第4章 第106話 王立錬金院
第4章 第106話
王立錬金院
王立錬金院の門は、静かに佇んでいた。
淡い灰色の石を積んだ高い門柱の間に、金色の天秤を抱いた白い塔が見える。朝の冷えた空気の中で、塔の窓がいくつも光を返していた。建物のどこかで火属性の魔力が使われているのだろう。石の壁際に立つと、温められた空気が頬に触れてきた。
ソーマは胸の前で指を組んだ。ラウゼンの工房であれば、粉の匂いも、乾燥棚の軋みも、誰がどこにいるかも分かる。だがここは、同じ錬金術の場所でありながら、まったく違う音をしていた。
「緊張しているか」
隣を歩くフェルド老師が、前を向いたまま尋ねた。
「……しています」
「それでいい。緊張は、見落としを減らす」
励ますような言葉ではない。けれど、ソーマにはその方がありがたかった。
今日は、王都発明登録局に預けた白硬材候補の試料を、王立錬金院が確認する日だった。条件付き仮登録の管理試料を、王都の記録形式で確かめるための場である。
それ自体は、間違っていない。
ただ、白硬材候補はまだ完成された万能の材料ではなかった。白灰、焼き粘土粉、砂、水。どれも珍しいものではないのに、混ぜる順番と粒の大きさ、練る水の量、養生の時間が少し違うだけで、まるで別のものになった。
成功した試料だけを見せれば、水に強く見える。
けれど、失敗した試料を隠せば、次に誰かが同じ失敗をする。
ソーマは、革鞄の中に入れた記録の写しを、指先でそっと確かめた。
「ソーマ君」
少し前を歩いていたセラが振り返る。光属性の彼女は、今日も薄い板状の光札を何枚も抱えていた。札の表面には、小さな記号と短い文字が浮かんでいる。
「入館の札は、ここで首から下げてください。赤い印は火気注意の試料。青い印は水分注意の試料。黒い印は持ち込み試料です。また、黒い札を付けた人は、作業室へ勝手には入れません」
「分かりました」
「あと、粉を扱う部屋では、札を裏返します。表のままだと、光が粉に反射して目が疲れるので」
セラは淡々と説明したあと、少しだけ口元を緩めた。
「初めて来る人は、だいたい札の多さに驚きます」
「驚いています」
正直に答えると、セラは小さく笑った。
門の内側には、いくつもの棟が並んでいた。広い中庭を囲むように、火の棟、水の棟、記録棟、試験棟が建つ。風属性の術者が、屋根の高い位置で白い布を揺らしている。煙や粉塵の流れを見ているのだろう。
水の棟の外では、青い腕章を付けた術者が、大きな透明瓶へ水を満たしていた。瓶の中に沈んだ細かな粉を、分けているようだ。
火の棟の窓からは、赤く焼けた炉の熱気が漏れていた。火属性の術者が長い杖を使い、炉の壁の色を見ながら温度を調整している。
ラウゼンでも魔術は身近だった。
けれど、ここでは魔術が大きな仕組みの中へ組み込まれているように見えた。
「王都は、魔法を使える人が多いんですね」
「多いというより、集めているのだろう」
フェルド老師の声は低かった。
「集めれば便利になる。便利になれば、使い方を決める者が必要になる。錬金院は、そのための場所でもある」
その言葉を聞きながら、ソーマは中庭の白い石畳を見た。
人が多く、技術も多い場所ならば、失敗もまた大きく広がるのかもしれない。
試験棟の受付には、白い手袋をした若い女性が立っていた。
淡い金髪は一本の乱れもなく結い上げられ、灰青色の瞳は、こちらの服装より先に札と荷札を見ているようだった。胸元には、銀の細い筆を模した徽章が付いている。
「ラウゼン仮登録の白硬材候補試料。責任者はフェルド・ヴァイス殿、共同記録者はソーマ・アルディス殿、セラ・リュンネ殿、発明登録局立会人はハンナ・レイシュ殿。相違ありませんか」
声は澄んでいたが、柔らかくはなかった。
ハンナが一歩進み、書類を差し出す。
「相違ありません。試料箱は登録局の保管室で封を確認済みです」
「承知しました」
女性は書類に目を通すと、初めてソーマを見た。
「王立錬金院、第二検査室のエリシア・レインフォードです。今回は、白硬材候補の性質を、王都の記録形式で確認させていただきます」
言い終えると、彼女は一呼吸ついた。
「質問は順番に。答えは、分かっていることと、推測していることを分けてください」
ソーマの背筋が、わずかに伸びた。
フェルド老師が、少しだけ目を細めた。
「よく似たことを言うな」
「錬金術師なら、当然でしょう」
エリシアは即答した。
「観察と解釈が混ざった記録は、読む側の手を止めます」
それは、老師が最初にソーマの記録帳へ向けた言葉と、ほとんど同じだった。
けれど、その響きは違った。
フェルド老師の言葉には、失敗をした者の重さがあった。エリシアの言葉には、失敗を起こさせないための鋭さがあった。
「こちらへ」
案内された検査室は、ラウゼンの工房よりずっと明るかった。
天井近くの窓から入る冬の光に加え、壁際の光札が白く灯っている。中央には滑らかな石の作業台があり、その上に大小の天秤、細い硝子管、陶器の小皿、蓋付きの水槽が整然と並んでいた。
片隅では、風属性の術者がゆっくり風を流している。粉が舞い上がらない程度に、空気だけを動かして換気していた。
火属性の術者は、炉の前で目を閉じている。炉口の奥には赤い光があるのに、室内はそれほど暑くはなかった。
ソーマは、思わずその炉を見た。
「気になりますか」
エリシアが問う。
「はい。ラウゼンの炉より、火が静かであると感じます」
「熱を逃がさないように制御しているのですよ」
エリシアは炉を一瞥した。
「炎が大きいほど高温だと考える人は多いですが、炉では違います。火を見ているようで、職人は壁を見ています」
ミルカの言葉を思い出した。
火は炎ではなく、熱の管理だ。
「白硬材候補も同じです」
ソーマは答えた。
「表面だけを見ると、固まったように見えることがあります。でも、中まで同じようになっているとは限りません」
エリシアの目が、初めてわずかに動いた。
「……順番に、と言いましたね」
「すみません」
「いえ。今のは、記録に書いてありますか」
「書いてあります」
「なら、あとで見せてください」
冷たい言い方ではあった。だが、拒絶ではないように聞こえた。
試料箱の封を切る時、室内の空気が少し張りつめた。
箱の中には、三種類の試験片が収められている。
ラウゼン工房で基準条件を置き直して作った保持片。
水を入れすぎて内部が弱くなった失敗片。
組合の試験石材で、白い流出線が出た境目の小片。
ソーマは、保持片を含め三種とも出した。
「これが、今のところ一番形を保ったものです」
そう言ってから、隣に失敗片を置く。
「そして、こちらが同じ候補でも、条件を誤って弱くなったものです」
エリシアは黙って見比べた。
白い表面は似ている。けれど、失敗片には細い亀裂があり、角を指でこすると、砂粒がわずかに落ちた。
「保持片と失敗片の違いは」
「一つには水量です。失敗片は練りやすかったのですが、水が多すぎました。あと、砂の粒と養生の条件も違います」
「主因は」
「未確定です」
言い切ると、胸の奥に小さな痛みが走った。
白硬材候補は、雨後にも一部が残った。登録局でも番号がついた。だから、少しくらい自信を持ってもいいのではないかと思っていた。
けれど、ここでは一つひとつの言葉が、まだ確定していない部分を照らしていく。
「よろしい」
エリシアは短く言った。
「分からないことを、分からないままにする人は、案外少ないものです」
褒められたのかは分からなかった。
ただ、フェルド老師が隣で小さく息を吐いたので、悪い言葉ではなかったのだろう。
最初の確認は、吸水の比較だった。
同じ大きさに削った保持片と失敗片へ、一定量の水を落とし、時間ごとに表面の色と重さの変化を見る。水属性の術者が、細い硝子管から同じ大きさの水滴を落とした。
水滴は保持片の上で丸く広がり、ゆっくりと染み込んでいく。
失敗片では、すぐに表面が暗くなった。
「保持片の方が、水を吸いにくい」
エリシアが言う。
「でも、水を吸わないわけではありません」
ソーマは答えた。
「完全に水を通さない壁材ではないです。水を含んでも、すぐには崩れないようにしたいんです」
「目的は、防水ではなく耐水」
「はい。しかも、条件付きの耐水です」
言葉にしてみると、その違いがはっきりした。
水を遠ざけることと、水を受け止めることは、同じではない。
ナーシャが、洗い皿の濁水を捨てずに見ていた姿が浮かんだ。水はただ流れるだけではない。溶かし、沈め、残す。材料の中へ入った水も、何もしないわけではない。
「では、次に確認すべきは、誤用時の崩れ方です」
エリシアが蓋付きの小皿を指した。
「練りたてを水へ入れると何が起こるか。誤用条件の確認です」
ソーマは少しだけ息を止めた。
以前の自分なら、水へ入れる試験だと聞いて、すぐに興味を示したかもしれない。だが今は、未養生の試験片を水へ入れる危険を知っている。
「主試料は使いません」
ソーマは言った。
「練りの余りを、ごく小さく取ります。蓋付き皿で、濁りを外へ出さない形にしてください。性能試験ではなく、してはいけない扱いの確認として記録します」
エリシアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「その返答を聞きたかったのです」
「試されたんですか」
「はい。水に強いと説明する者が、練りたてを水へ入れる危険を理解しているか確認しました」
少し意地が悪い。
けれど、必要な意地悪だった。
持ち込んだ粉は少量だったが、誤用確認用の小さな余りであれば足りる。白灰、焼き粘土粉、二種類の砂。小さな天秤で量り、陶器鉢へ入れる。
水は、王都の井戸水を使うことになった。
ラウゼンの水とは違う匂いがした。少し硬く、冷たい。
ソーマは土魔術で粉の重なりを感じ取ろうとした。粒の大きさが違う粉は、運ぶ間にもわずかに分かれる。表面だけをすくえば、配合がずれる。
彼は鉢の底から返すように、木のへらで何度も混ぜた。
「そこまで混ぜる必要がありますか」
エリシアが問う。
「あります。見た目が同じでも、細かい粉が片側に寄っていると、固まり方が変わります」
「土魔術で分かるのですか」
「少しだけです。全部が見えるわけではありません。手触りと、粉の寄り方の感覚を照合しています」
「便利な言い方ですね」
棘のある言葉だった。
ソーマは手を止めた。
「はい。便利すぎるので、記録では別欄にします。魔術で感じたことを、確認済みの事実とは書きません」
エリシアは黙った。
その沈黙は、先ほどより少し柔らかかった。
「分かりました。魔術感覚は補助情報として扱いましょう」
練り上げた材料のごく小さな余りを、蓋付きの透明皿へ入れる。水量筒で量った水は、ラウゼンで使ったものより冷えていた。材料は少し固く、へらにまとわりつく。
余り片を水へ落とすと、すぐに白い濁りが広がった。
角が崩れた。
細かな砂が底に沈み、白い粉が水中へ散っていく。
ソーマの喉が、ひどく乾いた。
これは誤用条件の確認だ。分かっていても、水の中で形を失う白い欠片を見るのは苦しかった。
「水中で固まる材料ではないようですね」
エリシアの声は、淡々としていた。
責めているのではない。事実を言っているだけだ。
だからこそ、ソーマは苦しかった。
白硬材候補は水に耐える可能性がある。
その言葉を、どこかで短く言い換えたくなる自分がいる。
水に強い。
便利な言葉だ。
だが便利な言葉ほど危ない。
ソーマは呼吸を整えた。
「観察。練りたての余り片を水へ入れると、直後に崩れました」
セラが光札へ写す。
「解釈。材料そのものの耐水性ではなく、未養生状態の誤用確認です。固まり始める前に水へ入れたため、細かな粉が流された可能性があります。ただし、原因は未確定」
エリシアがこちらを見る。
「つまり」
「水に強い、という言い方が広すぎます。練ったばかりのものを水へ入れても大丈夫だとは言えません。耐水性を見るには、養生時間、覆い、下地、流れの有無を分ける必要があります」
「それを、仮登録資料には」
「一部しか書けていません」
「足りません」
「はい」
すぐに認めると、胸の痛みは少しだけ薄れた。
「なら、直しましょう」
エリシアの言葉は、予想よりも静かだった。
「試験が失敗したことより、失敗の条件を曖昧なままにする方が困ります。作製直後の水中投入では崩れる。静かな環境で、一定時間の湿り養生を経たものは形を保つ可能性がある。この二つは、別に書くべきです」
ハンナも、登録書類の余白に細い字で何かを書き込んでいた。
フェルド老師は、ようやくソーマを見た。
「聞いたな」
「はい」
「水に強い、では足りん」
「耐水の条件を書きます」
「書くだけではない。実際に試せ。ただし、順番を守れ」
その一言が、胸に残った。
午後になって、二度目の試験片を作った。
今度は水槽へ沈めない。
型枠のまま、湿らせた布をかけ、風の当たらない棚へ置いた。水属性の術者が、布の乾き具合を確かめながら、少量の水を足す。
水を増やしすぎれば、表面が流れる。
少なすぎれば、乾きすぎる。
ナーシャやリゼットと繰り返した作業を、王立錬金院の整った棚の上で改めて行うのは、不思議な気持ちだった。
道具が揃っていても、待つ時間までは短くならない。
エリシアは試験片のそばで、記録札を見ていた。
「ラウゼンでは、これを何度繰り返しましたか」
「最初の方は数えていません」
「数えてないのですか」
「途中からは数えました」
ソーマは少し考えた。
「最初は、割れたものも、崩れたものも、残しておけばいいと思っていました。でも、何を変えたのか書いていないと、残しても比べられませんでした」
「ええ」
エリシアは短く頷いた。
「残骸は記録ではありません」
その言い方には、妙な親しみがあった。
「レインフォードさんは、失敗したことがないんですか」
問うてから、失礼だったかもしれないと思った。
けれどエリシアは怒らなかった。
「あります」
彼女は光札の端を指で押さえた。
「失敗を、失敗と書かなかったことがあります。結果が出なかった試験を、条件が足りなかっただけだと思って、記録から外しました」
「どうなったんですか」
「半年後、別の人が同じ失敗をしました」
灰青色の目が、試験片ではなく、遠い何かを見ていた。
「その時に、指導役から言われました。結果が出なかったのではない。結果を見なかったのだと」
ソーマは黙った。
エリシアは、少しだけ眉を寄せた。
「だから私は、曖昧な言葉が嫌いです。誰かが、その曖昧さを信じてしまうから」
冷たい人なのだと思っていた。
けれど違うのかもしれない。
彼女は失敗を減らしたいのではなく、失敗が繰り返されることを嫌っている。
それは、フェルド老師と似ていた。
やがて、窓の外が薄い夕暮れの色へ変わる頃、養生中の試験片は、まだ完全には固まっていなかった。
それでも、最初の余り片のように縁から崩れはしない。
ソーマは指先を近づけ、土魔術を静かに使った。
中にはまだ、水分の重さが残っている。均一ではない。けれど、ただの湿った粉ではなかった。白灰と焼き粘土粉、砂の粒が、少しずつ互いの間を埋め始めているような手応えがある。
見えるわけではない。
感じ取れることにも限界がある。
だから、魔術欄へ別に書く。
湿りあり。
表面より芯の手応えが柔らかい。
構造形成は未確認。
「明日、もう一度、条件を分けて見ましょう」
ソーマは言った。
「水へ触れさせる前に、養生時間を分けます。すぐ、半日、一日。ただし、すぐのものは誤用確認として、ごく小さく、扱います」
エリシアは、すぐには答えなかった。
やがて、光札に目を落としながら言う。
「よろしいでしょう。水は同じものを使います。型枠も同じ。粉は、今日の残りを均一に混ぜ直してから使う」
「はい」
「そして、分からなければ分からないと書く」
「はい」
エリシアは、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、順番に参りましょう。ソーマ・アルディス殿」
その呼び方は、朝より少しだけ柔らかかった。
検査室を出ると、廊下の窓にはもう夜の色が映っていた。
石壁に設置された光札が、足元だけを白く照らしている。昼間は巨大に見えた錬金院も、夜になると、古い記録を抱え込んだ一つの生き物のように感じられた。
セラが、持ち帰る記録札を胸に抱え直す。
「今日は、たくさん増えましたね」
「失敗の記録が」
「それもです。でも、条件の記録も増えました」
ソーマは、少しだけ笑った。
その時、廊下の奥から、灰色の長衣を着た老人が歩いてきた。
白い髪は肩まで伸び、細い杖の先には、消えかけた光の粒が浮いている。彼はフェルド老師を見ると、立ち止まった。
「……ヴァイス」
声はかすれていたが、不思議とよく通った。
フェルド老師の表情が固くなる。
「オルセイン」
老人は、ソーマを見た。
目は穏やかだった。だが、何枚もの紙を一度に読んでいるような目だった。
「その子が、土を読む弟子か」
「そうだ」
「ふむ」
オルセインは、わずかに首を傾げた。
「ならば、古い書庫へ来なさい。火を作るためではなく、火を遠ざけるために書かれた記録も、そこにはある」
それだけ言うと、老人は返事を待たずに歩き去った。
廊下に残った光の粒が、ひとつ、ふたつと消えていく。
ソーマは、老師の横顔を見た。
王立錬金院には、白硬材候補を試すために来た。
けれど明日からは、白い材料だけでは済まない何かを読むことになるのかもしれない。
胸の奥に残った不安は、まだ消えなかった。
それでもソーマは、記録帳を抱え直した。
分からないものを前にして、目を逸らさないために。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
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