第4章 第109話 作らない理由
第4章 第109話
作らない理由
軍務局の建物には、窓が少なかった。
王立錬金院よりも低く、厚い石壁で囲まれた四角い建物だった。冬の光が石畳へ落ちているのに、扉をくぐった先は薄暗い。革、油、湿った羊毛、それから磨かれた金属の匂いが混ざっていた。
ソーマは、首から下げた入館札を握りしめた。
昨日まで書庫で読んでいた《黒火粉》という言葉が、ここでは急に重く感じる。記録帳の中に残された曖昧な呼び名ではなかった。
人を動かす言葉。
命令書に載れば、荷車が動く。
許可札に載れば、倉庫の扉が開く。
軍務局でその名を扱うというのは、そういうことなのだろう。
「歩幅を小さくするな」
隣を歩くフェルド老師が、前を向いたまま言った。
「怖いなら、怖いまま歩け」
「……はい」
背筋を伸ばしても、不安は消えなかった。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
照会室は、思っていたよりも簡素だった。
壁には王国の地図が掛けられている。鉱山地帯、街道、河川、砦の位置が、細い線と小さな記号で書き込まれていた。窓際には補修された盾と、古い坑道の見取り図が描かれた板が立てかけられている。
中央の長机を挟み、軍務局側には三人が座っていた。
中央にいる男は、大柄だった。
短く刈った灰色の髪。土の色をした外套。右手の甲には、細かな傷がいくつも残っている。書類を読む姿勢は静かだが、机の上へ置かれた指先は、岩を押さえるような迫力があった。
「フェルド・ヴァイス殿」
男は顔を上げた。
「王立錬金院のオルセイン殿。発明登録局のハンナ殿。第二検査室のエリシア殿。そして、ソーマ・アルディス殿か」
「はい」
「軍務局土木・兵站監督官、バシュ・レイガン少佐だ」
少佐は、ためらいなく続けた。
「答えは三つに絞れ。作れるか。使えるか。代わりはあるか。細部は、その後で聞く」
短く、迷いのない話し方だった。
命令に慣れた人の声だと、ソーマは思った。
エリシアが、昨日まとめた照合表を机の中央へ置く。
「まず、名称についてです。《黒火粉》は、単独では材料を特定しません。王立錬金院の古い索引では、黒い色を持つ粉、可燃性が疑われる粉、過去に事故を起こした混合粉、用途不明の禁制品まで、複数の記録をまとめるために使われています」
「つまり、名だけでは分からん」
「はい」
「分からんものを、軍務局は管理できん」
少佐は照合表を一枚めくった。
「だから聞いている。実際に危険な性質を持つものを、適切に管理するためにな」
「その目的自体は理解しています」
エリシアは答えた。
「ただし、名称から危険を決めるのではなく、確認された性質と保管条件から分けるべきです」
少佐の灰色の目が、わずかに細くなる。
「性質とは」
「熱を持つ恐れがあるか。燃える恐れがあるか。粉が舞い上がりやすいか。水で変わるか。密封や輸送に制限が必要か。確認できる範囲で記録します」
「確認できぬものは」
「不明として隔離します」
机の端にいた書記官らしい男が、小さく眉を動かした。
「不明では、現場が困るでしょう」
「分かったふりをして間違う方が困ります」
エリシアは、すぐに言った。
声は強くない。だが、引かない言い方だった。
「不明なものは、勝手に試さない。勝手に運ばない。勝手に混ぜない。そのために《不明》という分類を置きます」
短い沈黙が落ちた。
ソーマは、昨日の書庫を思い出していた。
分類できないものを、無理に箱へ入れる。そうすれば、人は安心する。けれど、安心したまま扱えば、見落としが起きる。
土魔術で感じ取れないものがあるように、帳面の上でも、まだ分からないものは分からないまま残さなければならない。
「よろしい」
少佐は言った。
「一つ目は理解した。では二つ目だ。ヴァイス殿」
フェルド老師へ視線が向く。
「黒火粉と呼ばれるものを、作れるのか」
室内の空気が、少しだけ固くなった。
ソーマは、膝の上で手を握った。
フェルド老師は、少佐の目を見返した。
「フェルド工房は、可燃性の粉は作らん」
「作れないのではなく、作らないと」
「そうだ」
「理由を聞こう」
老師は、一度だけ息を吐いた。
「名前が曖昧だからだ。何を指すかも定まらないものを、作れるかと問われても答えられん」
「それは名前の問題だ」
「名前だけの問題ではない」
フェルド老師の声が低くなる。
「危険なものは、作る時だけ危険なのではない。運ぶ時、置く時、捨てる時、誰かに渡る時まで、長い間、人を危険にさらす。小さな工房で扱えるか。町の倉庫で保管できるか。荷馬車で運べるか。答えは、どれも簡単ではない」
「魔法がある」
書記官が言った。
「火を制御できる者、水を扱う者、土で壁を作る者もいる。王都の設備ならば」
「魔法は、失敗を隠す道具ではない」
フェルド老師は言葉を重ねた。
「火を扱える者がいても、熱がいつも思い通りになるわけではない。水を扱える者がいても、流れたものをすべて集められるわけではない。土の壁も、壊れた後では人を守れん」
ソーマは、老師の横顔を見た。
フェルド老師が事故について語る時、声を荒げることは少ない。
けれど、だからこそ重かった。
失ったものを知っている人の言葉だった。
「では、ソーマ・アルディス殿」
少佐の視線が移る。
「お前はどう考える」
胸の奥が、急に冷えた。
何を知っているかと問われている気がした。
前世の記憶にある、危険な技術。大きな力を制御しようとして、多くの人が工夫を重ねた歴史。
だが、制御できるように見えることと、危険がなくなることは違う。
安全に寄せるための工夫が、より多くの人の手へ渡す理由になった例も、知っている。
ここで、知っていることを並べてはいけない。
知らないからではない。
知っているからこそ。
「僕も、作らない方がいいと思います」
ソーマは言った。
「可燃性の粉を作ることは、岩を割るためだけの話ではありません。作る人、運ぶ人、保管する人、近くで暮らす人まで、長く危険にさらすことになります」
「危険があるから、使わないのか」
「はい」
「戦では、危険を避けられない」
少佐の声に怒りはなかった。
「坑道では、岩を割れなければ人が閉じ込められる。崩れた壁を直せなければ、砦を守れない。危険を嫌って何もしないなら、それもまた人を危険にさらす」
ソーマは答えられなかった。
少佐の言うことは間違っていない。
危険な技術を拒むだけで、岩がなくなるわけではない。坑道が安全になるわけでもない。
可燃性の粉を使わないなら、代わりに何をするのか。
その問いへ答えなければ、ただ目を逸らしていることになる。
「代わりの方法を、考えます」
ソーマは言った。
「ですが、今ここで、どんな岩にも使える方法があるとは言えません」
「答えは三つに絞れと言った」
少佐は言う。
「作らない。使わない。では、代わりはあるのか」
言葉が詰まった。
ソーマは、机の上に広げられた王国地図を見た。
山地。川。鉱山町。街道。
石は場所によって違う。崖の岩と、川底の石と、黒砂が集まる土地の岩は違う。土魔法で読めるものも、読めないものもある。
それなのに、代わりの方法を一つの言葉で答えようとしていた。
それが間違いだった。
「……ありません」
ソーマは言った。
「一つで済む代わりは、ありません」
少佐の眉が動く。
けれど、ソーマは続けた。
「岩の割れ方も、地面の水も、坑道の空気も違います。だから、先に調べないといけません。割れ目を読む。水が入り込む場所を見る。崩れそうなところを支える。くさびや水を使える場所かを見極め、熱を使うにしても安全に使える場所かを区別する」
言葉にするほど、考えが整理されていく。
「土魔法で、岩の中が全部見えるわけではありませんが、沈み感や抵抗感の違いから、崩れやすい筋に気づけることはあります。危ない場所を避けられるかもしれません」
「時間がかかる」
「かかります」
「人手も要る」
「はい」
「水がない坑道では」
「水を使う方法は、使えません」
少佐は、一つずつ限界を置いていく。
そのたびに、ソーマの胸は苦しくなった。
けれど、今度はその場を取り繕う言葉を出さなかった。
できないことを、できるとは言わない。
「だから、場所ごとに記録を取ります」
ソーマは言った。
「どんな岩だったか。どこに水があったか。どれくらい崩れやすかったか。どんな方法を試し、何が駄目だったか。換気は足りていたか。排水はどこへ逃がしたか。粉が舞う場所はあったか。積み上げないと、危険なものを一つ作って全部解決するより、遅いと思います」
そこで一度、息を吸った。
「でも、人を巻き込む範囲は減らせるかもしれません」
室内は静かだった。
フェルド老師が、横目でこちらを見る。
それは褒める視線ではない。
けれど、止める視線でもなかった。
少佐は地図を引き寄せた。
王都の北西、山脈の麓にある鉱山地帯を指先でなぞる。
「ここでは、岩が硬い。水は少ない。坑道は古い」
次に、南東の丘陵を示した。
「ここは水が多い。土は柔らかい。だが雨季には崩れる」
それから、川沿いの採石場を指す。
「ここでは、運び出す石が重い。街道が近いから、人の出入りも多い」
同じ《岩を割る》という目的でも、必要なことは違う。
ソーマは、初めて少佐が何を求めているのか、少しだけ分かった。
可燃性の粉そのものが欲しいのではない。
現場で困っている者たちに、早く答えを渡したいのだ。
ただ、その答えを急ぐあまり、危険な名前へ手を伸ばしかけている。
「レイガン少佐」
ソーマは言った。
「可燃性の粉を作らない代わりに、現場の記録を見せてもらえませんか」
「何を見る」
「事故が起きた場所です。岩の種類。水の入り方。崩れた場所。粉が舞った場所。今までに何を試して、何が駄目だったか。作業の目的も分けたいです。岩を割りたいのか、人を坑道から出したいのか、採掘量を増やしたいのか、壁を落としたくないのかで、見る場所が変わります」
少佐は黙った。
「僕だけでは、できません。土魔法だけでも足りません。水、風、火、壁を作る人、それぞれの仕事が必要です。でも、何も見ないまま危ないものを作るよりは、先に調べたいです」
「調べて、答えが出なければ」
「答えが出なかったことも書きます」
ソーマは、自分でも驚くほど静かに言えた。
「その記録があれば、次の人は同じことをしなくて済みます」
少佐は、しばらく地図を見ていた。
やがて、低い声で言う。
「現場は、待ってくれん」
「分かっています」
「だが、死んだ者も多い」
その言葉には、怒りよりも疲れがあった。
少佐は椅子から背を離し、机の端に置かれた古い見取り図を手に取った。
「三年前、北西の坑道で壁が落ちた。新しい掘り方を試した直後だった。何が悪かったか、記録は残っていない。残っているのは、死者の数だけだ」
ソーマは、何も言えなかった。
白硬材候補を作ってきた時、自分は何度も失敗した。
割れた。崩れた。水に沈めたら形を失った。
けれど、失敗したのは小さな試験片だった。
誰かの手足や、命ではなかった。
「だから、簡単な答えを欲しがる」
少佐は言った。
「一つ作れば岩が割れる。一つ使えば坑道が進む。そう言われれば、手を伸ばす者がいる」
「……僕も、そういう答えが欲しくなることがあります」
ソーマは呟いた。
万能の配合。
どこでも通じる方法。
前世の記憶から、すぐに答えを取り出せるという思い込み。
けれど世界は、材料や場所や人の都合で変わる。
だから、知識だけでは足りない。
「だったら」
フェルド老師が口を開いた。
「欲しい答えを作る前に、欲しい結果を聞け」
少佐が顔を上げる。
「岩を割りたいのか。人を坑道から出したいのか。採掘量を増やしたいのか。壁を落としたくないのか。目的が違えば、方法も変わる」
老師は、机の上の照合表を指した。
「可燃性の粉は、どれにも使えるように見える。だが、どれにも危険を広げる。必要な仕事を一つずつ分けろ」
オルセインが、静かに頷いた。
「名を一つにまとめたがる者は、目的まで一つにまとめてしまう。黒火粉という名が、まさにそうだ」
エリシアは、書きかけの記録札を見つめていた。
そして、机へ新しい札を置く。
《照会への回答案》
その下に、三つの項目を書いた。
《一、黒火粉は単独の材料名として定義しない》
《二、可燃性の粉の製造、試験、保管をフェルド工房は引き受けない》
《三、代替策は、場所ごとの調査、採掘方法の選定、坑道補強、換気、排水、粉塵管理を組み合わせて検討する》
「これでよろしいでしょうか」
エリシアは少佐を見た。
「不十分ですか」
少佐は三つの項目を読んだ。
すぐには答えなかった。
やがて、手の甲にある古い傷を親指でなぞる。
「不十分だ」
ソーマの胸が沈む。
「だが、今までの照会文よりは、ましだ。役に立つ」
少佐は続けた。
「軍務局は、一つの道具を求めていた。お前たちは、道具の前に現場を見ろと言う」
彼は短く息を吐いた。
「面倒な答えだ」
「はい」
ソーマは答えた。
「すみません」
「謝るな。面倒なことと、間違っていることは別だ」
その言い方は、エリシアのものと少し似ていた。
けれど少佐の声には、現場で待つ者たちの重さがあった。
照会が終わる頃には、外はもう薄暗くなっていた。
軍務局の廊下を出ると、冷たい風が顔へ当たった。王都の屋根の間に、夕方の煙が細く流れている。
ソーマは、建物の前の石段で立ち止まった。
自分の答えが正しかったのか、まだ分からない。
可燃性の粉を作らないと言った。
けれど、それで困っている人を助けられるとは限らない。
代わりの方法は、今から探さなければならない。
「黙り込むな」
フェルド老師が言った。
「失敗したと思っているか」
「少し」
「何がだ」
「もっと、すぐに役に立つ方法を言えたらよかったです」
フェルド老師は、石段の下を見た。
王都の通りを、荷車がゆっくり進んでいる。火属性の術者が屋台の鍋を温め、水属性の術者が市場の石畳を洗っている。誰もが、自分の仕事をしていた。
「すぐ役に立つ言葉は、たいてい誰かが先に言っている」
老師は言った。
「だが、役に立つかどうかを確かめる言葉は、いつも足りん」
ソーマは、少しだけ顔を上げた。
「お前は、作れない理由を並べただけではない。何を調べるべきかを言った。そこから始めろ」
「はい」
その時、後ろからエリシアが出てきた。
彼女は記録札を抱え、いつも通り迷いのない足取りで石段を下りてくる。
「明日、軍務局から北西坑道の記録が届くそうです」
「もうですか」
「レイガン少佐は、気の早い人のようです」
エリシアは、少し考えてから言った。
「次は、可燃性の粉を作る話ではありません。燃える危険と、粉が舞う危険を分けて整理します」
ソーマは頷いた。
黒火粉という名前を、一つのものだと思わない。
可燃性の粉を、ただ恐ろしいものとして遠ざけるだけにもしない。
何が危険なのか。
誰に危険なのか。
何をすれば、人を危険から遠ざけられるのか。
そのために、また観察から始める。
冷えた王都の空気を吸い込むと、肺の奥が少し痛んだ。
ソーマは、記録帳を胸へ抱えた。
白い壁を作るために学んだことが、可燃性の粉に頼らないためにも使えるのなら。
遠回りでも、その道を選びたかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
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