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第4章 第110話 燃える粉と舞う粉

第4章 第110話


燃える粉と舞う粉


 北西坑道の事故記録には、煤の匂いまで残っているように思えた。


 もちろん、紙そのものから煤の匂いがするわけではない。古い帳面は乾いていて、鼻を近づければ革と埃の匂いしかしなかった。


 それでも、頁の端に残った乱れた筆跡と、途中で途切れた記録を読んでいると、ソーマには暗い坑道の空気が胸へ入り込んでくるようだった。


 《壁面崩落後、視界不良。咳を訴える者多数。灯り、弱し》


 短い文字だった。


 何が崩れたのか。


 何が舞ったのか。


 なぜ灯りが弱くなったのか。


 書いた者も、そこまで確かめる余裕がなかったのだろう。


「先に言っておきます」


 机の向かいで、エリシアが言った。


「この記録だけでは、可燃性の粉が直接の原因だったとは言えません」


「はい」


「そして、粉が舞ったことと、何かが燃えたことは、同じ危険ではありません。順番に分けます」


 彼女は、いつものように紙を三つの欄へ分けた。


 観察。


 条件。


 解釈。


 ソーマは頷きながら、帳面の端を指で押さえた。


 昨日、軍務局で答えたことが頭に残っている。


 危険なものを作らない。


 その代わりに、現場を調べる。


 言葉にするのは簡単だった。


 けれど、古い記録を前にすると、自分がまだ何も分かっていないことが見えてくる。


 北西坑道の記録は、軍務局から昼前に届いた。


 厚い革紐で綴じられた報告書が三冊。崩落した場所を描いた粗い見取り図が二枚。さらに、当時坑道にいた者への聞き取りを後から書き留めた紙が、束になっている。


 王立錬金院の小さな解析室で、ソーマたちは記録を広げた。


 フェルド老師は、壁際の椅子に座っている。腕を組み、話を急かすことはない。ただ、記録の中で曖昧な言葉が出るたび、わずかに視線を動かした。


 セラは、光札へ頁番号と引用箇所を写していた。ハンナは、軍務局へ返す記録の範囲を確認している。


 そして、窓際には見慣れない女性が立っていた。


 細い灰色の髪を後ろでまとめ、胸元に風属性の青い徽章を付けている。年は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。窓の隙間から入る冷気が一点に溜まらないよう、指先で風を細く散らしていた。


「錬金院の換気管理をしている、ルーサ・ネイです」


 紹介されると、彼女は軽く頭を下げた。


「風は、抜け道を選んで進みます。坑道でも部屋でも、同じです」


 静かな言い方だった。


 けれど、風の性質をよく知る人の言葉には、揺るぎがなかった。


「北西坑道の記録に、風のことは書かれていましたか」


 ソーマが尋ねると、ルーサは机の上の見取り図へ目を落とした。


「正確には、あまり書かれていませんね。入口が一つ、作業場が二つ。奥に古い掘り跡。これでは、どこへ空気が流れ、どこで止まるかまでは分かりません」


「風がなければ、粉は舞わないんじゃないですか」


「最初に粉が舞い上がるきっかけは、風だけではありません」


 ルーサは、記録の一文を指した。


 《崩落の後、人員が走り、荷車を引き出す》


「人が動く。荷車が通る。壁が落ちる。そういう動きでも、粉は舞います。風がなくても、最初の粉塵は出るんです」


 ソーマは、記録を読み直した。


 崩れた壁。


 走った人。


 引き出された荷車。


 灯りの弱まり。


 咳を訴えた者たち。


 今までなら、ただ事故の後に起きた混乱として読み流していたかもしれない。


 けれど、細かな粉が空気へ出たと考えると、一つひとつの記述が別の意味を持ち始めた。


「仮説を立てよう」


 ソーマは、低く呟いた。


 フェルド老師が、わずかに口元を動かした。


「聞こえているぞ」


「すみません」


「続けろ」


 ソーマは記録帳を開いた。


「崩落で出た細かな粉が、人や荷車の動きで坑道内に広がった。可燃性があるかどうかとは別に、視界と呼吸に影響した可能性があります」


「よい」


 エリシアが言った。


「ただし、影響したと断定はしません。可能性として、解釈の欄へ」


「はい」


 ソーマは言葉を選びながら書いた。


 《崩落による細かな粉が、救助作業中に空気中へ広がった可能性がある。視界不良及び咳との因果関係は未確認》


 書き終えると、昨日までより少し、空白を残すことに慣れた気がした。


 午後、ルーサの提案で、小さな観察箱を使うことになった。


 透明な硝子板と木枠で作られた、両手で抱えられるほどの箱だった。片側に細い空気の通り道があり、上には光札を差し込むための溝がある。


 フェルド老師が最初に言った。


「粉がどのように動くかを見るために使え」


 使うのは、乾いた粘土を砕いて選別した細かな粉と、粒の大きい砂だった。


 どちらも、燃えるものではない。


 実際の危険粉を使った試験ではなく、舞い方の違いだけを見るための安全な代替だった。粉を扱う以上、全員が布を口元へ当て、観察箱の蓋を閉じてから作業した。粉を外へ出さないようにし、内部の動きを光札で見る。


 ソーマは、同じ重さの砂と粘土粉を、別々の小皿へ用意した。


 土魔術を使って確かめると、砂は粒ごとの境目がはっきりしている。対して粘土粉は、指先から伝わる感覚が曖昧だった。細かすぎて、粒を一つずつ追えない。


 それでも、重さの偏りや、粒の集まり方なら、かろうじて分かる。


「細かい方が、長く空気に残ると思います」


 ソーマは言った。


「それを見たいんですね」


 ルーサは頷いた。


「ただし、風を当てすぎてはいけません」


「風を当てすぎる?」


「強い風は、粉を激しく動かします。坑道で問題になるのは、弱く流れる空気や、人が通った後の揺れで、その時に粉がどこに残るかを見ることが大事です」


 ルーサは指を箱の脇に添えた。


「風は流れやすい道を通ります。行き止まりなら、そこで渦を巻く。だから、同じ粉でも動き方が変わります」


 最初の試験では、砂を箱の中央へ置いた。


 ルーサがごく弱い風を通すと、砂は少し跳ねてから、すぐに底へ落ちた。光札の細い線の中でも、粒の動きはほぼない。


 次に、粘土粉を置く。


 箱を閉じ、同じように風を流した。


 細かな粉が、ふわりと持ち上がった。


 白い靄のようなものが、光の線を横切っていく。


 けれど、思っていたより早く、出口側へ流れて消えた。


「……違う」


 ソーマは呟いた。


 細かな粉は長く残るはずだと思っていた。


 だが、観察箱の中では、風が粉を出口へ運び去ってしまう。これでは、粉が坑道内に留まる時間を比べたことにならない。


「箱の形が、坑道と違います」


 ソーマは言った。


「出口が近すぎる。風があると、粉が残る前に外へ出てしまう」


「その通りです」


 ルーサは、箱の横を軽く叩いた。


「今見えたのは、粉が坑道内に留まる様子ではなく、風によって出口へ運び出される様子です」


 失敗だった。


 小さな観察でも、見たいものと、実際に見えているものは違う。


 ソーマは、思わずため息を吐いた。


 王立錬金院なら、道具が揃っている。風属性の術者もいる。だから、すぐに答えが出るような気がしていた。


 けれど、箱の形が違うだけで、結果は変わる。


 前世でも、装置の中でうまくいったことが、現場で同じように動くとは限らなかった。


 規模が変われば、流れも変わる。


 材料が同じでも、場所が違えば、条件は変わる。


「もう一度、仮説を立て直します」


 ソーマは言った。


 フェルド老師は頷いた。


「そうしろ」


「粉が長く残るかどうかだけではなく、粉がどこに溜まり、どの動きでまた舞い上がるかを見ます。狭い場所や、風が届かない場所があるなら、そこに溜まるかもしれません」


「よい」


 エリシアが、記録札へ書き込む。


「最初の観察では、出口が近く、風の強さも坑道内の空気の流れと比較できませんでした。失敗の条件として残します」


 その言葉を聞くと、少しだけ心が落ち着いた。


 失敗したことを隠さず、次の試験の条件に変える。


 それなら、まだ進める。


 二度目は、観察箱の空気の通り道を一つ閉じた。


 ルーサは、最初にほんのわずかな風を通し、そのあとで魔術を止める。箱の中に残った空気の流れが、どのように静まるかを見るためだった。


 ソーマは、細かな粘土粉を箱の奥へ置いた。


 光札の線が、箱の内部を淡く照らす。


 ルーサが、指先を動かした。


 粉が少し持ち上がる。


 風を止めたあとも、すぐには底へ落ちなかった。


 白い靄が、箱の奥にゆっくりと留まる。


 砂と比べれば、明らかに長い。


 だが、長さを数字にするには、今の道具では足りなかった。光札の明るさは一定でも、粉の濃さを正確に測る器具はない。


 ソーマは、光の線が見えにくくなるまでの観察を、記録帳へ書いた。


 《砂:風を止めた後、直ちに底へ戻る》


 《細粉:風を止めた後も、光の線が見えにくい状態が続く》


 《時間の数値化はできず》


 その最後の一文を書いてから、ソーマは少し迷った。


 数字にできないことが、もどかしい。


 けれど、できないものをできるように見せるよりはいい。


「灯りが弱くなった、という記録は」


 エリシアが、北西坑道の報告書へ目を落とした。


「実際には灯りそのものが弱まったのではなく、細かな粉によって見えにくくなった可能性もありますね」


「はい」


 ソーマは頷いた。


「でも、灯りが本当に弱くなった可能性も残ります。燃えるものが近くにあったのか、空気の流れが変わったのか、別の原因かもしれません」


「順番に分けます」


 エリシアは言った。


「灯りが弱く見えたこと。粉が舞った可能性。可燃性の粉があった可能性。この三つを、同じ欄へは記録ない」


 彼女の話し方は、いつも正確だった。


 けれど今日は、その正確さが冷たく感じなかった。


 分けることで、見えなくなるものもある。


 だが、分けずに混ざったままだと、多くのものを見失ってしまう。


 夕方、オルセインが書庫から一冊の記録を持ってきた。


 表紙には、《王都北門・粗硝石の蔵の保管点検記録》とある。


 その文字を見た時、ソーマは少しだけ身構えた。


 前世の記憶にも、近い言葉があった。


 けれど、ここで知っていることを先に出すわけにはいかない。名前だけで危険を決めないと、昨日学んだばかりだった。


「北西坑道の事故より、ずっと古い記録です」


 オルセインは帳面を机へ置いた。


「黒火粉という索引札が付いていた。だが、原題にはその名がない」


 頁を開くと、そこには倉庫の壁、床、棚についての記録が並んでいた。


 壁際が冷たく湿りやすいこと。


 床に白い跡が残ること。


 袋の外側が傷むこと。


 保管係が、粉の用途よりも建物の傷みを気にしていたこと。


 ソーマは、ゆっくりと読み進めた。


「粉そのものより、倉庫の状態が多く書かれています」


「そうだ」


 オルセインは頷く。


「危険な材料を記録する者は、材料だけを見る。だが、事故は壁や床や空気が原因で始まることもある」


 フェルド老師が、北西坑道の見取り図と古い倉庫記録を並べた。


「粉が燃えるかどうかだけではない。粉がどこに溜まるか。湿気を吸うか。袋や棚が傷まないか。人が安全に近づけるか。扱う場所の方が先に壊れていないか」


 ソーマは、白硬材候補を思い出した。


 材料が良くても、施工する壁が傷んでいれば意味がない。


 配合が合っていても、水が多すぎれば崩れる。


 粉もまた、粉だけでは成り立たない。


 棚。


 床。


 壁。


 空気。


 人の動き。


 すべてが、条件になる。


「明日は、この粗硝石の蔵の記録を読みましょう」


 エリシアが言った。


「冷たい壁と湿気が、粉の保管状態にどう関わったのか。分かっていることと、推測に過ぎないことを分けます」


 ソーマは、頷いた。


 可燃性の粉を作らない。


 そのために、可燃性の有無だけで判断しない。


 燃える危険と、舞う危険。


 粉そのものと、粉を扱い、保管する場所。


 分けなければならないことは、まだ多い。


 けれど、分けて考えた先でしか、人を危険から遠ざける道は見つからないのだと思えた。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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