第4章 第119話 動かさずに読む
第4章 第119話
動かさずに読む
次の朝、ソーマは土箱を開けずに王立錬金院へ持っていった。
箱は、昨日からずっと机の端に置いてあった。
蓋をほどけば、中身はすぐに分かる。確かめれば、昨夜の自分の読みが正しかったかどうかも分かる。
けれど、紐はそのままだった。
工房へ入ると、エリシアがすでに三つの箱を並べていた。セラは小さな砂時計を置き、ハンナは白い札を何枚も用意している。
「開けませんでしたね」
エリシアが言った。
「約束したので」
「約束がなくても、開けない日が来るといいですね」
ソーマは苦笑した。
まだ、そこまでは言えない。
答えを知りたい気持ちは、箱を見ればすぐに湧いてくる。中身を知っていれば、土魔法が何を感じたのかを後から説明できる。失敗を失敗でなく見せることもできる。
だからこそ、知らないまま読む練習が必要だった。
「今日からは、箱を一つずつ読みます」
フェルド老師が言った。
「当てたら終わりではない。読む前に目的を書く。読んでいる間は、誰かが箱の様子を見る。終わったら、開ける前に自分の言葉を確かめる」
細かな決まりは多くない。
それでも、昨日までのソーマにはなかった順番だった。
ソーマは最初の札へ書く。
《確かめること 土の中に周囲と違う場所があるか》
《止まる時 違いを一度感じた時》
《変えてはいけないもの 箱の土と中身》
その文字を見てから、掌をかざした。
朝の光が机の上へ落ちている。箱の木の匂いと、乾いた土の匂いが混じっていた。
魔力を薄く流す。
右の奥に、周りより重い感触がある。
もっと読めば、形が分かるかもしれない。
ソーマは、そこで止めた。
「右の奥に違いがあります」
ハンナが、その言葉を札へ写す。
「硬い、ではないのですか」
セラが尋ねた。
「重いように感じました。でも、硬いかどうかは分かりません」
言い終えるまで、ソーマは自分の答えが曖昧に思えた。
だが、エリシアは箱を開ける前に、ソーマの掌と箱の表面を見た。
「土は動いていません」
それから蓋を外す。
右の奥には、丸い川石が入っていた。
違いの場所は合っていた。
ソーマは、ほっとした。けれど、すぐに札を見る。
自分は石だとは言わなかった。重いように感じた、と書いた。
開けて分かった石を、最初から知っていたように書き換えてはいけない。
「次です」
フェルド老師の声で、ソーマは顔を上げた。
二つ目の箱では、何も感じなかった。
掌をかざしても、土はどこも同じように返ってくる。
中央に何かがあるのかもしれない。昨日のように、分からない場所を分からないと書くのが正しいのだろう。
けれど、何も言えないまま止めるのは、思っていたより難しかった。
「未確認です」
ソーマは言った。
蓋を開けると、箱の中央には薄い陶片が縦に差し込まれていた。
端から見れば、紙より少し厚いだけの小さな欠片だ。
「見落としました」
「そう書けばいい」
フェルド老師は言った。
「なぜ見落としたと思う」
ソーマは箱の中を見た。
陶片は薄い。土と同じ向きに立っている。周囲の土も、少し湿っていた。
「違いが弱かったからです」
「それは結果だ。お前がどうしたかを言え」
ソーマは考えた。
最初の箱では、違いを感じた後に止まった。
二つ目では、何も感じないことに焦って、魔力を薄くしすぎた。押して動かすことが怖くて、読むことを避けたのかもしれない。
「止めることを怖がって、最初から届かないようにした気がします」
エリシアが頷いた。
「止めることと、使わないことも違いますね」
その一言で、ソーマは少し楽になった。
土を動かさないために、何もしなければよいわけではない。
読むための力は出す。
けれど、状態を変える前に止める。
その二つを、一緒に覚えなければならない。
休憩の間、ソーマは工房の外の石段に座った。
指先には、まだ土の感触が残っている気がする。
右の奥が重い。中央は分からない。湿った土は鈍い。
言葉にすると、どれも頼りない。
「疲れましたか」
セラが温かい湯の入った小杯を持ってきた。
「少し。でも、疲れたというより、怖いです」
ソーマは答えた。
「止められないのが怖かったのに、今は止めた後で、何も分からなかったらどうしようと思う」
セラは隣へ座った。
「水も似ています」
「水魔法もですか」
「流れを弱くすれば、細かなものは動きません。でも、弱くしすぎると、どこに溜まったかも分からなくなる。だから、ナーシャさんは、水を流す前に器を見ます」
ソーマは、故郷の排水溝を思い出した。
水を流せば、ぬかるみは別の場所へ移る。流す前に、どこで水を受けるかを決めなければ、困りごとを別の場所へ運ぶだけになる。
土箱も同じだ。
箱を置く。中身を隠す。見る人を分ける。開ける前に言葉を書く。
魔法だけでは、試験にならない。
「ソーマさんが読む時、私は箱を見ています」
セラは言った。
「箱が動かなかったかどうかは、私にも分かります。だから、土魔法が分からなくても、役に立てます」
その言葉に、ソーマは少しだけ救われた。
自分一人で、正しい答えを出さなくていい。
午後の試験には、北門東倉の保管係も来た。
エリシアが、昨日作った札を見せたからだという。
「魔術師の札が、俺たちに読めるか見てくれと言われた」
保管係は、少し居心地悪そうに立っていた。
ハンナが、午前の札を一枚差し出す。
《右の奥に、重いような違い。材質は未確認。表面の変化なし》
保管係はゆっくり読んだ。
「つまり、右の奥には何かあるかもしれない。でも、石だとは決まっていない。箱を開ける時は気をつけろ、ということか」
「そうです」
ソーマは答えた。
思ったより、すぐに伝わった。
「これなら分かる。『土魔術で問題なし』とだけ書かれるより、ずっといい」
保管係は言った。
「問題なし、というのは、何を見たのか分からんからな」
その一言が、ソーマの胸に残った。
便利な言葉は、分かった気にさせる。
けれど、何を確かめたのかが書かれていなければ、次に違う人が同じ場所へ来た時、何が問題ないのか分からない。
「午後の箱も、見ていてください」
ソーマは言った。
「僕が箱を動かしたら、止めてほしいです」
保管係は少し驚いたが、頷いた。
「分かった。見ているだけならできる」
それからの試験で、ソーマは一度、感触を追いかけかけた。
左の端に軽い場所を感じた。その奥を知りたくなり、指先の魔力がもう少しだけ伸びる。
「ソーマさん」
保管係の声がした。
ソーマは、すぐに止めた。
箱は動いていない。
それでも、止まるのが遅かったことは、自分で分かった。
札には《左端に軽い違い。さらに読もうとして停止。土の変化は見えない》と書いた。
保管係はその札を見て、言った。
「今のは、何か悪いことをしたのか」
「悪いことは起きていません」
ソーマは答えた。
「でも、何か失敗が起きてからしか止まれないなら、倉庫や現場では遅いと思います」
保管係はしばらく札を見たあと、静かに頷いた。
魔法を使う者の失敗を、見ている人が責めずに止めるために声をかけられる。
その形もまた、倉庫で必要になる安全の一つだった。
昼を過ぎる頃には、箱の中に入れるものを、エリシアが少しずつ変え始めた。
石。
焼き物。
空いた場所。
締まった土。
ソーマはそれらの名前を知らないまま、箱を読む。
違いを感じた時は、紙の上へ小さな印を置く。
軽いように感じる。
重いように感じる。
返りが鈍い。
分からない。
初めは、その印が頼りなかった。
けれど、五つ目の箱を開けた時、ソーマは自分の紙と箱の中を並べて見た。
左の端には《軽い》。そこには小さな空きがあった。
右の手前には《鈍い》。そこには湿った土が詰められていた。
中央には《分からない》。そこには、土に紛れた薄い陶片があった。
当たったものもある。見落としたものもある。
だが紙には、土の中に感じた違いが、名前のないまま残っていた。
「これなら、箱を開ける前の地図になります」
セラが言った。
「まだ、地図というほどではありません」
ソーマは答えた。
「でも、違う場所を、違うとだけ書けるようになりました」
エリシアは紙を持ち上げた。
「それが、次に必要なことです。石だと思った場所しか掘らなければ、間違えて石が無かった時に何を見落としたかが分かりません」
ソーマは、紙の中央にある《分からない》を見た。
そこにも、何かがあった。
分からないと書いたことは、何も書かなかったこととは違う。
午後の終わり、フェルド老師は最初に持ってきた土箱を指した。
「昨日から持っていた箱だ。最後に読め」
ソーマは息を止めた。
この箱の中身を、今夜まで知らなかった。
掌をかざす。
昨日の記録には、違いを一度感じたとだけ書いてある。材質は未確認。
今日の自分なら、少しだけ違う読み方ができるだろうか。
魔力を流す。
中央より少し右。硬さではない。土の返りが、周りより急に止まる。
形は小さい。
そこまで感じて、ソーマは止めた。
「中央より右に、返りが急に変わる場所があります」
エリシアが蓋を開ける。
中には、横に寝かせた焼き物の欠片があった。
昨日も、ほぼ同じ場所を読んでいた。
けれど今日は、石か陶片かを言い当てようとしなかった。自分に分かる感触だけを、昨日より落ち着いて言葉にできた。
「少しだけ、変わりました」
ソーマが言うと、フェルド老師は頷いた。
「箱の中身ではない。お前の止まり方がな」
日が傾く頃、エリシアは最後の箱を机の中央へ置いた。
「今日は、場所を一つだけ言うのではなく、違いをいくつ残せるかを見ましょう」
ソーマは紙へ箱の輪郭を描いた。
左の端に軽い印。
右の手前に鈍い印。
中央には、ためらってから《分からない》と書く。
箱を開けると、左には空き、右には湿った土があった。中央には薄い焼き物の欠片が埋まっていた。
見えなかったものは残った。
だが、空きと湿りを、同じ「何かがある」としてまとめなかったことは、前の自分より少し違う。
ソーマは紙の上の三つの印を見た。
名前を付ける前の違いを、失わずに残す。
それが、地図の最初の線になるのかもしれなかった。
夕方、ハンナが一日の札を順に並べた。
成功した札と、失敗した札を分けない。
見落とした陶片の札も、土を変えずに違いを読めた札も、同じ束へ入れる。
「明日、これを見て箱を作る人がいたら、どこを変えますか」
ハンナが尋ねた。
ソーマは、湿った土の札を選んだ。
「湿った土では、僕は重さと締まりを取り違えやすい。だから、次は湿りの違う箱を並べて、どこまで読めるかを確かめたいです」
「では、明日の目的が決まりましたね」
セラが言う。
ソーマは札の束を胸へ抱いた。
昨日まで、土魔法は自分の指先にある感覚だった。
今日、その感覚は紙の上に、少しずつ置かれ始めた。
正しい答えへ急ぐためではない。
違いを見失わないために。
工房の窓の外では、冬の風が静かに鳴っていた。
ソーマは明日の箱を一瞬見て、手を伸ばすのを控えた。
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