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第4章 第108話 黒火粉の名

第4章 第108話


黒火粉の名


 《黒火粉》という言葉は、同じ頁に二度書かれていた。


 一度目は、古い筆跡で。


 二度目は、その筆跡よりずっと新しい、整った事務的な文字で。


 だが、二つの言葉は、同じものを指していなかった。


 ソーマは索引帳を前にして、しばらく頁をめくれなくなった。昨日、黒い札の棚で見つけた名前が、朝からずっと胸の奥に残っている。


 黒い火の粉。


 言葉だけなら、ひどく分かりやすい。黒くて、火に関わる粉だ。けれど実際には、その分かりやすさが一番危ういのだと、古い書庫へ来てから何度も思わされていた。


「顔色がよろしくないですね」


 向かい側の席で、エリシアが言った。


 今日の彼女は灰色の作業衣の上に、袖の長い紺の外套を羽織っていた。書庫の冷えを避けるためらしい。卓上にはすでに四つの帳面と、細い光札が整然と並べられている。


「眠れましたか」


「少しだけ眠れました」


「少し、という言葉は量を曖昧にします」


 エリシアはさらりと言ってから、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


「……ですが、今は追及しません。順番に参りましょう」


 彼女は帳面を一冊、ソーマの方へ押し出した。


 表紙には、《王都及び周辺地域・可燃性が疑われる粉類名称照合》と書かれている。


「軍務局から届いた照会文です。明日の午後までに、《黒火粉》という名称を整理してほしいとのことでした」


「整理、ですか」


「ええ。定義してほしい、とも書いてあります」


 エリシアの指先が、照会文の末尾を軽く叩く。


 そこには、短い一文があった。


 《鉱山及び軍用保管庫における危険物管理のため、黒火粉の該当範囲を明確にされたし》


 ソーマは、その文字を読んでから、もう一度読んだ。


 危険物管理。


 そのためなら、名前を整えることは必要に思える。


 けれど、軍用保管庫という言葉が続くと、意味が変わる。


 何を危険と呼ぶのか。


 誰が、それを扱うのか。


「老師は」


「奥の棚です」


 エリシアは視線だけを動かした。


「オルセイン殿と、照合に使う記録を選んでいます。私たちは先に、現在の用法を分けます」


 ソーマは頷き、帳面を開いた。


 最初の頁には、王都で近年使われた《黒火粉》という言葉が、出所ごとに書き出されていた。


 鉱山町の荷札。


 倉庫の事故報告。


 染料商による注文書。


 さらに、用途不明のまま禁制品の欄へ移された古い記録。


 ソーマは、染料商の一行を見て眉を寄せた。


「染料商も、この名前を使うんですか」


「使っています」


 エリシアは答えた。


「ただし、その注文書にあるものは、火を使うための粉ではありません。黒い色を出すための粉です」


「じゃあ、同じ名前でも危険ではない」


「そうです。色だけでは判断できません」


 彼女は新しい帳面を開き、頁を四つの欄に分けた。


 名称。


 出所。


 時期。


 記述された性質。


「言葉が使われた場所を調べる必要があります」


「名前だけを集めても、意味は分からないということですか」


「その通りです」


 エリシアは筆を置いた。


「黒火粉という名前を、一つの材料の名前と考えると、間違ってしまいます」


 ソーマは、父の試料箱を思い出した。


 同じように黒い石でも、川で拾ったものと崖で拾ったものでは、手触りも重さも違った。黒砂だって、磁鉄鉱に反応するものと、反応しない重い粒があった。


 見た目だけで同じ箱へ入れれば、後で必ず困る。


 名前もまた、試料箱の札に似ているのかもしれない。


 分かりやすくするために付ける。


 けれど、分かりやすくしすぎれば、違うものまで同じ名前にしてしまう。


 午前の書庫には、頁をめくる音だけが続いた。


 ソーマは古い記録から、《黒火粉》という言葉が出てくる箇所を拾っていった。読み進めるほど、言葉は形を失っていく。


 ある鉱山の記録には、《黒火粉は坑内に持ち込まぬこと》とある。


 別の商人帳には、《黒火粉、黒染め用として荷車二台分》とある。


 さらに古い事故報告には、後から付けられた分類札として《黒火粉類》と書かれていた。


 黒い。


 粉である。


 火に関わる場合がある。


 それだけでは、あまりに足りない。


 ソーマは、一度目の分類を試みた。


 火に関わる記述のあるもの。


 黒い色だけを示すもの。


 用途不明のもの。


 帳面の上では、それなりに整って見えた。


 だが、鉱山の記録を読み直した時、手が止まった。


 《黒火粉は坑内に持ち込まぬこと》


 これだけでは、なぜ持ち込まないのか分からない。


 火が危険だからなのか。


 粉が危険だからなのか。


 坑内の空気や狭さが関係するのか。


 それとも、単に昔から禁じられていたのか。


 ソーマは、欄の端に《採掘用危険粉》と書きかけた。


「止めてください」


 エリシアの声がした。


 昨日と同じだった。


 鋭いけれど、怒鳴る声ではない。


「その言葉は、記録のどこにありますか」


 ソーマは筆先を止めた。


「……ありません」


「では、名称としては書けません」


「でも、坑内に持ち込むなとあるなら」


「理由を推測することはできます。ですが、推測を名称へ変えることはできません」


 エリシアは、自分の帳面をソーマへ向けた。


 彼女の欄には、《坑内持込禁止。理由は記録なし》とだけ書かれている。


 余白には、細い字で《要・原記録照合》とあった。


「言葉を増やすほど、意味が正確になるとは限りません」


 ソーマは、書きかけた文字を消した。


 昨日の事故記録と同じだ。


 分からない理由を、分かったように言いたくなる。危険なものならなおさら、原因を一つに決めたくなる。


 けれど、それは安全のためではない。ただ、自分が安心するために空白を埋める行為なのかもしれなかった。


「すみません」


「謝る必要はありません」


 エリシアは言った。


「気づいて直せばいい。記録は、そのためにあります」


 それから彼女は、ほんの少しだけ声を柔らかくした。


「私も、最初は何度もやりました。分類できないものを分類の外へ置くのが怖いんです」


 ソーマは顔を上げた。


「外に置くのが、ですか」


「分類できないものは、管理できないように感じるでしょう」


 エリシアは、光札を一枚持ち上げた。


「でも、分類できないものを無理に箱へ入れた方が危険です。箱に入ったと思った途端、人は安心してしまうから」


 その言葉は、ソーマの胸に深く残った。


 土魔術で感じ取れないものがある。


 沈み感や抵抗感を比べても、分からないものがある。


 だから、分からない試料は《不明》の箱に入れる。


 それは逃げではなく、次に調べるための場所を残すことだった。


 昼前になって、フェルド老師とオルセインが戻ってきた。


 二人は厚い帳面を三冊、抱えている。どれも黒い革の覆いが掛けられ、封じの光札が幾重にも貼られていた。


「原記録そのものは出さん」


 フェルド老師は、机へ帳面を置くなり言った。


「だが、索引の作成記録は見ることができる」


「黒火粉という名が、いつ誰によって付けられたかを見るためです」


 オルセインが補った。


「名は、材料より後から付くことが多い。後の者が便利だからとまとめた名前を、当時からあったものと思い込んではならん」


 オルセインは一冊目の帳面を開いた。


 そこには、古い記録の見出しと、後世の書庫係が付けた分類札が並んでいた。


 ソーマは頁を追い、すぐに気づいた。


 北倉庫事故の原題には、《黒火粉》という言葉がない。


 代わりに、《可燃性が疑われる混合粉類・保管中止》と書かれている。


 その下に、後から付けられた赤い分類札があった。


 《黒火粉類》


「……後の人が、まとめたんですね」


「そうだ」


 オルセインは頷いた。


「三十年ほど前の書庫整理で、似た事故記録を探しやすくするために付けられた。便利な整理だ。だが、便利さは時に、元の記録を塗りつぶして見えなくする」


 ソーマは、言葉を失った。


 昨日、黒い札の棚で見た《黒火粉》という名前には、長い歴史があるように思えた。


 けれど実際には、その言葉で整理された記録の中に、別々の材料も、別々の事故も、別々の用途も混ざっている。


 記録をまとめるために、後から名前が置かれた。


「では、軍務局は」


 エリシアが静かに尋ねた。


「書庫係が付けた分類札を、実際の材料名だと思っている可能性があります」


「可能性ではない」


 フェルド老師は言った。


「思っている。照会文の書き方がそうだ」


 彼は軍務局からの文書を指で叩いた。


「《黒火粉の該当範囲を明確にされたし》ではない。《黒火粉を管理するため、該当範囲を定めよ》だ。名前が先にあって、そこへ中身を集めようとしている」


「それが、なぜ危険なんですか」


 ソーマは尋ねた。


 答えは実は分かっていた。


 けれど、聞いておきたかった。


 フェルド老師は、少し考えてから言った。


「一つの名前に、危険なものと危険でないものを混ぜれば、安全なものまで危険視される」


 次に、黒い帳面へ視線を落とす。


「逆に、危険なものを安全と知られた名前の中へ入れてしまえば、危険が見逃される」


 オルセインが続けた。


「さらに、名が広がれば、欲しがる者が現れる。材料を知らぬ者まで、《黒火粉》という名を求め始める」


 ソーマは、背中が冷えるのを感じた。


 言葉は、物を運ばない。


 それでも、人を動かす。


 市場で、価値のある鉱石の名前が広がれば、似た石を売る者が出る。白硬材候補が評判になれば、まだ試験中の管理試料を使いたがる者が出る。


 黒火粉という名前が広がれば。


 危険なものを作れない者まで、危険な言葉を探し始めるかもしれない。


「では、名前を使わなければいいんでしょうか」


「使わないだけでは足りぬ」


 オルセインは杖を置いた。


「名前がすでにあるなら、消したところで、別の場所で使われ続ける。ならば、その名前が何を意味し、何を意味しないのかを記録しなければならん」


 老人は新しい帳面を開き、中央に線を引いた。


 左側に、《呼称》。


 右側に、《確認できる性質と扱い》。


「黒火粉という名を、材料名として扱わない」


 オルセインは言った。


「危険な性質を確認できるものは、その性質で管理する。確認できぬものは、確認できぬまま別に置いておく。色だけが黒い粉は、可燃性の粉としては数えぬ」


 エリシアがすぐに筆を走らせる。


「名称ではなく、観察できる性質で分ける」


「そうだ」


「ただし、原記録の閲覧範囲は維持する」


「その通り」


 ソーマは帳面を見つめた。


 それは、土の分類と同じだった。


 黒い石という見た目ではなく、重さの感覚、磁石への反応、割れ方、粒の大きさで分ける。


 黒火粉という名前でもなく、何が起きる恐れがあるか、どのように扱うべきかである。


 午後、書庫の小窓から差す光が傾いた頃、ソーマたちは一枚の照合表を作り終えた。


 《黒火粉》という呼称は、単独では材料を特定しない。


 古い記録の分類札として使われた場合がある。


 色を指す場合がある。


 火性や発熱の危険を示す場合がある。


 用途不明のまま、禁じられた場合もある。


 だから、管理には呼称ではなく、確認された性質と保管条件を用いる。


 書き上げたものを読み返しながら、ソーマはどこか物足りなさを覚えた。


 これでは、軍務局が欲しがる答えにならないかもしれない。


 黒火粉はこれだ、と一言で決める答え。


 ここにあるのは、決められないという答えだった。


「怖いですか」


 エリシアが尋ねた。


「……はい」


 ソーマは正直に答えた。


「軍務局の人たちに、これでは足りないと言われるかもしれません」


「言うでしょうね」


 エリシアは迷いなく答えた。


「ですが、足りないからといって、間違った答えを足してはいけません」


 それから、彼女は照合表の余白へ、細い字で一文を書き加えた。


 《呼称のみを理由とした製造、保管、輸送、試験を推奨しない》


「これは」


「名前だけを頼りに、何かを扱い始めないための文です」


「軍務局が消せと言ったら」


「順番に説明します」


 エリシアは、少しだけ顎を上げた。


「消す理由を、先に聞きます」


 彼女らしい答えだった。


 分類できないものを無理に箱へ入れない。


 曖昧な言葉を、便利な答えにしない。


 その頑固さが、今は頼もしく思えた。


 その時、書庫の外で、硬い靴音が止まった。


 扉を開けず、外側から低い声がする。


「王立錬金院、記録係殿。軍務局より文書を届ける」


 セラが立ち上がり、扉の脇にある受け渡し口を開いた。


 差し込まれた封書には、剣と盾を重ねた軍務局の印が押されている。


 エリシアが封を確認し、文を読んだ。


 最初の数行を読んだだけで、彼女の顔がわずかに固くなる。


「何だ」


 フェルド老師が問う。


「明日の照会に、質問が追加されています」


 エリシアは文を差し出した。


 そこには、こう書かれていた。


 《黒火粉及び類似物の製造可能性について、フェルド・ヴァイス並びにソーマ・アルディスの所見を求む》


 書庫の空気が、急に冷えたように思えた。


 ソーマは、文の文字を見つめた。


 作れるか。


 作れないか。


 技術を知っているか。


 その問いに答えれば、言葉はただの記録ではなくなる。


 人を、次の行動へ動かしてしまう。


 フェルド老師は、しばらく黙っていた。


 やがて、照会文を机へ置き、低く言った。


「明日は、作らない理由を話す」


 ソーマは頷いた。


 怖さは消えなかった。


 けれど、曖昧な名前に曖昧な答えを重ねるよりは、ずっとましだと思えた。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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