62話:消えた未来
時は少し遡り、ヴィリアリナが、公爵邸でセレナ夫人の呪いを打ち払った、まさにその瞬間。
静寂に包まれた部屋で聖書の写しをとっていたリリアージュの指先が、びくりと跳ねた。
——部屋の空気が、重い。
息が詰まるような凄まじい魔力の波動。その源は、机の上に置かれた『聖書』だった。
「光ってる……?」
溢れ出す魔力に呼応するように聖書から漏れ出した淡い光は、瞬く間にその輝きを強め、やがて目も開けていられない程の閃光を振り撒き始めた。
「きゃっ……!」
鋭い光に堪えきれず、咄嗟に両腕で顔を覆う。しかし、直後に響いた異様な音に、リリアージュは恐る恐る指の隙間から視線を落とした。
——バララララララッ!
窓は閉まっているというのに、聖書のページが暴風に煽られたかのように高速で捲れ上がっていく。
そして、捲れ上がったページから無数の文字たちがふわりと躍り出た。それらは解放を喜ぶかのように宙を舞ったあと、空中で寄り集まり、渦を巻き——直後、弾けて光の粒となった。
「なにが……起きたの……?」
目の前で起こった出来事が信じられず、舞い散る光の残滓を見つめたリリアージュだったが、直後、ハッと我に帰り、聖書へ手を伸ばす。
「お告げが……消えて……る……?」
彼女の震える指先が撫でたのは、ざらついた羊皮紙の感触だけ。
神の啓示が整然と並んでいたはずのそこは——残酷なほどに真っ新な白紙になっていた。
嫌な汗が背中を伝う。軋む心臓を鷲掴みにされたような息苦しさの中、一枚一枚ページを遡るが……どこを開いても、白いページが続くのみ。
半ば放心状態のまま、縋るような思いで聖書を閉じる。
微笑み合うリリアージュとアレン王子が描かれ、2人の幸せな未来を決定付けるはずだった、あの美しい表紙を確認するために。
——しかし、そこさえも。
彼女の願いを嘲笑うかのように、残酷なまでに白く塗りつぶされていた。
*
一面に広がる銀世界の中、豪奢な馬車が複数の護衛馬車に囲まれて北へ向かっていた。
「リリア、寒くはないか?顔色が悪いようだから無理するんじゃないぞ」
「え、ええ。お兄様が馬車の中を暖めてくださっているから大丈夫よ。いつも感謝しているわ」
「かわいいリリアのためならなんてことないさ……!それにしても、わざわざこんな極寒の時期に、シルベール領の巡礼とは……陛下も酷なことを指示なさる。もう1人の聖女だけでもよかろうに」
「いいえ、お兄様。私も聖女としての責任を果たしたいのです。2人で巡礼を行えば、民の安心感も増すでしょう?」
「リリア……!なんてできた妹なんだ……!兄は誇らしいぞ……!」
感涙する兄から、私は引きつりそうな笑顔を隠すようにそっと視線を逸らした。
(ごめんなさい、お兄様……。本当はそんな大層な理由じゃない、恐ろしいだけなの……。聖女の立場も、アレン様も、取られたくないだけ……)
積み上げてきた聖女としての実績が、信用が、大切な居場所が。突如現れた圧倒的な力を持つヴィリアリナに塗り替えられていく予感がして、ただ焦っていた。だからこそ、巡礼を一人で行かせるわけにはいかなかったのだ。
だがそれ以上に、この先のシルベール領では、恐らく聖女としての今後の明暗を分ける勝負が待っている。
かつて、シルベール公爵家の嫡男ヴォルク様が『死の呪い』に侵された時。文武両方に神の加護を受けたとしか思えない神童であった彼が突然未来を奪われたことに、シルベール公爵夫妻はもちろん、王までもが嘆き、最後の希望は当時10歳だった私に託された。
しかし、私は屋敷に近づくことすら叶わなかった。馬車の中から見えたのは、公爵邸を呑み込む狂おしいほどの闇。触れれば命ごと削り取られるような死の気配に全身が竦み、震えて涙を流すことしかできなかったのだ。
あの時、馬車の窓越しに向けられた公爵夫妻の刺さるような失望の目が今も脳裏にこびりついて離れない。
——『使えない子』
言葉にはされずとも、彼らの絶望を感じるには十分すぎた。
その後、ヴォルク様は奇跡的に助かった。しかし、シルベール公爵邸の近くを私用で通った時に、公爵邸が禍々しい黒い塊に覆われているのを見た。
——呪いだ。それも、再び死を司るような強力なもの。
その直後、今度は公爵夫人が体調不良に倒れたと聞いた。
私は怯えた。あの強力な呪詛を手に負える訳もない。呼び出されたらどうしよう、また無力を晒したら、今度こそ、この世界でも『いらない子』として捨てられてしまうと——。
だが、公爵家から解呪の要請が来ることはなかった。
聖女の無力を公にして国を騒がさないための配慮だったと思う。そして、その後からシルベール領が巡礼地から外され続けた。それも、私に恥をかかせないための、公爵家の静かな『気遣い』だった。
それが、痛かった。優しさが、自分の無能さを突きつける刃のように胸に突き刺さる。しかし、あの呪いに打ち勝つ未来なんて想像もできなかった。
(でも……今度こそ。アリナちゃんと一緒なら、あの呪いを打ち払えるかもしれない……!)
先にシルベール領に入って事情を説明されているはずの、圧倒的な魔力量を持つ彼女となら。
(今回こそ、失望されないように……)
悲壮な決意を固めていたその時、すっと馬車の速度が落ちた。
「アルベルト様、リリアージュ様、到着いたしました」
(えっ……?もう……?)
肌を刺すようなあの恐ろしい呪いの気配を、何一つ感じないまま馬車は公爵邸の前に停まっていた。
お兄様のエスコートを受け、恐る恐る馬車を降りた直後、信じられない光景に私は息を呑んだ。
出迎える騎士たちの先。玄関から出てきたのは……
「リリア!長旅お疲れ様〜!」
無邪気に手を振るヴィリアリナと——その隣で、呪いの陰りなど微塵もなく元気に微笑む公爵夫人だった。
(嘘……公爵夫人が……回復してる……!?あの呪いを解いたというの……!?アリナちゃん1人で!?)
自分は近づくことすら出来なかった死の呪いを、彼女はたった1人で、それもこんな短期間のうちに、ケロッと解いてしまったというのか。
頭の中で、文字が消えた聖書のどこまでも白いページがチラつく。
彼女の圧倒的な実力を前に、自分の存在意義が、必要としてもらえる理由が、根底から否定されたような絶望。
(上手く……笑えているかしら)
無邪気に笑う彼女に手を振りかえす。
私はその後、聖書に異変があったことを彼女に言い出せなかった。それがまさかあんな事件に繋がるだなんて——その時は思いもしなかったのだ。




