第7話-②
「はい、どうぞなのですよ」
「あっ……ありがとうなのだよ」
二人でベンチに腰をかけると、隣に座る人物から水筒のコップに注がれた紅茶を手渡された。
その人が持っていたバスケットには、水筒のほかにクッキーやチョコレートなどのお菓子も入っていた。
「ふふっ、どうしたのかしこまっちゃって。ほら、チョコ好きだったでしょう?」
そう言って、私の口元に一口大のチョコを差し出される。
まるであーんを要求されているようだった。
「あっ、あーん……」
チョコを唇で優しく受け取り、口の中で転がす。
「よくできましたなのですよ。よしよし」
すると今度は、私の頭を撫で始める。
小さくて温かい手のひらの感触が、私の子供の時の記憶を呼び起こす。
いつまでもお母さんにべったりしてて、嬉しい時も、悲しい時も、頭を撫でてもらうのが大好きだった。
なんというか……とっても恥ずかしいのだね。
……ってそうじゃなくて。
「あのっ……」
「なぁに?」
私の声に、優しい笑顔を向けるその人。
それは紛れもなく、今は私の記憶の中だけの存在であった人。
「本当に……お母さん……なのだね?」
私の問いかけに、その人は手にしていたコップを置きこう答える。
「正真正銘、あなたのお母さんなのですよ。まさか“こんな所”で出会ってしまうとは思いませんでしたけどね」
そう言いながら、この人は少しだけ目を伏せる。
間違いない……本当にお母さんなんだ。
「私も……また会えるなんて思ってもみなかったのだよ。もう二度と……会えないと思って、いたから」
声を震わせながら、私はなんとか言葉をつなげる。
……ああ、まるで夢みたいだ。頭が真っ白になっちゃって、うまく考えられないや。
いや、夢でもいい。だから醒めないでほしい。
こんな時間、二度とやってこないだろうから。
「お母さん……お母さんっ!!」
溢れる気持ちを抑えきれなくて、抱きついてしまう。
お母さんから感じるぬくもりと心が落ち着く優しい匂いが、私をどんどん子供の頃へ戻していく。
私は……この人が、お母さんが大好きだった。
いつも太陽のように照らしてくれて、暖かく微笑んでくれる母と、厳しいけど私を大切に思ってくれていた父。
この家族が、私はとても大好きだったんだ。
でも……お母さんが病気で死んでしまったあの日から、私の世界からその太陽は消えてしまった。
それを奪った病気が憎かった。お母さんを助けられなかった父を恨んだ。
なんで、どうして、お母さんが死ななければいけなかったのと思わなかった日はない。
こんな病気がなければ、お母さんとお父さんと……一緒に、いつまでも幸せでいられたのに。
でも今こうして、お母さんが目の前に居る。
私は抱きしめる腕を緩めて、お母さんの顔を覗き込む。
お母さんは首をかしげながら「どうしたのです?」といった様子だった。
またこうしてふれあえるなんて、こんなに嬉しいことはない。
……なのに、素直に全部を喜べないのは、なんでだろうか。
「あらあら……そんな悲しい顔しないで?」
お母さんは私の手を取り、優しく包む。
とても温かくて、安心する。いつまでもこうしていたいほどに。
「ごめんなのだよ……違うの、私すっごい嬉しくて……」
「……私も、こんなに大きくなったアリアと会えてとっても嬉しい」
お母さんの手に、力がこもる。
でもなぜか、その声はだんだんと強張っていくようだった。
「……ごめんなさいアリア。私の病気が、あなたにとても辛い思いをさせてしまって」
お母さんは眉をひそめて、下唇を噛んでいた。
……せっかく会えたのに、そんな悲しい顔見たくないのだよ。
「そっ、そんな顔しないでなのだよ!!」
私はなんとかお母さんを元気づけようと、目をぎゅっと瞑って笑顔で振るまう。
「……あなたは昔からそうやって強がっていましたよね。私に迷惑をかけないように、と」
「そっ、それは……」
だが、お母さんは鋭い。
私の考えることなんて、お見通しだった。
「謝っても、謝りきれません……アリアにも……あの人にも、たくさん苦しませてしまいましたから……」
「お母さん……」
あの人……父のことだ。
「あんな人に……謝ることなんて……ないよ」
「アリア……?」
お母さんを前にして、今まで胸の奥に溜め込んでいた思いがこぼれ始める。
「だって……お母さんを助けられなかったもん。絶対治すって、約束したのに……それなのに!!!」
一つ、二つと、それは勢いを増していく。
「お母さんが教えてくれた、四葉のクローバーだって、見つけたのに……どうしてっ、どうしてっ……!!」
「……」
お母さんは黙って耳をかたむけてくれていた。
これも多分……お母さんには気づかれているだろう。
私だってもう子供ではない。
お母さんが病気で手術をしなければならなかった時、父は私を元気づけるために約束をしたってこと。
私のためだったって、今ならはっきりわかる。
わかってる。でも……。
「なんでなの……なんでお母さんじゃなきゃいけなかったの……なんで治せなかったの……! お父さんのバカぁっ……うっぅ……」
一度吐き出した感情は、自分でも抑えられなくなってしまった。
違うの……お母さんに、こんなことを言いたいんじゃないの。
もっとたくさんお話したいこと、あるのに。お父さんのこと、こんな風に言いたいわけじゃないのに。
涙は止まらず、拭っても拭っても溢れるばかりだった。
「……アリア」
ふと、優しく抱きしめられる。
「ぐすっ……おかあさん……っ」
「あなたは昔から泣き虫さんなのです。変わってないのですね」
……温かいお母さんの体温と、心がほどける優しい匂い。
私はどんどん、子供みたいに甘えてしまう。
「……あの人はね……最後まで必死に、私を助けようとしてくれてましたよ」
「……うん」
「だから、私は約束をしたのです」
「やく……そく?」
私はお母さんの目を見る。
そんな話は、聞いたことがなかったからだ。
「アリアには、楽しい人生を送らせてあげるのですよ――ってね」
「……」
そんな約束をしていたなんて。知らなかった。
あんなに手を尽くしてくれていたのに。私のお願いを、聞いてくれていたのに。
それなのに……私は。
「……私……お父さんを恨んじゃって、生きることだってやめようとして……酷いこと、たくさんっ、言っちゃったよ……」
「大丈夫よ、あの人はわかってくれてるのですよ。私の愛した人だもの」
今は、お母さんの大きな心に救われた。
でも――
「もう……お父さんには伝えられないよ……それに、タイヨウ君にも……」
ふと、思わずその名前を口にしてしまった。
「タイヨウ君? お友達ができたのですか?」
お母さんは眉を上げて、目をキラキラさせている。
そうだ……せっかくならお母さんにも聞いてもらいたいや。
「……そうなのだよ。確かに病気になっちゃって、長く入院することになったけど……そんな時にね、偶然出会ったのだよ」
「そうなのですね。ふふっ、あなたがそんなに笑顔になるくらい特別な人みたいね」
「えっ……?」
お母さんに言われて気づく。
自分の口元がとてもゆるんでいることに。
「やだっ、私……」
「そうですか……あなたにもそんな人ができたのですね。嬉しいなっ」
お母さんは目を細めて、微笑む。
改めてそう言われると、とても恥ずかしいな。
「どんな人なのですか? 聞かせてほしいですっ」
お母さんはぐいっと顔を近づけて、私を見つめてくる。
実の母にこんなことを話すのは、なんか変な気分だ。
ちょっと心が、くすぐったい感じがする。
「あのねっ……タイヨウ君は、私の相部屋になった男の子なんだ。とてもまっすぐな目をしててね。おバカなくらい正直者なのっ」
私は涙を拭って、話し始める。
お母さんは首を縦に振って、「うんうん」と聞いてくれている。
「出会って間もない私に、私の笑顔が見たいからって、お花をプレゼントしてくれたりしてね。一緒に居るとね、とーっても心がポカポカして、あったかくなるんだ」
お母さんに話をしながら、私はタイヨウ君との日々を思い出す。
どれもかけがえなくて、忘れたくない大切なもの。
私はどれだけあの子に救われたのだろう。
感謝してもしきれないのだよ。
タイヨウ君は、私と出会って入院生活が楽しくなったと言ってくれていた。
でもね、伝えてなかったけど私もなんだ。
君と出会ってから、私の中で少しずつなにかが変わり始めたんだ。
毎日ベッドの上で投薬を済ませて、いつ終わりが来るかわからない日々を生きていた。
最初はそれを望んでいたのだから、それでよかった。
でも君が相部屋になって、君との時間を過ごし始めてから思ってしまったんだ。
もう少し、君と居たいって。君と笑って、他愛のない話をして、お菓子を食べていたいって。
そう、思ってしまった。
「……でもね、タイヨウ君と一緒に居るのが……怖いと思っちゃったの」
「……どうして?」
お母さんは優しく問いかける。
「たとえ今は治る病気でも……生きることをやめた私に、未来なんて本当にやってくるのかなって」
それは、ずっと思っていたこと。
お父さんは今までもずっと、私に生きて欲しかったはず。
そのための治療法だって準備して、治せるところまできていたんだ。
それなのに……。それなのに私は、それを拒んだ。
明日を、未来を、見るのが怖かったから。
いつかまた全部を奪われる日が来てしまうんじゃないかって、不安だった。
だから私は、目を背けた。
「でもタイヨウ君はね、私に言ってくれたんだ。一緒に生きようって。……すっごい嬉しかった。嬉しかったの……でも、でもね」
「……うん」
「もう、それも答えられないの。私はもう“あっち”には戻れない」
心のどこかでわかっていた。
死んじゃったお母さんとまた会える場所なんて、それ以外に考えられなかったから。
ここは、“そういう場所”なのだと。
「……あーあ。こんなことなら、ちゃーんと言えばよかったなぁ」
「アリア……」
「ほんと……っ、悔しいっ……なっ」
ここまで自分の気持ちに正直になったのは、初めてだ。
今になって、こんな気持ちになるのだね。
一番バカなのは……私だったのだよ。
「……アリア、あなたはどうしたいのです?」
「どうって……」
そんなことを聞かれても、どうしようもないのだよ。
もう、どうにもならないんだから。
「ちゃんと、私の目を見て。教えてください」
お母さんの深い翡翠色の瞳が、私を強く見つめる。
「……私は」
――私は。
「私は……ちゃんとタイヨウ君に、答えてあげたい」
それは、誤魔化しのない私の本当の気持ち。
「……私のことなんかをね、好きって言ってくれたの」
「うん」
「私と一緒にね、デートしたり美味しいご飯を食べたいって……言ってくれたのっ」
「うんっ」
「私と一緒に……生きてほしいって言ってくれたの……」
「……うん」
「こんなに嬉しいことはないなっておもったのっ……それでね、それで――」
抑えていた涙がまた、流れ始める。
「私……本当に、タイヨウ君と生きてもいいのかな……幸せになりたいって、思ってもいいのかな……」
自分の願いと向き合う。今まで向き合いたくなかった本音と。
怖くて、逃げ出して、出そうとしなかった答えと。
「私……っ、まだっ、死にたくないよ……」
「アリア……」
「あの子と……タイヨウ君と……生きたいんだっ!!」
頬を流れる涙の味を噛みしめて、心の底から声を張り上げる。
そうか……これが、私の本当の気持ちなんだ。
「……あなたの答えが、聞けてよかったのです」
そう言いながら、お母さんは急に立ち上がる。
「……えっ? あっ……」
すると先ほどとは反対方向から、バスがやってきた。
「バスが……なんで……」
「……もう、時間なのですね」
「お母さん……?」
お母さんは振り返り、ゆっくりと深呼吸をした。
「アリアっ。これからあなたの人生には、たくさん楽しいことや辛いことが待っているでしょう」
お母さんはかしこまってそう告げ始める。
……まるで、最後の言葉かのように。
「でも、あなたならきっと乗り越えられるのです。私の……私たちの娘ですもの」
目の前に停車したバスの扉が開く。
それを見て、私は理解してしまう。
「っ……」
本当は、ここにいつまでもいたい。もっとたくさん、お母さんとお話がしたいよ。
気が付くと奥歯を噛みしめて、両手を強く握り込んでしまっていた。
けど、もう一度……。
『ああ……俺と一緒に、生きていきましょう』
もう一度だけ、前に進めるなら……私は。
「……うんっ」
私はお母さんの横を通り過ぎる。
一歩ずつ進むたび、お母さんから離れていくのがとても寂しかった。
それでも私は、開かれた扉の向こうへ踏み出した。
そして――
「ありがとう……お母さんっ!! 私……とっても幸せだったよ!!」
振り返って、お母さんに最後の挨拶をする。
涙でぐしゃぐしゃな顔でもいい。私は、とびっきりの笑顔を向けた。
「……私もなのですよ、アリアっ!」
お母さんのその声が少しだけ震えていた気がした。
すると、お母さんの瞳が煌めき始める。
「思いのままに生きるのですっ! あなたには、たくさんの明日が、未来が待っているのだからっ!!」
バスはブザー音を鳴らし、扉が閉められた。
「おかあさんっ!!!!」
扉の窓ガラスに手をついて、遠ざかるお母さんを目に焼き付けていた。
お母さんはその間、ずっと大きく手を振っていてくれた。
ずっと……いつまでも……。
――そうか。お母さんは私のために“ここ”に来てくれたんだ。
私に本当の気持ちを気づかせてくれて。最後まで……私の話を聞いてくれて。
ありがとう。お母さんの温もりと優しい匂いは、絶対に忘れない。
私は、自分の胸元に両手を添える。
だから、私も前に進むよ。
お母さんが気づかせてくれた、この思いを届けるために。
ありがとう。本当に……ありがとう。
そして――さようなら。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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