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第4章 第118話 フェルドの沈黙

第4章 第118話


フェルドの沈黙


 翌朝、フェルド老師はいつもの工房にいなかった。


 机の上には、開かれた帳面と、使いかけの筆が残っている。炉には火が入っていない。窓から差す朝の光が白い作業台の端で止まっていた。


「書庫です」


 セラが短く言った。


 ソーマは、オルセインの書庫へ向かった。


 奥の閲覧机に、フェルド老師は一人で座っていた。前には北門東倉の検分書の写しがある。二十三年前の自分の署名を、ずっと見ているようだった。


「老師」


 呼んでも、すぐには返事がない。


「昨日のこと、聞いてもいいですか」


「聞くなとは言わん」


 フェルド老師は答えた。


「だが、答えられることは多くない」


 ソーマは机の向かいへ立った。


「別紙に何を書いたか、言えないのは、忘れたからですか」


「忘れたからではない」


 老師は、検分書の端を押さえた。


「覚えているから言えん。人の記憶は、後になって都合よく形を変える。悔しかったことほど、はっきり覚えていたように思えてしまう」


 ソーマは黙った。


「俺は現場を見た。残ったものを調べた。危険だと感じた。荷替えを止めるべきだと思った」


 フェルド老師の声は低い。


「だが、あの時の俺が何を根拠に、どこまで書いたかを、今の俺は完全には再現できん。だから、記憶を別紙の代わりにしてはいけない」


「でも、老師が覚えていることは、手がかりになります」


「手がかりにはなる。だが、答えにはならん」


 その言葉は、昨日の土箱と同じだった。


 硬いものを感じた。だから石だと決めた。


 その間に、まだ越えてはいけない線がある。


「僕は、分からないことを記録に残すのが怖いです」


 ソーマは言った。


「分からないと残せば、何もしていないように見えるから」


「俺もそうだった」


 フェルド老師は、初めてソーマを見た。


「若い頃の俺は、危ないと書けば、それで人を止められると思った。だが、危険を訴えるだけでは、荷を待つ者を止められなかった。止めるなら、代わりに何をするかまで考えねばならなかった」


 北門東倉の外に作る荷置き台を、ソーマは思い出した。


 受け取らないのではない。受け取った上で安全に待てる場所を作る。


 火を遠ざけるとは、ただ禁じることではなかった。


「だから、今回は途中で終わらせたくない」


 ソーマは言った。


「魔法を使うなら、使った人しか分からない感覚で終わらせたくないです」


 フェルド老師はしばらく黙っていた。


 それから、机の下から小さな木箱を取り出した。


 掌を二つ並べたほどの箱だった。上には取り外せる蓋があり、側面には細い線が引かれている。


「これは昔、試料を比べるために使っていた土箱だ」


「土箱」


「箱の外から土魔法で、中の違いを読めるかどうかを確かめるためのものだ」


 老師は、箱を机の上へ置いた。


「お前は土魔法を使う時、分かろうとして力を足していく。なら、先に魔法を止める場所を決めろ」


「止める場所を」


「発動する前に、帳面へ三つ書く。何を確かめるか。どこまで読んだら止めるか。変えてはいけないものは何か」


 ソーマは、昨日の札を思い出した。


 何をしたか。


 何が変わったか。


 何が分からないか。


 それより前に、何を確かめるのかと、どこで止まるのかを決める。


「箱の中身が分からないなら、どこで止まればいいんですか」


「中身を動かす前に止まれ。最初は何か違いを感じたら止まれ」


 フェルド老師は言った。


「今日は、上から一度だけ読む。硬さの違いを感じたら止める。材質を判断しない。中身を動かさない。それでよい」


 簡単な内容だった。


 けれど、ソーマには難しかった。


 知りたいものを目の前にして、一度だけの読みで終えること。


 答えを決めないこと。



 昼になると、エリシアとセラ、ハンナも工房へ来た。


 フェルド老師は、土箱を三つ並べた。大きさは同じだが、中の土の色は少しずつ違う。ひとつは乾いて淡い。ひとつは少し湿っている。もうひとつには、細かな砂が混じっている。


「土の違いまで、記録するのですか」


 ハンナが尋ねた。


「違うことを最初に書かねばならん」


 フェルド老師が答えた。


「違いを隠して同じだと言う方が、結局一番困る」


 ソーマは、一冊の新しい帳面を開いた。


 最初の頁に、《目的》と書く。


 次に、《止まる場所》。


 最後に、《変えてはいけないもの》。


 最初の箱について、ソーマはゆっくり読み、そして記録した。


 《目的 土の中に、周囲と違う硬さがあるかを見る》


 《止まる場所 違いを一度感じた時》


 《変えてはいけないもの 箱の土と、中の物》


 字を書き終えてから、掌をかざした。


 魔力を薄く流す。


 昨日よりも、土の感触が近い。


 中央の少し左に、硬さを見つけた。


 もっと読めば、形が分かるかもしれない。


 だが、帳面に書いた止まる場所が目に入った。


 ソーマは、そこで魔力を切った。


「左に違いがあります」


 言ったあと、すぐに続けた。


「でも、石かどうかは分かりません」


 フェルド老師は蓋を開けた。


 中には、薄い焼き物の欠片が横向きに入っていた。


 位置は、ほぼ合っていた。


 けれどソーマは、喜ぶ前に箱の土を見た。表面は崩れていない。欠片も動いていない。


「今のは、読めたと言えますか」


「違いを読めたとは言える」


 フェルド老師は答えた。


「ただ魔力で焼き物だと判断したとは書くな」


 ソーマは帳面へ、結果を書き加えた。


 《左に硬さの違い。焼き物の欠片あり。読んでいる間、表面の変化なし》


 その一行は小さい。


 だが、昨日までなら「左に陶片あり」と書いていただろう。


 感じたことと、開けて分かったことを、今は分けられた。



 二つ目の箱では、ソーマは失敗した。


 湿った土を読んだ時、感触が鈍く返った。箱の中央に重いものがあるように感じたが、はっきりしない。


 止まると決めたのに、もう一度だけ確かめたくなった。


 魔力を少しだけ伸ばす。


 その瞬間、箱の土がごくわずかに沈んだ。


「止めてください」


 エリシアの声がした。


 ソーマはすぐに魔力を引いた。


 蓋を開けると、中には何も入っていなかった。湿った土が、中央だけ少し締まっていたのだ。


 箱の底には、ソーマの魔力で沈んだ浅い跡が残っている。


 胸が冷たくなる。


「ごめんなさい」


「謝る前に書きなさい」


 フェルド老師は言った。


 責める声ではなかった。


「何をした。何が変わった。次は何をしない」


 ソーマは筆を取った。


 《中央に重さの違いを感じた。二度目を読もうとして、土を沈ませてしまった。中身はなかった。湿った土の締まりを、硬いものと取り違えた》


 書きながら、手が少し震えた。


 失敗を残せば、失敗した自分が記録に残る。


 けれど、書かなければ次の箱で、また同じことをする。


「今は、箱を壊したわけではありません」


 セラが静かに言った。


「でも、中の土の状態を変えたことは分かりました。だからこそ、次は土に状態を変えない方法を考えて行動できます」


 ソーマは頷いた。


 失敗を軽くする言葉ではない。


 失敗を、次へ活かすための言葉だった。



 午後の最後に、フェルド老師は三つ目の箱をソーマの前へ置いた。


「今度は、当てようとするな」


「違いを読むのではなく?」


「違いを読め。そして分かることだけを書け」


 言葉だけ聞けば、先ほどと同じに思える。


 フェルド老師は、紙を一枚差し出した。


「箱の上から見た形だけを書け。硬い、柔らかい、分からない。それ以外は書くな」


 ソーマは紙の中央に箱と同じ大きさの四角を描いた。


 掌をかざす。


 左の奥は、少し軽い。


 右の手前には、周りより締まった感触がある。


 中央は、よく分からない。


 それだけを書いた。


 線を引くたびに、もっと細かく分けたくなる。左の奥にも、わずかな違いがある気がする。けれど、今の自分には、その違いが土なのか、箱の木目なのか、判別できない。


 ソーマは、中央へ《分からない》と書いた。


 蓋を開けると、左の奥には小さな空きがあり、右の手前には粗い砂が混じっていた。中央には何もない。


 空きと砂は、ソーマが感じた違いとおおむね重なっている。


 しかし、線の形は正確ではなかった。


「地図としては、まだ粗いですね」


 ソーマが言うと、エリシアは紙を箱の横へ置いた。


「でも粗い地図だと分かる形で残っています」


「それに意味がありますか」


「あります。あなたが次に、もっと深く読む必要があるのか。それとも、別の方法で確かめるべきなのかを、他の人も考えられます」


 ソーマは、箱の中を見た。


 土魔法だけで全てを知る必要はない。


 土を掘る人、木箱を作る人、帳面を書く人。それぞれが次の確かめ方を選べるなら、魔法は答えを独り占めする力ではなくなる。


 フェルド老師は、黙ってその紙を見ていた。


「昔の俺は、魔術師が分かれば十分だと思った」


 不意に、老師は言った。


「だが、分かる者が一人だけなら、間違いを止める者も一人しかいない」


 ソーマは顔を上げた。


「北門東倉でも、そうだったんですか」


「……あの時のことを、今の言葉でまとめるな」


 フェルド老師はすぐに答えた。


 けれど、声は怒っていなかった。


「俺の記憶は、まだ記録ではない」


 ソーマは頷いた。


 聞けないことがある。


 だが、聞けないまま、次にできることもある。


 今日の紙には、確かな線と、曖昧な線が同じように残った。


 その曖昧さを消さずに残せたことが、ソーマには小さな前進に思えた。



 夕方、ほかの三人が帰ったあとも、フェルド老師は工房に残っていた。


 ソーマは、二つ目の箱の記録を読み返している。


「老師は、あの事故のあと、こういう箱を作ったんですか」


 尋ねると、老師は炉の冷えた灰を見た。


「作ろうとした」


「作れなかったんですか」


「途中で、錬金院を出ることになった」


 それだけだった。


 詳しく聞くことはできなかった。


 フェルド老師の過去には、まだ、記録に残っていない空白がある。


 けれど、空白を急いで埋めないことを、ソーマは今日学んだ。


 老師は土箱の蓋を閉じ、紐で結んだ。


「持っていけ」


「僕がですか」


「明日から、毎朝一箱ずつやれ。中身を見るな。読む前に書け。止めた後に書け」


 ソーマは木箱を両手で受け取った。


 重さは、思っていたよりも軽い。


 その中にある答えより、老師との約束の方が、今は重かった。


 帰る前に、ソーマは工房の扉の前で足を止めた。


「老師。もし僕が、また止まれなかったら」


「記録に書け」


「それだけですか」


「それから、次の箱を開ける前に、誰かへ見せろ」


 フェルド老師は言った。


「一人で失敗を直そうとするな。一人で読めると思うから、読めないものまで自分だけで答えにしようとする」


 ソーマは土箱を抱え直した。


 前世では、知っていることが多いほど、一人で早く進める気がしていた。


 だが、この世界では、土の湿りも、光の当たり方も、人の作業の順番も、すべてが自分の外にある。自分の感覚だけで答えを出せば、見えていないものを見落とす。


「明日、エリシアにも見せます」


「そうしろ」


「セラとハンナにも」


「その方がよい」


 短い返事だった。


 けれど、その短さの中には、昔のフェルドが一人で抱えたものがあるように思えた。


 ソーマは、それを聞き出そうとはしなかった。


 今は、土箱を壊さずに明日へ渡すことの方が大切だった。



 工房を出る時、帳面の最後に一行を書く。


 《読むとは、答えを急がないことから始まる》


 外へ出ると、空はもう暗くなりかけていた。


 木箱の蓋の下には、明日の答えが入っている。


 それを今夜のうちに知りたいと思う自分が、まだいる。


 けれど、紐をほどかなければ、明日に試験ができる。もう一度、読むことを止める練習ができる。


 ソーマは箱を開けずに、胸へ抱いた。



 次の日、その一行の前に、また新しい箱が置かれる。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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