第7話-①
「んっ……」
いつの間にか、眠ってしまっていたのだろうか。
目を閉じたまま、意識だけが先に浮かび上がる。
体が横たわっている感覚はない。
なにか椅子のようなものに、腰をかけていることはわかった。
だがおかしい。私はさっきまでタイヨウ君と一緒に、屋上に居たはずだった。
そして咳が止まらなくなって、血を吐いちゃって……。
覚えているのは、そこまでだった。
それなのに、なぜか波の音が聞こえる。
ざざぁん、と近くで、遠くで、繰り返し響く音。
この近くに、海でもあるのだろうか。
いやそんなわけはない。病院の近くに、海なんてないのだから。
なら、ここは一体どこなんだろう。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「……なっ、なんなのだね、ここは」
その光景に、自分の目を疑う。
屋上庭園はどこにいったのか。タイヨウ君はどこにいったのか。
困惑する私の目の前には、二車線の道路がまっすぐに延びていた。
私は立ち上がって、その道路に出て辺りを見回す。
それは右も左にも、ずーっと果てしなく続いているようだった。
それと、先ほどから聞こえる波の音。
いったい、どこから聞こえてくるのだろう。
音がするのは後ろの方からだった。
私はゆっくりと振り返る。そこには――
「……綺麗なのだよ」
目一杯に広がる澄み渡った空と、ゆらゆらと気ままに揺れる海が見えた。
入院生活が始まってから外出なんてできなかった私にとって、この景色はとても眩しかった。
時間を気にしないのなら、いつまでも眺めていられるだろう。
そう思ってしまうくらいに。
そして、一つ気づく。私がさっき目覚めた場所についてだ。
「これは……バス停……なのだね?」
こんな広大な景色に、ぽつんと佇む屋根付きのベンチ。
どうやら私は、ここで目を覚ましたらしい。
そして近くにはこのバス停の時刻表も立てられていた。
ひとまずバスはやって来るのだろうか、試しに読んでみようとする。
けど――
「……なんて書いてあるのか、全く読めないのだよ」
別に文字が削れて読めないとか、汚れていて読めないとかじゃない。
ちゃんと文字が書かれているのに、それを読み取ることができないのだ。
自分でもなにを言っているかわからない。
こんな不思議な感覚は初めてだった。
それに、もう一つ気になることがあった。
先ほどから波の音は、ずっと綺麗に聞こえている。
だけど、それ以外の音はなにも聞こえてこなかった。
海であるのならば鳥さんがいて、その鳴き声が聞こえてきてもおかしくはない。
それにここがバス停なのであれば、このバスを待つ人や、他からやってくる人も居るだろう。
でも、全く気配というものを感じられない。
冷静に考えると、不気味とでも言えばいいのだろうか。
まるでここには、私一人しか存在していないかのような。
いや……私すら、本当に存在しているのかわからなくなってくるほどだった。
私は、ベンチに戻って腰をかける。
この果てしなく続く道路と、空と海。
……おそらく私は、ここからどこへも行けないのだろう。
ちっぽけな私一人じゃ、どうしようもないだろう。諦めるには十分すぎた。
仕方ない。いつくるかもわからないバスを待ってみよう。
寄せては返す波の音を聞きながら、私はただひたすらに待ち続けた。
……綺麗な海なら、タイヨウ君と来たかったな。
そんな、もう叶わない願いが頭をよぎって、それをかき消すようにぶんぶんと頭を振る。
そして、しばらく経った頃。地響きのような音が聞こえてくる。
初めて、波以外の音がした。
「……おっ?」
タイヤが地面を擦る音と、低く唸るエンジン音。
私はベンチから飛び上がり、道路の方を見た。
すると遠くから青色のバスが走ってきた。
きりっとした目つきをしているのに、どこか丸っこくて可愛さを感じてしまう。
まさか……本当にやってくるとは思わなかった。
そのバスは徐々に速度を落とし、私の居るバス停に停車した。
そしてビーッという無機質なブザー音と同時に、ゆっくりと扉が開く。
……なんとなくだけど、これは全ての終わりの合図だと思った。
これに乗れば、ここから去れる。
これに乗れば、“楽になれる”。
私は、開かれた扉に向かって一歩を踏み出す。
だが……バスの中から小さい足音が聞こえてきた。
そして――
「あっ、ごめんなさいなのです……前を見ていなくて」
目の前に現れた乗客と、危うくぶつかりそうになった。
こんな周りになにもない場所で、まさか降りる人がいるなんて思わなかったからだ。
「いえいえ……私もごめんなさいなのだよ。じゃあ、これで――」
その人に軽く頭を下げた私は、バスに乗り込むつもりだった。
でも、通りすがりに乗客の顔が見えた時……私の足は動かなくなってしまった。
「っ……なっ……」
目が乾くほど、まばたきを忘れてしまう。小さく開いた口が、しだいに大きく広がる。
気が付くとバスが再びブザーを鳴らし、扉を閉めて出発してしまった。
……だが、今はそんなことはどうでもよかった。
「……そんなに見つめられたら恥ずかしいのですよ?」
「う、うそだ。だって……」
ゆっくりと穏やかな、優しい声。
その人の髪は私と同じ金色で、吹き抜ける風が長髪をなびかせる。
私を見つめる瞳は、心を豊かにしてくれる翡翠色で、私と同じ瞳の色をしている。
膝丈の純白なワンピースを身にまとうその人は、静かに口を開く。
「大きくなったのですね……アリア」
その口からは、私の名前が。
さっきまで心地よかった波の音が、急にひどくうるさく感じた。
体に響いてくる心臓の音も、今は止めてしまいたいくらいだった。
もう二度と、聞けるはずがないと思っていた声が……聞こえたのだから。
もう二度と、呼んでもらえないはずの私の名前を……呼んでくれたのだから。
だって、この人は――
「おかあ……さん……?」
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