第4章 第107話 古錬金術の書庫
第4章 第107話
古錬金術の書庫
書庫の扉は、扉というより壁に見えた。
王立錬金院の北棟。その最も奥まった廊下に、継ぎ目の少ない黒い木の板が立っている。飾りはない。ただ中央に、銀の鍵穴が三つ並んでいた。
オルセインは杖の先をひとつ目の鍵穴へ近づけた。淡い光が触れると、乾いた音が廊下へ響く。二つ目、三つ目にも同じように光を当てると、重い板が内側へゆっくり開いた。
その向こうから流れてきた空気には、紙と革、それから湿った布の匂いがした。
「急ぐでない」
オルセインは振り返らずに言った。
「書は逃げぬ。もっとも、人はたいてい、読まずに逃げるがな」
ソーマは、扉の前で足を止めた。
フェルド老師、セラ、エリシアも一緒だった。昨日、廊下で呼び止められた時には、まさか古い書庫を見せてもらえるとは思っていなかった。
まして、ここに危険な錬金術の記録が残されていると聞いて、胸が落ち着かなくなるとも。
「入ってよいのは四人までです」
エリシアが言った。
「書庫内で読んだものは、外へ持ち出す前に記録係へ申し出ること。写しを作る場合も同じです。どの範囲を写すのか、順番に確認します」
彼女は昨日と変わらず、言葉を区切るように話した。
けれど今日は、ソーマへ向けた視線が少し違っていた。白硬材候補の試験で、彼が曖昧な言葉を自分から訂正したことを、彼女なりに覚えているのかもしれない。
「分かりました」
ソーマは頷いた。
扉の内側は、思っていたよりも暗かった。
背の高い書棚が、石壁に沿って何列も並んでいる。棚の間は人ひとりがやっと通れる程度に狭く、上の方にある本は梯子を使わなければ届かない。窓は小さく、厚い硝子が嵌め込まれていた。
棚ごとに、淡い光札が浮かんでいる。
白い札は公開記録。
青い札は管理記録。
赤い札は閲覧制限。
そして、何も光っていない黒い札が、最も奥の棚には付けられていた。
ソーマは、無意識に息を浅くした。
「黒い札は、何ですか」
「封じた原記録です」
オルセインは答えた。
「読めぬのではない。読む条件を、記録そのものに掛けておる」
老人は杖を床へ軽く突いた。
「危険な知識は、燃やせば消えると思う者がいる。だが、消えるのは紙だけだ。人の記憶や、別の帳面に残った断片まで消せるわけではない」
ソーマは黒い札を見つめた。
前世で読んだ資料や、研究者同士の会話。便利な技術ほど、使い方を間違えれば人を傷つける。知っていることが、いつでも役に立つとは限らない。
むしろ、知っているからこそ、言葉にしてはいけないことがある。
「だから、残す」
フェルド老師が言った。
「残して、鍵を掛ける」
「そうだ」
オルセインは小さく頷いた。
「ただし、鍵を掛けるだけでは足りぬ。何が危険で、何を避けるべきかまで隠せば、次の者が同じ失敗をする」
老人は白い札の棚へ歩いた。
そこには、薄い帳面が何冊も並んでいた。背表紙には、場所と年、それから短い記号だけが書かれている。
《可燃性が疑われる粉類・保管事故》
《鉱山用錬金材・人員被害》
《不明反応・調査継続》
ソーマは、最後の一冊に目を留めた。
「原因が分からないまま、残すんですか」
「分からぬものを、分かったふりで閉じる方が危険だろう」
オルセインの声は穏やかだった。
「空白には、空白と書く。若い土よ、おぬしもそれを覚え始めたところではないか」
若い土、と呼ばれて、ソーマは少しだけ戸惑った。
土魔術のことを言っているのだろう。けれど、名前ではなく性質で呼ばれたようで、妙に落ち着かなかった。
隣でフェルド老師が、わずかに眉を寄せる。
「弟子を妙な呼び方で呼ぶな」
「土を読む子供なら、土でよかろう」
「名前がある」
「あるとも。だから覚えておる」
オルセインは、ようやくソーマを見た。
「ソーマ・アルディスだな」
「……はい」
「ならば今日は、帳面を一つ、分けてみなさい」
案内された机の上には、古い記録束が置かれていた。
紙は黄ばみ、端が少し波打っている。水に濡れたことがあるのだろう。ところどころに薄い煤の跡があり、古い光魔法で封じられた印が、かすかに青く残っていた。
表紙には、短くこう書かれている。
《北倉庫事故・抄録》
「これは公開用の抄録です」
エリシアが説明する。
「原記録には、材料名、保管場所、当時の判断記録が残されています。ただし、閲覧には許可が必要です」
「ここには、何が書いてあるんですか」
「起きたことと、当時分かった危険。それから、再発を避けるために決められたことです」
ソーマは慎重に頁をめくった。
記録によれば、王都外縁の倉庫で、可燃性を持つと疑われる粉類を移送中、予期しない発熱と激しい破損が起きたらしい。倉庫の一部が壊れ、近くにいた荷運び人と管理人が怪我を負った。
けれど、最初に何が起きたのかは、最後まで特定されなかった。
火が先だったのか。
熱が先だったのか。
粉が舞ったことが被害に関わったのか。
別のものが混ざっていたのか。
頁の端には、後から書き足された文字がある。
《原因未確定。再現試験、禁止》
ソーマは、その一文を何度も読んだ。
「再現しなかったんですね」
「しなかった」
オルセインが答える。
「当時の責任者は、再現すれば原因が分かると考えた。もっともらしい考えだ。だが、同じ事故を起こすかもしれぬ試験を、怪我人が出た直後に行う理由にはならん」
杖の先の光が、紙の上でゆっくり揺れた。
「再現性は大切だ。だが、再現してはならぬ失敗もある」
その言葉に、ソーマは前世の研究室を思い出しかけた。
安全設備の整った部屋。厚い扉。保護具。緊急時の手順。何かが起きた時のために、何人もの人が用意されていた。
この世界には、魔法がある。
だが、魔法があるから安全なのではない。
火を扱える者がいても、熱は人を傷つける。水を操れる者がいても、流れたものをすべて戻せるわけではない。光属性が記録を残せても、失われた人の時間までは戻らない。
「ソーマ君」
エリシアが言った。
「この記録を、あなたの三つの帳面に分けるなら、どう書きますか」
急に問われて、ソーマは息を呑んだ。
観察。
条件。
解釈。
ラウゼンで、フェルド老師に教えられてから、何度も実施してきた分類だ。
けれどこれは、自分の失敗ではない。誰かが怪我をし、書いた者も、残した者も、今はもういない記録だった。
ソーマは紙と鉛筆を受け取り、ゆっくりと書き始めた。
観察した事実。
倉庫内で予期しない発熱と破損が起きた。複数人が負傷した。粉が床と空気中に散った。倉庫の一部が使えなくなった。
確認された条件。
移送中だったこと。保管場所が閉じた倉庫だったこと。当時の記録では、粉類の扱いと点検記録が十分に統一されていなかったこと。
解釈。
原因は未確定。複数の要因が重なった可能性がある。
そこまで書いて、ソーマは手を止めた。
頭の中には、いくつもの可能性が浮かんでいた。
熱。衝撃。湿気。混入。粉の細かさ。空気の流れ。
けれど、それらは抄録だけでは確かめられない。
ソーマは、紙の余白に一度だけ「粉塵」と書きかけた。
「待ちなさい」
エリシアの声が落ちた。
「その言葉は、どこから来ましたか」
ソーマは鉛筆を止めた。
「……粉が空気中に散ったと書いてあったので」
「散ったことは書いてあります。危険にどう関わったかを書くには、根拠が足りません」
「はい」
胸の奥が熱くなった。
分かっていたはずだった。
観察と推測を分ける。分からないことを、分からないまま残す。
けれど危険な事故を前にすると、空白を埋めたくなる。理由が分かれば避けられると思ってしまう。そう思うこと自体は自然でも、帳面の上で事実のふりをさせてはいけない。
「消すのではありません」
エリシアは、ソーマの紙を指した。
「解釈の欄へ移してください。可能性として挙がったが、確認されていない。そう書くなら、後から読んだ人も、事実と混同しません」
ソーマは頷き、余白の文字を線で消した。
そして、解釈の欄にこう書く。
《粉が空気中へ散ったことが、被害を広げた可能性がある。ただし、因果関係は未確認》
書き終えると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「よい」
オルセインが言った。
「検証されていない事柄で空白を埋めずに、解釈を可能性として書く。危険を扱う記録では、それが要る」
老人は、机の上へ三冊の薄い帳面を置いた。
一冊目は、白い表紙だった。
二冊目は、青い表紙。
三冊目は、黒い革表紙。
「同じ事故について書かれた、三つの帳面です」
オルセインは、白い帳面を開いた。
「白は、誰でも読める。危険があったこと、どのような場所へ近づかないか、事故が起きた時に人を遠ざけること。ここには、避けるための情報を置く」
次に、青い帳面を開く。
「青は、管理者と検査役が読む。保管の責任者、点検の時期、封の状態、閲覧を許した者。ここには、危険を近づけないための手順を残す」
最後に、黒い革表紙へ手を置いた。
だが、開かなかった。
「黒は原記録だ。後の時代が、必要な手続きのもとで検証するために残す。ただし、知りたいというだけでは開けぬ」
「どうして、捨てないんですか」
ソーマは訊いた。
「読ませないなら、なくしても同じでは」
「違う」
答えたのは、フェルド老師だった。
声は低く、固かった。
「捨てれば、誰かが別の場所で似たものを見つけた時、危険かどうかを確認できなくなる。ここの古い記録と比較することもできなくなる」
「それに」
オルセインが続けた。
「黒い帳面を持つ者にも、見張りが必要だ。誰が何を読んだのか。誰が何のために開いたのか。それらの記録がなければ、鍵を持つ者が危うくなる」
ソーマは、黒い帳面を見つめた。
封じることと、隠すことは違う。
危険を忘れないために残すことと、危険な技術を広めることも違う。
その境目は、思っていたより難しい。
少し休憩を取るため、書庫の隅にある小さな机へ移った。
セラが、冷めないように温めた湯を、小さな陶器のカップへ注ぐ。香草の香りが、紙の匂いに混ざった。
エリシアは記録札を整理していたが、ふと手を止めた。
「フェルド殿とオルセイン殿は、昔から面識があるのですね」
「面識どころではない」
フェルド老師が言った。
「若い頃、同じ建物にいた」
「私は記録室。フェルドは試験室」
オルセインが湯を一口飲む。
「だから、よく喧嘩をした」
「喧嘩ではない。お前が余計な鍵を増やしただけだ」
「おぬしが余計な扉を開けようとしただけだ」
そのやり取りは、怒鳴り合いではなかった。
けれど二人の間には、長い時間をかけて積もったものがある。
「事故のあとも、ですか」
ソーマが尋ねると、フェルド老師はしばらく答えなかった。
紙の上に落ちた光を見つめたまま、やがて言った。
「事故のあと、俺は記録を公開しようとした。危険な材料の細部ではない。何が起きて、何人が怪我をして、誰が判断を遅らせたかをだ」
「私は止めた」
オルセインが言う。
「公開の仕方によっては、事故よりも先に、危険な部分だけが広がると思った」
「そして錬金院は結局、都合のいい部分だけを残した」
「そうだ」
老人は否定しなかった。
その答えに、エリシアが目を伏せた。
「私は……その後の記録しか知りませんでした」
「知る必要はなかった」
フェルド老師は言った。
「お前の責任ではない」
「ですが、記録を整える側にいるなら、知らないままでいいとは思いません」
エリシアの声は、少しだけ硬かった。
いつもは迷いなく言葉を切る彼女が、今日は最後の言葉を急がなかった。
「私も、試験の失敗を記録から外したことがあります。小さな失敗だと思っていました。でも、次に同じ失敗をした人がいました」
彼女は短く言って、白い帳面の端を指でなぞった。
「記録は、残せばいいだけではないんですね。残し方を間違えれば、隠したことになる」
「その通りだ」
オルセインは頷いた。
「だから、書庫は一人のためにあってはならぬ。書く者、読む者、許す者、それぞれが違う人でなければならん」
ソーマは、湯気の消えかけたカップを両手で包んだ。
ラウゼンでは、記録帳は自分のためのものだった。
失敗した配合を忘れないため。次に同じ失敗をしないため。白硬材候補が水に耐える条件を、一つずつ確かめるため。
けれど、白硬材候補はもう自分だけの手を離れ始めている。
誰かが試すなら、その人が困らないように書かなければならない。誰かが怪我をしないように、書くことも書かないことも選ばなければならない。
記録帳への責任が、急に重くなったように思えた。
休憩のあと、オルセインは最も奥の棚へ向かった。
黒い札の下には、古い索引帳が置かれている。鍵は掛かっていなかったが、頁の端には光の印が入っていた。
「これは読めるのですか」
ソーマが聞くと、老人は頷いた。
「題名と分類だけだ。中身は読めぬ」
索引帳には、短い題名が並んでいた。
鉱山事故。
倉庫火災。
不明反応。
保管違反。
輸送中止。
その中に、ソーマは一つの言葉を見つけた。
《黒火粉》
胸の奥が、冷たくなった。
昨日から何度か聞いていた名前だ。白硬材候補を求める商人の口からも、王都へ入る時の荷札からも。
けれど、ここではその言葉が、いくつもの記録にまたがって書かれている。
一つは鉱山関係。
一つは倉庫関係。
一つは、軍務局の閲覧印の付いた封じられた記録。
「黒火粉は、一つのものではないんですか」
ソーマは慎重に訊いた。
「さあな」
オルセインは、索引帳を閉じた。
「昔の者は、黒く見える可燃性の粉をまとめてそう呼んだ。時代が変われば、言葉だけが残り、中身が変わる。逆に中身が似ていても、場所が違えば別の名で呼ばれる」
「では、名前だけでは危険かどうか分からない」
「その通り」
オルセインは杖を軽く持ち上げた。
「名は便利だ。だが便利な名は、人を考えを止めてしまう。黒火粉と聞いて、一つのものを思い浮かべる者は、過去の記録を読めておらん」
ソーマは、索引帳の頁を思い出した。
白硬材候補も同じかもしれない。
名前だけが先に広がれば、誰かは万能の壁材だと思う。誰かは水中でもすぐ固まる材料だと思う。誰かは、仮登録の管理試料でしかないことを忘れてしまう。
名前は、技術を運ぶ。
それこそ、間違った場所へも運んでしまう。
「明日」
エリシアが言った。
「錬金院と軍務局の合同照会があります。王都に入ってきた古い資料の中で、《黒火粉》という名前が複数の意味で使われているそうです」
「だから、僕たちが呼ばれたんですか」
「フェルド殿が、可燃性の粉類を扱わない方針を示しているからです。白硬材候補を防火や補修へ使う技術として、別の道を示せるのではないかと」
フェルド老師は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「火を求める者に、危うい名を渡すつもりはない」
「分かっています」
エリシアは答えた。
「だからこそ、言葉を整える必要があります。黒火粉とは何か。何を含め、何を含めないのか。何を扱わず、何を記録するのか」
ソーマは、黒い札の棚を見た。
知らないふりをすることはできない。
だが、知っているものをそのまま渡すこともできない。
白い壁を作るために来た王都で、彼は黒い言葉の意味を確かめることになる。
その夜、宿舎へ戻ってから、ソーマは新しい記録帳を開いた。
観察の欄には、こう書いた。
《危険な知識を残すには、残さない部分を決める必要がある》
書いたあとで、それは観察ではなく解釈だと気づく。
ソーマは一度線を引き、欄を移した。
まだ、学ぶことばかりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
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