第4章 第112話 硫黄の匂い
第4章 第112話
硫黄の匂い
粗硝石の蔵では、硫黄の匂いは感じられなかった。
北壁のそばで香りを探しても、漂っているのは湿った土と古い木の匂いだけだった。白い跡が残る石壁も、冷えた石台も、昨日と変わらずそこにある。
けれど、古い点検記録には確かに書かれている。
《風向き変わる折、硫黄のにおいあり》
ソーマは、その一文が気になった。
壁が冷たいこと。
床が湿ること。
そして、遠くから運ばれてくる匂い。
同じ頁に書かれているからといって、同じ原因とは限らない。そう分かっているのに、何かがつながっているような気がしてしまう。
「今日は、個別に調べます」
エリシアが机の上へ地図を広げながら言った。
「関係があると決める前に、それぞれを個別に見ます。順番に参りましょう」
北門周辺の倉庫街を描いた地図には、古い蔵、荷車が通る道、壁に囲まれた細い路地、見張り塔の位置まで記されていた。
匂いそのものは見えない。
けれど、風の流れを記録すれば、匂いが運ばれた経路を探る手がかりにはなるかもしれない。
北門周辺には、王都へ運び込まれた鉱石、木材、布、薬草などを一時的に保管する蔵が集まっていた。
荷車が行き交う大通りから一歩外れると、建物の間には細い通路が続く。高い石壁が風を受け止め、屋根と屋根の隙間から差し込む光が、濡れた石畳へ細く落ちていた。
ソーマたちは、粗硝石の蔵から西へ三つ先の路地で立ち止まった。
ルーサが目を閉じる。
彼女の足元で、冷たい風が石畳を撫でた。風は通りをまっすぐ進まず、荷車置き場の壁へぶつかってから、別の路地へ折れ曲がっていく。
「今は北西から風が来ています」
ルーサは言った。
「門の外から入って、あの古い木材置き場の壁に当たり、二つに分かれています」
「粗硝石の蔵へは」
「直接は届きません。一度、奥の通りへ抜けてから、壁際へ回ります」
ソーマは地図へ視線を落とした。
古い記録には、風向きが変わる折とある。
だが、それがどの方角からどの方角へ変わったのかは書かれていない。点検係は、風の名までは残さなかったのだろう。
「匂いは、風が通った道に沿って来るんですか」
ソーマが尋ねると、ルーサは少し考えてから答えた。
「必ずしも、同じ道とは限りません」
彼女は、狭い路地の壁を指した。
「風は、匂いを運ぶだけです。でも、壁に当たれば分かれ、隙間があれば入ります。溜まることもあります」
ソーマは、少し苦笑した。
土魔法も似ている。
地面の中にあるものを感じ取れても、それだけで正体まで分かるわけではない。
「まずは、記録に残っている日を探しましょう」
エリシアが言った。
「粗硝石の蔵の記録だけでは足りません。この周辺の蔵にも、匂いや風について書かれた帳面があるかもしれない」
北門倉庫街の記録は、思っていたより雑多だった。
ある木材の蔵では、雨の日に板が反ることしか書かれていない。布を保管していた蔵には、虫食いと湿気の記録が多い。荷車置き場の帳面には、馬が落ち着かなかった日と、荷運び人が咳をしていた日が並んでいた。
けれど、匂いについて書かれた記録は少なかった。
匂いは記録しにくい。
朝だけするのか。
風が変わった時だけするのか。
人によって感じ方が違うのか。
記録した者が、匂いに記録する価値を見出さなければ、帳面には残らない。
「見つけました」
午後、セラが古い帳面から顔を上げた。
「二十八年前の、南西側にあった鉱石置き場の記録です。ここにも《風が門へ抜ける日、刺激のある鉱石臭あり》と書かれています」
「硫黄とは書いていない」
エリシアが言う。
「ですが、同じ頃の別の帳面には《黄色い鉱石を積んだ荷車、到着》とあります」
ソーマは地図の上で、二つの場所を指先で結んだ。
南西側の鉱石置き場。
木材置き場の壁。
細い路地。
粗硝石の蔵。
一直線ではない。
けれど、風が通りそうな隙間はある。
「硫黄を含む鉱石を、ここで扱っていた可能性はありますか」
ソーマが尋ねると、オルセインが帳面を覗き込んだ。
「可能性はある。だが、黄色い鉱石と書かれているだけでは断定できん」
「匂いも同じです」
エリシアが言った。
「古い記録で《硫黄の匂い》と書かれていても、硫黄そのものの匂いとは限りません。鉱石を扱う場で感じた刺激のある匂いを、そう呼んだのかもしれない」
ソーマは頷いた。
名前だけで決めない。
黒火粉の時と同じだ。
硫黄という言葉があるからといって、そこに何があったのかを、勝手に決めてはいけない。
「記録に残すなら」
ソーマは言った。
「硫黄の匂いではなく、記録者がそう呼んだ刺激のある匂い、と書いた方がいいですか」
「そうですね」
エリシアは答えた。
「記録に使われた言葉と、私たちが確認したことを分けます。昔の人が《硫黄の匂い》と書いた。それ以上は、今の段階では言えません」
ソーマは、帳面へ書き直した。
《硫黄のにおい:当時の記録者による表現。実際の発生源、成分、危険性は未確認》
文字にすると、少し冷たく見えた。
けれど、空白を空白のまま残すことは、冷たいことではない。
次に調べる人が、勝手な答えで迷わないための印だった。
翌日、ソーマたちは風の通り道を確かめることにした。
ルーサが建物の間へ弱い風を流し、細い布片がどちらへ揺れるかを観察する。壁際、荷車置き場、路地の角、粗硝石の蔵の北壁。それぞれに短い布を下げ、同じ時間に動きを記録する。
最初、ソーマは鉱石置き場から粗硝石の蔵まで、風がそのまま届くと考えていた。
地図の上では、それが一番短い。
だが、実際には木材置き場の高い壁が風を受け止め、流れを二つに分けていた。片方は門の方へ戻り、もう片方は、粗硝石の蔵よりさらに奥の狭い路地へ入る。
粗硝石の蔵の北壁へ届く空気は、そこで留まるわけではなかった。
屋根の隙間を回り、壁の角へぶつかり、弱くなった空気だけが、壁際にゆっくり残っている。
「違いました」
ソーマは、地図の上に引いた線を見た。
「鉱石置き場から、匂いがまっすぐ来ると思っていました」
「地図上の道と、空気の道は違います」
ルーサは言った。
「人は門を通ります。でも、風は壁の隙間を通る」
その言葉を聞きながら、ソーマは小さな失敗を記録する。
《地図上の最短経路を、空気の経路と仮定した。実際には壁と屋根の形状により、風は分岐し、粗硝石の蔵へ届き風量は弱まる》
けれど、弱まるからこそ気づいたこともあった。
北壁の前では、風が止まりやすい。
風向きが変わる時、ほかの路地から押し出された空気が、壁際へ溜まる。
匂いも、風が弱まって残っているのかもしれない。
「粗硝石の蔵で匂いがしたのは、発生源が近いからではなくて」
ソーマはゆっくり言った。
「風向きが変わる時に、匂いを含んだ空気が壁際へ残ったからかもしれません」
「可能性としてはあります」
ルーサは頷いた。
「ただ、今は匂いそのものがありません。昔と同じ風向きの日に、同じことが起きるかは確かめられない」
「分かりました」
ソーマは答えた。
再現できない。
それは、もどかしかった。
けれど、再現できないからといって、記録を捨てるわけにはいかない。
今の風の動きと、昔の匂いの記録を並べる。
そこに一致するところと、しないところを書き残す。
できるのは、今のところそれだけだった。
午後、マドレクが粗硝石の蔵の外で、壁際の石を掃いていた。
ソーマたちの地図を見ると、彼は北壁の向こうを指した。
「あちらの細い通りは、昔から荷車が通りません」
「どうしてですか」
「壁が近すぎて、荷車では曲がれないからです」
マドレクは箒を止めた。
「ただ、人は通ります。鉱石置き場で働く者も、急ぐ時はそこを抜ける。風向きが変わると、あの通りだけ妙に匂う日があると、聞いたことがあります」
「硫黄の匂いですか」
「皆、そう呼んでいました」
マドレクは少し困ったように笑った。
「けれど、私は何の匂いか知りません。鼻の奥に残る、湿った石のような匂いです」
ソーマは、壁の向こうにある細い通りを見た。
人の通る道。
荷車の通れない道。
風がゆっくり残る道。
昔の点検係は、そこで何度か同じ匂いを感じたのかもしれない。
壁の湿りとは、直接関係しない可能性が高い。
それでも、同じ壁際で起きていたことは事実だ。
「同じ場所で起きた、別のことかもしれません」
ソーマは言った。
「だから、記録では分けます。でも、どちらも記録には残します」
マドレクは、しばらく黙っていた。
「別のことだったとしても、壁を見に行く理由になる」
「はい」
「それなら、昔の帳面も無駄じゃなかったんでしょうな」
ソーマは、少しだけ胸が温かくなった。
技術者でも、錬金術師でもない人が残した短い一文。
冷たい壁。
湿った床。
変わる風。
硫黄のにおい。
そのどれもが、答えではない。
けれど、見過ごさなかったという印だった。
夕方、王立錬金院へ戻る前に、フェルド老師が北門の倉庫街を振り返った。
屋根の間に落ちる夕日が、石壁を赤く染めている。
「匂いは、まだ正体が分からん」
老師は言った。
「はい」
「壁の湿りとも、関係があるか分からん」
「はい」
「それでいい」
ソーマは、顔を上げた。
「いいんですか」
「分からないものを、分かったことにしなかった。それだけで、今日は前に進んでいる」
老師は、すぐに歩き出した。
ソーマは少し遅れて、その背中を追う。
風が、倉庫街の屋根を越えていく。
匂いは運ばれる。
けれど、その道を見つけるには、鼻だけを頼りにしてはいけない。壁の形、風の向き、人の通る場所、昔の帳面に残った短い言葉。
いくつもの小さな観察を、重ねなければならない。
ソーマは記録帳を開き、最後に一行を書き加えた。
《同じ場所に残る記録でも、同じ原因とは限らない》
書き終えてから、解釈の欄へ移す。
まだ、学ぶことばかりだった。




