ黒い布。


「同じ穴の近くで働いても、汚れ方が違う」


 彼は言った。


 ソーマは三枚を並べた。


 入口に近い布は、端だけが黒い。奥へ入った布は、全体が灰色だ。荷を運んだ者の布には、土と汗の匂いが混じっている。


「粉の量だけではないですね」


「顔へ近づけた回数も違う。汗で湿ったかも違う。だから、布だけ見て、誰が苦しいかを決めるな」


 ベリルの言葉は、いつも短い。


 けれど、短いから、ソーマは自分で考える余地がある。


 工房の庭で、彼らは簡単な比較をした。粉の残る通路を一人が歩く。別の人は端の湿った布を取り替える。もう一人は外の空気が通る場所で箱を運ぶ。


 どの作業も、昨日と同じ白土を少しだけ使い、どこへ残るかを見た。


 結果は、ソーマの予想より複雑だった。


 通路の端に布を置いても、布が乾けば粉が上に残る。


 水を含ませすぎれば、靴底が滑る。


 入口を開ければ風は通るが、外の砂も入る。


「全部は止められません」


 ソーマが言うと、ナーシャは首を振った。


「全部を止めるのが目的ではないよ。減らせるものを減らして、残るものを見つけるのが先」


 彼女は、白土のついた手袋を専用の桶へ入れた。


「手袋や布を、ほかの仕事で使わないことも大事。粉が一度付いたものを、いろんな場所へ持っていかないのが大事だね」


 ソーマは帳面へ、粉が残った場所だけでなく、布を置いた場所、洗う場所、休む場所を描いた。


 地図は、土の中だけのものではない。


 きれいな空気の場所、そうでない場所を、地図にする必要がある。



 午後、保管係が咳をして作業を止めた。


 激しい咳ではない。少し喉に引っかかったような、小さな咳だった。


「大丈夫です」


 彼は言った。


 だが、ベリルはすぐに荷を受け取った。


「大丈夫かどうかは、外へ出てから決める」


「これくらいで止めたら、仕事にならない」


「これくらいを毎日続けたら、もっと仕事にならない」


 ベリルの声は強くなかった。


 それでも、保管係は黙って外へ出た。


 ソーマは、その背中を見ていた。


 危険を遠ざける決まりは、火や壁だけの話ではない。苦しいと言う前に、仕事を止められる形も必要だ。


「記録札に、休んだことを書く欄を入れます」


 ソーマは言った。


「咳が出た、だけではなく、どこで、どれくらい働いた後に外へ出たか」


 エリシアは頷いた。


「場所や作業との関係が見えるようにしましょう」


 ハンナは札の端へ《作業を止めた理由》と書いた。


 次の人が、粉の中へ長く滞在しないために必要な欄だった。



 日が暮れる頃、ソーマは通路の端に置いた布を外した。


 布には粉が残っている。


 けれど、床の真ん中は朝よりきれいだった。


「減りました」


 セラが言った。


「でも少しは残っていますね」


「改善できたことが重要です」


 ソーマは答えた。


 粉を完全に消すことは、今の自分たちにはできない。


 だが、粉がどこに溜まり、誰が吸い、いつ外へ出たかを見ることができる。


 見えれば、次の対策を考えることができる。


 湿った布を置く場所と歩く場所とを分けられる。



 翌日の札には、布を替えた時刻と、休んだ人の数が並んだ。数は少ない。だが、同じ場所で咳をした人が続くなら、床や風の形を変える理由になる。


 ソーマは、粉の地図の余白へ《苦しさも条件》と書いた。


 ソーマは、白土の残った通路を見た。


 粉を吸う布は、壁の代わりにはならない。


 けれど、壁だけでは守れない喉を、少しだけ守ってくれる。



 数日後、布の取り替えを始めると、新しい困りごとが見つかった。


 濡れた布を入れる桶の周りが、いつも湿っているのだ。桶を運ぶ者の靴底に水が付き、そのまま乾いた通路へ戻れば、今度は靴に土が張りつく。


「粉を減らして、泥を増やしたら駄目ですね」


 ソーマが言うと、ベリルは頷いた。


「一つを直せば、別の課題が出る。それを見ずに、前より良いとは言えないな」


 ナーシャは桶の下へ古い陶板を置いた。水がこぼれても、床の土へすぐ染み込まないようにするためだ。


「桶の中身を捨てる場所も決めましょう」


 彼女は言った。


 ソーマは、宿屋の裏口で排水の先を見た日のことを思い出した。


 目の前の粉を減らしても、流した先で誰かが困るなら、解決にはならない。


 布を洗った水は、一旦沈ませてから別の場所へ移すことになった。


 工房の隅に、セラが小さな札を立てた。


 《布洗い水。沈みを待つ》


 待つための置き場所があるだけで、流す理由がなくなる。



 その日、ソーマは土魔法を使わずに、通路の粉を見た。


 粉が少ない場所は、風がよく通る。


 粉が多い場所は、人が立ち止まりやすい。


 それは魔法で読まなくても、足跡と布の汚れで分かる。


「今日は、読まないんですね」


 セラが言った。


「読む前に見えることを、先に残します」


 ソーマは答えた。


 魔法を使えば、見えないことを知れるかもしれない。


 だが、見える粉を見ずに魔法だけを使えば、何を比べたのか分からなくなる。


 土魔法は、見えるもの、比較するものが足りない時に使うのが良いと思う。


 その順番も、少しずつ身についてきた。


 夕方、保管係が新しい布を口元へ巻いて言った。


「前より楽かどうかは、まだ分からん。でも、苦しくなったら外へ出ていいと分かっているだけで、息がしやすい」


 ソーマは、その言葉を記録欄には書かなかった。


 作業の結果ではなく、働く人の感想だからだ。


 けれど《忘れてはいけないこと》の欄へ、小さく残した。


 安全な場所は、粉の少ない場所だけではない。


 苦しいと声に出せる場所でもある。



 夕方までに決まったのは、派手な仕組みではなかった。


 通路の端へ、取り替えられる湿った布を置く。


 布が灰色になったら、専用の桶へ入れる。


 口元の布も、汚れたまま何日も使わない。


 苦しくなった者は、仕事を続けずに外へ出る。


「遅くなりますね」


 荷役人が言った。


「少し」


 ソーマは答えた。


「でも、咳が出ても働き続けるよりはいい」


 ベリルは、濡れた布を持ち上げた。朝には白かった布の端が、もう灰色になっている。


「粉は、見えないから怖いんじゃない。見えないから、我慢できると思ってしまうのが怖い」


 その言葉に、ソーマは頷いた。


 土魔法で読めるものが増えても、息をする人の苦しさまで魔法で感じられるわけではない。


 だから、布の色を見る。


 咳の回数を聞く。


 風が通るかを確かめる。


 魔法以外の目を増やす。



 試験が終わった後、ソーマは白土の残った床を見た。


 通路の端に溜まった粉。


 乾いた靴底が通る場所。


 布が受けた灰色。


 それらを帳面へ簡単に描くと、昨日の地図に少し似ていた。


 違いを見つける。


 そこへ名前を付ける前に、誰が困るかを考える。


「次は床です」


 エリシアが言った。


「粉を捕集する場所を作るなら、火花や乾いた屑が溜まらない床にもする必要があります」


 ソーマは、白土の筋を見た。


 火を遠ざける倉庫は、壁だけではできない。


 人が歩く床もまた、火と粉を近づけない形にしなければならなかった。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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