第4章 第105話 王都アルセリア
第4章 第105話
王都アルセリア
王都アルセリアは、冬の朝霧の向こうに白く浮かんでいた。
最初に見えたのは、城ではなく壁だった。ラウゼンの外壁より高く、長く、石の色も場所によって違う。古い灰色の石積み、新しく補修された白い壁面、雨水の跡が黒く残る古い目地。そのすべてが何世代もの手で積み重ねられたものだと分かるほど、王都の壁は大きかった。
ソーマは馬車の揺れの中で、その壁を見上げた。白硬材候補の小さな試料箱が荷台で静かに揺れている。自分たちが作った白い材料は、まだ掌に収まる程度の技術だ。けれど目の前にある王都の壁は、その小さな技術がいつか向き合うかもしれない現実だった。
ラウゼンを発って数日。
街道は冬手前の雨で荒れていた。第三箱の固定具は二度緩み、ガイルの金具がなければ水量筒の見本はまた欠けていただろう。移動だけで、技術は削られる。工房の机の上では安定していたものが、馬車の揺れ、湿気、寒暖差、人の手で少しずつ変わる。
王都へ着く前に、王都へ説明すべきことは増えていた。
アルセリアの外門に近づくと、街道は急に広くなった。荷馬車、旅人、役人、職人、兵士。人の流れはラウゼンよりさらに密で、声と車輪の音が重なっている。門の手前には検査場があり、荷物ごとに札が掛けられていた。
火気注意。
水濡れ厳禁。
薬液。
鉱石。
登録試料。
その分類の細かさに、ソーマは目を止めた。
ラウゼンにも荷物の札はあった。だが王都の札は、より制度として整っている。光属性の書記が封印を読み、水属性の作業員が泥のついた車輪を洗い、風属性の者が粉や煙が検査場に溜まらないよう空気を流していた。土属性の門番は、石畳の沈みをその場で固めている。火属性の兵は、火鉢を扱う場所と粉荷の距離を見張っていた。
魔術は、ここでも生活の中にあった。
ただしラウゼンより、ずっと大きな仕組みの一部として。
「発明登録局の仮登録管理試料です」
ハンナが通行書を出した。
門の光属性書記が、白硬材候補の三箱に貼られた封印と書類を照合する。ソーマは黙って見ていた。王都の書記は手慣れていて、余計なことは聞かない。箱を開けようともせず、札、封、輸送記録、同行者名を順に確認していく。
「第二箱、粉試料。開封禁止。異臭、発熱、湿りがあれば発明登録局へ報告」
書記が読み上げた。
「はい」
ソーマが返事をすると、書記は一瞬だけ彼を見た。十二歳の少年が返事をしたことに驚いたのだろう。だが、横にフェルド老師とハンナがいるため、余計な質問はしなかった。
検査の横では、別の荷馬車が止められていた。
黒い布で包まれた小箱があり、兵士が距離を取らせている。荷主の男は困ったように説明していたが、火属性の兵は首を振った。
「可燃性の粉類の申告内容が曖昧だ。王都内へは入れられん」
ソーマの耳に、その言葉が残った。
可燃性の粉類。
黒火粉という俗称は、一つの物質名ではないのだと、ここへ来る道中でフェルド老師から聞いていた。古錬金術で「火を持つ粉」と呼ばれた危険物の総称で、時代や記録によって、黒く見える粉、燃えやすい粉、危険が疑われる粉が含められることがある。
つまり、黒火粉が何を指すのかは、まだ分からない。
昔ながらの燃焼性の混合粉かもしれない。鉱山で噂される危ない粉かもしれない。あるいは、もっと不安定な発想へ踏み込んだものかもしれない。
ソーマの前世の記憶が、そこで冷たく動いた。
彼は前世で、危険な爆薬の歴史を知っていた。少量でも人を殺し、作る過程も、保存も、運搬も、扱いを誤れば事故につながる技術があることを知っていた。危険を少し扱いやすくした発明が、同時により多くの場所へ広がっていった歴史も知っている。
そしてこの世界には、前世の研究所のような設備がない。
温度を精密に測る器具も、耐圧容器も、排気設備も、標準化された防護具も、事故対応の制度も不十分だ。魔法があるとはいえ、魔法は万能ではない。火属性は熱を扱えるが、瞬間の異常をすべて止められるわけではない。水属性は洗えるが、危険物を無害にできるとは限らない。風属性は換気できるが、爆ぜる前に逃がせる保証はない。
知っているから、作れる。
そうではない。
知っているからこそ、作ってはいけない。
ソーマは拳を握り、すぐに開いた。
指先が少し冷えていた。
「顔色が悪い」
フェルド老師が低く言った。
「……可燃性の粉類の札を見て、考えました」
「何を」
「もし黒火粉が、ただ燃える粉ではなく、もっと不安定なものまで含むなら、王都での説明は慎重にしないといけません」
フェルド老師は少しだけ目を細めた。
「詳細は言うな」
「はい。言いません」
それ以上は、口にしなかった。
ハンナが手続きを終え、馬車は門を抜けた。
王都アルセリアの内部は、壁の外から見た以上に大きかった。
外周区には職人街と倉庫街が広がり、石造りの建物が密に並んでいる。荷馬車の通り道は広く、脇には雨水を流す溝が走っていた。溝の一部は白く補修され、一部は黒く汚れ、場所によっては沈殿物が溜まっている。
ソーマは思わず目で追った。
水の終わる場所。油膜。沈殿。白い線。
王都の規模で見ると、故郷の宿屋裏口で見た問題が、何倍にも広がっているようだった。
通りの角では、火属性の職人が焼き栗の屋台に火を入れている。水属性の女が洗濯場の水を流し、風属性の少年が煙を大通りへ出さないよう上へ押し上げる。土属性の作業員は、工事中の路面を固めていた。光属性の書記は、掲示板の札を差し替え、王都の通達を読み上げている。
魔法の量が多い。
そして、管理の量も多い。
王都は、魔法を使う者の集まりではなく、魔法を制度に組み込んだ都市だった。
セラは馬車の中から、掲示板を見ていた。
彼女の視点では、王都は光札の街だった。通達、税、危険物申告、工事許可、井戸の使用制限、火気禁止区域。あらゆるものが札になり、印になり、記録になっている。
ラウゼンの記録局でも十分に細かいと思っていた。
だが王都はさらに細かい。
その細かさは、安心にも見えた。けれど同時に、責任を分散させるための網にも見える。誰が何を許可したのか。誰が確認したのか。誰が見落としたのか。記録は守るためにあるが、時には責めるためにも使われる。
セラは自分の記録帳を抱え直した。
フェルド老師は、馬車の外をほとんど見ていないように見えた。
しかし実際には、見ていた。
王立錬金院へ続く塔の影。古い石橋。かつて通った書庫の方角。若い頃にオルセインと歩いた道。事故後に二度と戻らないと決めた門。
王都の空気には、乾いた紙と煤と冬の水の匂いが混じっている。
昔と同じではない。
だが、まったく違うわけでもない。
フェルドは、膝の上で手を組んだ。
隣に座るソーマは、王都の規模に圧倒されながらも、溝や壁や荷札を見ている。
馬車は中層区へ入った。
建物は高くなり、道は石畳になった。通りには王都発明登録局の支所があり、その隣に管理試料用の保管庫があった。保管庫は厚い石壁でできており、窓と通気孔には金属網がはめられている。火気禁止の札と、水濡れ注意の札が並んでいた。
白硬材候補の三つの箱は、まずここへ保管されることになった。
保管係は年配の女性で、光属性らしく、封印の読み取りが早かった。彼女は三つの箱を見て、すぐに質問した。
「粉試料の二つめの箱は、発熱性がありますか」
ソーマは答える前に一呼吸ついた。
「一部、湿気で熱を持つ危険がある試料が入っています。ただし少量で、陶器瓶に封入し、未開封で保管しています。水場、火気、強い衝撃を避けてください」
「吸い込みの危険は」
「吸い込みを避けるべき粉が入っています。粉塵防止の布を同梱しています。開封は説明時のみ、換気下で行います」
「爆発性は」
その問いに、部屋の空気が少し固まった。
「白硬材候補の試料にはありません」
ソーマは言葉を選んだ。
「なお、王立錬金院からの別件照会に関わる可燃性の粉類については、フェルド工房は試料を持ち込んでいません。配合、製法、実演にも応じません」
保管係はソーマを見た。
十二歳の少年の答えとしては、少し硬すぎたのかもしれない。
だが彼女は余計な表情を見せず、記録した。
「了解しました。第二箱は乾燥保管庫、第一箱と第三箱は一般試料庫。開封時は担当者立ち会い」
この確認だけで、ソーマは少し疲れた。
だが、必要だった。
曖昧な「大丈夫です」は、王都では危険だ。大丈夫な範囲と、大丈夫ではない範囲を分けて言う。白硬材候補は安全な材料ではなく、条件を守れば扱える候補だった。
保管作業のあと、ソーマたちは王都発明登録局の宿舎へ案内された。
部屋は清潔で、壁は白灰塗りだった。手で触れると、乾いて少し粉っぽい。白硬材候補ではない。古い白壁材だ。窓枠の下には、雨の入り込みでできた細かなひびがある。
ソーマは無意識にそれを見ていた。
「今日は禁止です」
ハンナが言った。
「見ていただけです」
「二度目です」
セラが小さく笑った。
宿舎の食堂では、温かいスープと白パンが出た。ラウゼンより香辛料が強く、野菜は細かく刻まれている。王都の水は少し硬い味がした。ナーシャから渡された比較用の水瓶を思い出し、ソーマは食後すぐに水の記録を取った。
王都水、口当たり硬め。煮込みでは違和感少。白硬材候補の練り水への影響、未確認。
その横で、セラは王都の通達写しを整理していた。
ハンナは明日の予定を確認する。
「明日は午前に王都発明登録局で白硬材候補の仮登録説明。午後に王立錬金院へ移動します。錬金院では、まずオルセイン様との面会です」
フェルド老師はスープを飲み終えた後、静かに頷いた。
「分かった」
「王立錬金院側から、可燃性の粉類についても質問が出る可能性があります」
「出るだろう」
老師は短く言った。
「だが、最初に線を引く。白硬材候補の説明はする。事故予防の話もする。危険な粉の詳細には入らん」
ソーマは頷いた。
その時、宿舎の廊下から足音が近づいた。
発明登録局の若い使いが、封書を一通持って入ってくる。封は王立錬金院のものだった。ただし、朝見た正式な封書より簡素で、急ぎの連絡に使う薄い封筒だった。
ハンナが受け取り、内容を確認する。
わずかに眉が動いた。
「予定変更です」
ソーマは顔を上げた。
「王立錬金院側から、明日の面会前に、白硬材候補試料の一部を錬金院の検査室へ移したいと要請が来ています」
「断れ」
フェルド老師の返事は即座だった。
ハンナも頷いた。
「登録局管理試料です。立ち会いなしの移送は認められません」
使いの若者は困った顔をした。
「ですが、錬金院側は準備のためだと」
「準備なら、こちらが立ち会う場で行う」
フェルド老師の声は低かった。
ソーマは封書の文字を見た。
白硬材候補試料の事前確認。
王立錬金院検査室。
担当、エリシア・レインフォード。
知らない名前だった。
だが、そこには王都へ来た実感があった。
ラウゼンでは、フェルド工房と建築組合と登録局が、互いに顔を見ながら進めていた。王都では違う。部署があり、担当があり、権限があり、事前確認という名で試料を動かそうとする。
白硬材候補は、王都に入った瞬間から、別の仕組みの中へ置かれていた。
ソーマは観察した。
発明登録局と王立錬金院の間に、すでに力の引き合いがある。試料をどこが管理するか。誰が先に見るか。誰が記録を持つか。
仮説を立てる。
明日の問題は、技術説明だけではない。試料管理と権限の問題になる。白硬材候補の試料が勝手に扱われれば、誤解や改変が起きるかもしれない。危険な粉の話も、同じように管理の線を引かなければならない。
ソーマは言った。
「白硬材候補の試料は、登録局と僕たちの立ち会いなしには開けない方がいいです」
「当然だ」
フェルド老師が答えた。
ハンナは返書を書く準備を始めた。
王都アルセリアの最初の夜は、静かではなかった。
窓の外では、ラウゼンより遅い時間まで通りの灯りが残っている。火属性の術者が街灯の火を調整し、風属性の者が煙を上へ逃がし、水路の向こうでは水属性の作業員が夜間の流れを調整していた。遠くに、王立錬金院の塔が黒く見える。
白い壁の都。
そして、危険な古錬金術の名を抱えた都。
ソーマは寝る前に記録帳を開いた。
王都到着。外門検査、可燃性の粉類申告あり。黒火粉は単一物質名ではなく危険分類として扱われる可能性。白硬材候補三箱、登録局保管庫へ。第二箱乾燥保管。錬金院より事前移送要請。拒否予定。
その下に、感情を書いた。
王都は大きい。
仕組みも大きい。
大きい仕組みの中では、試料まで勝手に動かされてしまいそうである。
さらに一行、迷ってから書いた。
危険な粉が本当に人を壊す技術へ近づくなら、知っていることを話さない勇気が必要。
筆を置くと、手が少し震えていた。
作らない。
その言葉は、思っていたより重い。
知らないから作れないのではない。
知っていて、作らない。
王都アルセリアの夜は、白い壁の向こうに黒い影を隠していた。
明日、王立錬金院の門をくぐる。
そして、最初に現れるのは、白硬材候補を試そうとする若い研究者であろう。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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