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第4章 第111話 粗硝石の蔵の冷たい壁

第4章 第111話


粗硝石の蔵の冷たい壁


 王都北門の外れにある粗硝石の蔵は、昼になっても薄暗かった。


 北向きの壁には冬の日がほとんど当たらず、石造りの建物は外の冷気を抱え込んでいるようだった。扉を開けた瞬間、ソーマの頬にひやりとした空気が触れる。


 乾いた白い鉱物塩を扱う保管庫のはずなのに、壁際には湿った土の匂いがあった。


 ソーマは、古い点検記録に書かれていた一文を思い出す。


 《北壁、冷たく、袋傷む》


 書いた者は、何を見ていたのだろう。



 粗硝石の蔵は、今も一部が保管庫として使われていた。


 ただし、古い記録にあったすべての品が置かれているわけではない。壁際には空の棚が並び、中央には封をした袋と木箱が、石の台の上へまとめられている。


 管理人のマドレクは、五十を過ぎた頃の男だった。


 背は高くないが、革の手袋をはめた手は太い。蔵の修繕も、自分で行うらしい。


「壁が冷たい、というだけなら珍しくはないんです」


 マドレクは北壁へ手を当てた。


「困るのは、乾いているように見える日でも、袋の下が傷むことです」


 言葉はゆっくりしていた。


 急いで説明するより、相手の反応を見てから話す人なのだろう。


「あとは、壁が白くなっているとか、床が柔らかいとか、棚の足が黒ずんでいるとか」


 ソーマは、北壁へ近づいた。


 壁の下半分には、白い筋が何本か走っている。石の間を埋めた古い目地が、ところどころ粉を吹いたようになっていた。


 床板の端には小さな隙間があり、その周辺だけ木の色が暗い。


「雨漏りですか」


「屋根は去年、直しました」


 マドレクは首を振った。


「大雨のあとだけの現象でもないです。夏にも、同じところが湿るんです」


 エリシアが、古い記録と今の壁を見比べていた。


「当時の保管係も、北壁と床の傷みを一緒に書いています」


「同じ原因だと思っていたのかもしれません」


 ソーマが言うと、エリシアはすぐに頷かなかった。


「そうとも限りません。単に、同じ日に見つけただけかもしれない」


「……はい」


 ソーマは口を閉じた。


 壁が冷たい。


 袋が傷む。


 床が柔らかい。


 それらが一つの原因で起きているように見える。


 だが、それはまだ仮説だった。


「先に、見えるものを分けます」


 エリシアは言った。


「壁の冷たさ。白い跡。床板の傷み。袋の傷み。発生する時期。記録にあるのは、この五つです」


「あと、壁際の匂いも」


 ソーマは付け加えた。


「土が湿った時みたいな匂いがします」


 マドレクが、少し驚いたようにソーマを見る。


「そうだな。雨の後じゃなくても、あの辺りだけする」


 言葉にしてみると、記録には書かれていない観察が一つ増えた。


 ソーマは帳面を開き、観察の欄に書き込んでいく。



 北壁の前には、幅の狭い石台が置かれていた。


 袋を直接床へ置かないためのものだと、マドレクは説明する。


「昔は木のすのこでした。石に替えたら、袋の底が冷えるようになった」


「石台の上でも、湿るんですか」


「壁際に置いたものは、そうです」


 ソーマはしゃがみ込み、土魔法を静かに使った。


 石台は硬い。


 だが、壁に近い側だけ、感覚が少し重い。石の中に水があると断言できるほどではない。それでも、乾いた場所とは違う鈍い重さがあった。


 床の下も同じだった。


 中央の床板の下は、乾いた土と石が混じっている。けれど北壁に近づくにつれ、土の感触が密になり、冷たく重くなる。


 ソーマは魔法を止めた。


「壁の中だけじゃないかもしれません」


「床の下からですか」


 フェルド老師が問う。


「分かりません。でも、壁際の地面が中央より重く感じます」


「水がある、と言えるか」


「言えません」


 ソーマは首を振った。


「水かもしれない。別のものが混じっているだけかもしれない。土魔法だけでは、そこまで分かりません」


「よろしい」


 老師は短く言った。


「分からんところを、分からんと言えるなら、次を考えられる」


 エリシアが、記録札へ書き込む。


 《土魔法による感覚差あり。壁際の床下は、中央より重く冷たく感じられる。水分との関係は未確認》


 ソーマは、その文章を読んだ。


 自分の感覚が、記録の中でもちゃんと感覚として記載されている。


 少し安心した。


 ルーサは北壁の近くへ立ち、目を閉じた。


 細い風が、彼女の足元を一度回る。


「空気は、壁際へほとんど流れていません」


「風がないから、湿るんですか」


「風がないだけでは、湿りません」


 ルーサは壁を見た。


「ただ、壁が冷たくて、空気が動かなければ、湿った空気はそこに残りやすい。抜け道がないからです」


「壁の冷たさと、空気の動かなさが重なっている」


「そう見えます」


 ルーサは、言葉を選ぶように続けた。


「でも、外から湿気が入っているのか。床の下から来ているのか。蔵の中の空気が壁で冷やされているのか。今は、まだ分かりません」


 ソーマは頷いた。


 答えが一つに見える時ほど、別の道が隠れている。


 北西坑道の記録で学んだばかりだった。



 午後、ソーマは小さな試験を提案した。


 蔵に置かれている品物は動かせない。粗硝石を、勝手に取り出すこともできない。


 だから、同じ大きさの布袋へ乾いた粘土粉を詰め、壁際の石台と、蔵の中央の木棚に置くことにした。


 袋の口は、マドレクが使っている紐と同じように結ぶ。


 中身の粉は安全な粘土粉だが、袋の外側がどこから湿るのかを比べるには使える。


「一晩では短いかもしれません」


 ソーマは言った。


「でも、まずは置いてみたいです」


「いいでしょう」


 マドレクは答えた。


「壁に近い場所の方が悪いというのは、私も分かっています。けれど、どれくらい違うのかを見たことはない」


 試験袋を置く前に、ソーマは土魔法で袋の中の粉の詰まり具合を確かめた。


 片方だけ強く押し込まれていないか。


 中身の量に差がないか。


 均一ではない場合は結果を分かりにくくする。


 それからセラが、二つの袋へ別々の記号札を付けた。


 壁際には横線が一本。


 中央には丸印。


 文字が読めなくても、触れば区別できる札だった。


「確認は、明日の朝です」


 セラは言った。


「壁際の袋と中央の袋。表面の状態、重さ、置いた台の状態を、同じ順で記録します」


 ソーマは、少し気持ちが軽くなった。


 小さな試験でも、条件を揃えれば比べられる。


 比べられれば、次の仮説を立てられる。


 だが、その日の夕方、最初の見回りで問題が起きた。


 北壁の石台に置いた試験袋の上へ、蔵の隙間から落ちた細かな埃が積もっていた。


 白い粘土粉の袋は、外側が灰色に汚れている。


「これでは、袋が湿ったのか、汚れただけなのか分かりません」


 ソーマは袋を見つめた。


 早すぎた。


 袋の表面を比べればいいと思ったが、壁際には別の条件があった。埃。壁から落ちる細かな粉。棚の影。風の届かなさ。


「同じ布袋を置いただけでは分からない」


「足りなかったですね」


 エリシアは言った。


 責める声ではない。


「ですが、袋の表面へ埃や粉が落ちることが分かりました。それも条件です」


 マドレクが、壁を見上げた。


「昔の袋も、こうして汚れたんでしょうな」


「汚れと湿気を、同じ傷みだと思っていたかもしれません」


 ソーマは言った。


「袋が傷む理由は、一つではない」


 壁から落ちる粉。


 床から来る湿り。


 冷たい石台。


 空気の動かなさ。


 何か一つを直せば済む話ではないのかもしれない。


 ソーマは、試験袋をいったん持ち上げた。


「明日は、袋の下にも板を置きます。外から落ちるものと、下から来るものを分けたいです」


「壁から離した袋も置きましょう」


 エリシアが言った。


「壁際、壁から少し離した場所、中央。三つにすれば、少なくとも壁との距離で比較できます」


「石台と木棚も、別にした方がいい」


 フェルド老師が続ける。


「場所と台の材質を一度に変えるな。何が違ったのか分からなくなる」


 ソーマは、思わず顔を上げた。


 そうだった。


 壁際と中央で場所を変え、石と木で台を変え、埃の量も違う。最初の試験では、いくつもの条件を一度に動かしている。


「条件を増やしすぎました」


「気づいたなら、次は減らせ」


 フェルド老師の言葉に、ソーマは頷いた。


 失敗は、思ったより早く見つかった。


 だが、見つかったなら直せる。



 翌朝、ソーマたちは粗硝石の蔵へ戻った。


 まだ日が低く、北壁は昨日よりさらに冷たく見えた。扉を開けると、マドレクがすでに試験袋の前に立っていた。


「待っていました」


 彼は、触れずに袋を指した。


「壁際の袋だけ、下の石台に水の跡があります」


 昨日の埃を避けるため、袋の下には小さな乾いた木板を挟んでいた。


 その木板の裏側だけが、わずかに色を変えている。


 袋の上には、壁から落ちた粉がある。


 袋の下には、石台から伝わったらしい湿りがある。


 一方、壁から少し離した石台の袋には、同じような跡がほとんどなかった。


 ソーマは、木板を慎重に持ち上げた。


 土魔法で感じると、壁際の石台は昨日と同じく重い。中央の石台は、そこまでではない。


「壁に近い石台が冷えて、湿りやすい」


 ソーマは言った。


「でも、壁の中から水が出ているとは、言えません」


「それで十分です」


 エリシアは答えた。


「今分かるのは、壁際へ置いたものほど、下からの湿りを受けやすいこと。袋の傷みは、壁から落ちる粉と、台から来る湿りの両方に関係する可能性があることです」


 セラが光札へ書き込む。


 マドレクは、しばらく木板を見ていた。


「袋を壁へ寄せない。それだけでも、今よりはましになる」


「はい」


 ソーマは頷いた。


「すぐに壁を直せなくても、置き方は変えられます」


 高い棚を作るには木が要る。


 床を全部張り替えるには、蔵を空にしなければならない。


 壁の下を掘るなら、外側の通路も確かめる必要がある。


 すべてを一度に変えることはできない。


 けれど、壁から距離を取ること。袋の下へ乾いた板を置くこと。朝に床と台を点検することなら、今日から始められる。


「点検札を作りましょう」


 ソーマは言った。


「壁際の白い跡。石台の濡れ。袋の外側の傷み。床板の沈み。毎朝、この四つを見る札です」


「字が読めない者でも使えるように」


 セラが言う。


「壁は線、石台は四角、袋は縦線、床は格子にします。異常があれば、その記号の横へ赤い印を付ける」


 マドレクが、ゆっくり頷いた。


「蔵の返事を、誰が見ても分かる形にするわけですな」


「はい」


 その言い方が、ソーマには嬉しかった。


 記録は、難しい言葉で埋めるものではない。


 次に見る人が、同じ場所を確かめられるようにするものだ。



 帰り際、オルセインは古い点検記録を閉じずに、最後の頁を開いた。


 そこには、保管係が小さく書き足した文章が残っている。


 《北壁冷たし。雨なき日も床湿る。風向き変わる折、硫黄のにおいあり》


 ソーマは、その一文を読んで眉を寄せた。


「硫黄のにおい」


「北門の外には、昔から鉱石を扱う倉が集まっていた」


 オルセインは言った。


「風向きが変われば、別の倉のにおいがここまで流れたのだろう」


「それが湿気と関係しているんですか」


「分からん」


 オルセインは即座に答えた。


「だが、記録した者は、冷たい壁と同じ頁に書いた。何か見ていたのかもしれん」


 ソーマは、最後の一文を帳面へ写した。


 壁。


 床。


 湿気。


 風。


 におい。


 今はまだ、つながらない。


 けれど、つながらないからといって、消してはいけない。


 粗硝石の蔵の冷たい壁は、ただ古く傷んだ壁ではなかった。


 誰かが長い間、見過ごされないように書き残してきた、問いの入口だった。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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