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冬の越後では、対外的にできることはあまりない。
謙信は毎年、冬をまたぐ大型の出陣をしない限り、自分の居室で手紙を書いたり、人員の整理をしたり、台帳を作らせたりして過ごしていた。この年は大型の出陣はなかったため、戦はなく軍議も少なく、静かな謙信を見る日々が続いた。
そういう冬のある日に、喜平次は謙信に呼び出されて一つ質問をされた。謙信は、三郎にも同じ質問をするということと、喜平次にこの質問をしたことは三郎にも伝わることを前置きした上で尋ねた。
越後を継ぐ気はあるか、と。
全く予期していなかった質問であった。喜平次は咄嗟に答えられなかった。
いや、予期していなかったと言えば嘘になるかもしれない。いつかは聞かれることはわかっていたが、わからないふりをしていた、と言った方が正しい気もした。
喜平次は長く考えた後に答えた。
「三郎ではだめなのですか」
謙信は穏やかに、それがお前の答えか、と尋ねた。
喜平次は黙り込んで唇を噛んだ。本心とは少し違うようにも思えたが、うまく説明できなかった。三郎に継いでほしい、という気持ちだけが純粋にあるのかと言われると、それもまた違う気がしてくる。三郎ならうまくやるだろうという気持ちと、自分には荷が重すぎるという気持ちが一緒になって、三郎ではだめなのか、という問いになったのだった。それがうまく言えない喜平次は黙ったままになった。
謙信はそうして言葉に詰まっている喜平次を静かに見ていたが、やがて、いきなり悪かった、と言った。続けて、今日のこれだけで何か決めることはしないが、また聞くかもしれないから考えておいてくれ、とだけ言って話を終わりにした。
三郎にも同じことを聞くというのは本当だったようだが、どうやら三郎より先に喜平次に尋ねたらしいことを後から知った。なぜそれがわかったのかというと、三郎が喜平次の答えた内容を知っていたからだった。
「喜平次、今いいか」
謙信に聞かれてから数日ののち、三郎はそう言って喜平次を呼び止め、人払いをして二人きりにした。そうして喜平次をまっすぐ見据えて言った。
「お前、跡取りはおれじゃなきゃだめなのかって、お屋形さまに聞いたらしいな」
本当のことなので否定のしようがない。喜平次は仕方なく頷いた。三郎は短く尋ねた。
「なんで」
「三郎の方がずっと向いていると思うから。おれには……平凡なおれには荷が勝ちすぎる」
今回は、謙信に聞かれた時よりは上手く本心の近くを答えられた、と喜平次は思った。三郎はそれを聞いて一旦黙り込んだ。喜平次も何も付け加えられなかった。先に声を上げたのは三郎だった。
「ずっと思っていた」
きれいな額の下の眉が、すっとした直線を描いていた。三郎は睨みつけるようにしながら、あの少しだけ高いよく通る声で、喜平次をまっすぐに糾弾した。
「喜平次、お前はもう少し、自分の発言や行動に責任を持つべきだ」
意味がわからなかった。これでも慎重にしていたつもりである。慎重になりすぎるせいで黙り込みがちだと注意されることもあるくらいだ。
「どういうこと」
さすがに尋ね返さずにはいられなかった。しかし三郎は当たり前のことを尋ねられたと言いたげな様子で、物分かりの悪い喜平次をを睨むかのようにして言い返してきた。
「お前が跡取りなんだってみんなわかってるよ。当人が自覚しないでどうするよ」
「だから、誰が跡を継ぐかはおれにはわからないって、前に言っただろ」
三郎の方が自分より優れているのだ、という思いは、とうとう喜平次の中で消えることがないままだった。謙信に跡取りの話を出される前も、出されてからも。たぶん、これからもずっとそうだろう。三郎こそ、華やかで言葉も明晰で、喜平次などよりずっと従いたくなる人のはずだ。自分とは魅力が違うのだ。
しかしどうやら三郎はそう思わないらしかった。三郎はどこか疲れたような様子で、けれども子供に言い聞かせるように辛抱強く、喜平次の目をまっすぐに覗き込んで言った。
「お前はやっぱりお屋形さまに似ているよ。初めて会った時からずっと思っていた。お屋形さまも同じことを考えている。おれにはわかる」
「ちがう」
ふと声が出た。足元に落ちるような、端の掠れたいつもの声ではなく、珍しく遠くに飛んで三郎の向こうにまで響いたのがわかった。
「三郎はおれを買い被りすぎだ。それとも、眉毛の話なら、血縁なんだから当たり前だろ」
これは喜平次の本心だった。少し前から、三郎の言うことがどこかおかしいとは思っていた。謙信と似ているなんて、買い被りもいいところだ。眉毛の話だって、何かを言いかけてやめて、代わりに出てきたのが眉毛のことだったのくらいは、喜平次にだってわかる。
それに、たとえ喜平次の内面に謙信と似ているところがいくらかあったとしても、それが三郎の類稀な明るさ、賢さ、華やかさを否定するものにはならない。彼のような聡明な若者についていきたい者はいくらでもあるのだ。三郎こそ人の上に立つのにふさわしいと喜平次は思っている。喜平次自身が彼について行きたいと思うように。
しかしその程度のことで三郎を説得することはできなかった。三郎は苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「お前のそういうところがお屋形さまにそっくりだ」
「どういうところだよ」
「普段は自信なさそうにそういうことばっかり言うくせに、いったん人前に出ると、荒れ狂う軍神みたいなお屋形さまを、涼しい顔で眺めていられるところ」
返す言葉がなかった。考えたことがなかったからだった。三郎は畳み掛けた。
「変だと思ったんだ。初めて軍議に出たとき、ちょっと海でも見る、くらいの雰囲気でお屋形さまを眺めているのを。それをあとから、よく見ておけばお屋形さまの真意がわかるなんて言うのを、あのときもっとちゃんと、おかしいと思うべきだった」
「でも、あれは三郎にとっては初めてだったからで……」
「お前の言うとおり、慣れればそんなものかと一瞬は思った。でもそんなことはない。おれはいまだにお屋形さまが何に怒るのかわからないし、あの方がいきなり激怒するのを見ると毎回肝が冷える」
三郎は拳を握りしめて喜平次の胸に突きつけた。
「お前は肝が据わりすぎだ。そういうところがそっくりなんだ」
「そんなこと言われた事ないよ」
「うるさい。おれの話を聞け」
三郎は珍しく怒りの滲む声で言った。
「喜平次がおれの話を黙って聞いているのが、お屋形さまに見えることがある。若かったころ、お屋形さまはこういう顔をされていたんだろうなと思う時があるんだ。そうしたら軍議の時にお前がいつも涼しい顔をしているのも、それはそうかと思うだろ。お屋形さまを少しでも理解できると仮定するなら、あれを恐ろしくないと言うのもわかる話だ」
三郎は何も言えない喜平次に向かってさらに畳み掛けた。
「おれがお屋形さまから、越後を継ぎたいと思うか聞かれたとき、ついでに何を聞かれたかわかるか。『お前は喜平次をどう思う』だぞ。お前はおれについて、そんなこと聞かれたか?」
「……聞かれてはいないけど、それを言われたからって、お屋形さまが何を考えているかまではわからないよ」
「いい加減に気付け。お屋形さまも掴みにくいが、お前も大概だ。それで、お前だけがお屋形さまを理解している。お屋形さまもそう思っているから、おれに喜平次のことを聞いたんだ。おれにはそう思えてならないよ。少なくともそう見られることがあるってことを少しは自覚して、責任とってくれ」
「三郎の思い違いだ。他に誰がそんなことを言った」
さすがの三郎もそれには答えられないだろうと思ったが、目論見は外れた。三郎は語気を強めて言い返してきた。
「そう言われると思ってずっと言質を取っていた。冬になったら会いにくくなる奴もいるからな」
まさか、と思ったが、続けて三郎が口にしたのは、喜平次もよく知っている謙信の家臣たちの名前だった。
「甘粕。直江。安田。それから、本庄も。秀綱だぞ」
「本庄?」
越後の実力者たちはたいてい、養子のどちらかを推している。謙信が健在で死にそうにもないためあまり大っぴらにはなっておらず、ふんわりとしたものであったが、それでも一応対立らしきものはあった。三郎が先に挙げた三人は比較的わかりやすい喜平次派の者たちであったので、喜平次を担ぐためにそれくらいは言うのかもしれなかったが、しかし問題は最後の本庄だった。
本庄秀綱は、上杉には北条の後ろ盾が必要だと考えているほうだ。喜平次を持ち上げるのも変なら、三郎が自信をなくすようなことを言うのもおかしい。
「本庄はおかしいだろ」
そう言い返したが逆に言い返されてしまった。
「事実を言うのに北条派とか関係ない。あんなにお屋形さまを好きな本庄が言うんだぞ、やっぱおれの見込みが正しい」
本庄秀綱は強固な謙信贔屓なのである。本当は喜平次にも三郎にも越後を渡したくはないはずだが、北条の後ろ盾があれば謙信の越後はもっと強くなると考えているから、喜平次には輪をかけてすり寄りたくないはずだ。信じられない喜平次が眉を顰めると、三郎は鼻で笑って言った。
「悔しがってたぞ、喜平次の方が自分よりお屋形さまに近い気がするって。あとは……」
「もういい。本庄にも何か思惑か裏があるってだけだろ」
「いい加減にしろ!」
ついに三郎が爆発した。
「話を聞け」
三郎には珍しい、地を這うような低い声だった。
「責任を取れ。覚悟決めろよ。お前も上杉の男だろ。お前は平凡なんかじゃない。それを早く認めろ! おれが……お屋形さまがわからないこの家の人たちみんなが、惨めな気持ちになる前に」
惨めなのはこっちだ、そんな勘違いをされて、と喜平次は言い返したくなったが、家臣たちの喜平次評を直に聞いたらしい三郎にそう言い返す事はできなかった。家臣たちの評価が合っているとは喜平次はあまり思っていなかったが、だとしても、それを信じているらしい三郎に喜平次本人が言い返すのはあまりに酷いことだからだった。三郎は大きくため息をつき、自分を落ち着けるように何度か呼吸を繰り返してから、また口を開いた。
「お前、お屋形さまのこと、毘沙門天って言ったことないよな」
三郎が話を逸らしたことはわかったが、このことになら答えられたので、喜平次は三郎の質問に答えることにした。
「少し違うだろ。静かな時の方が多い方だし、おれには戦より日常のお屋形さまの方がずっと馴染みがある前にも言ったけど、海とか龍とか、その方が近いよ」
「あんまり聞かない意見だな」
「……変かな」
「変とかじゃないけど」
三郎は一息ついて、また別の質問をした。
「お前、前に、お屋形さまの唯一の悪癖は深酒、って言ったよな」
「言った」
「今でもそう思うか」
「思うも何も、それくらいしかないだろ。あんなにすごい人が」
三郎はため息をついた。
「なあ、ここまで聞かれてどうしてわからない?」
「なにが」
「いい加減に気づけよ。お屋形さまのこと毘沙門天に喩えずに、海なんて言うのはお前だけだ。龍ってのも旗ありきの話で、まともに捉えてんのはお前くらいだ。戦の時のお屋形さまの暴れぶりを、あれは悪癖じゃない、の一言で片付けるのなんか、越後中探したってお前だけだよ」
三郎は辛抱強く喜平次にそう言い聞かせていた。けれども喜平次は予想外の一言に驚いて、うまく返事ができなかった。
あれが悪癖?
咄嗟にそう言ってしまうべきだったのかもしれない。しかし喜平次には返せる言葉がなく、少しだけ目を見開いて黙り込む羽目になった。もし本当に三郎の言う通りに、謙信のあの豹変を、皆が悪癖と思っているのだとしたら、喜平次だけがおかしいということになるのだと気がついて言葉に詰まったのだった。
しかし確かに、三郎の言う通り、喜平次はあれを悪癖だと思ったことは今まで一度もない。ああして爆発することでようやく越後が動くことを、喜平次もよくわかっているからだ。
けれどももし、あの豹変ぶりを皆が悪癖と思っているのなら、確かに謙信は海にも龍にも見えないかもしれない、と初めて気がついた。そう思うとうまく言い返せなかった。
黙り込んだ喜平次を前にして三郎は続けた。
「どうせ誰もお屋形さまにはなれない。でもお前は……少しだけ、でも確実に一人だけあの人に近い。お前にはそれを自覚して生きる責任がある」
「それは……おれは少し違うと思う。あんなにすごい人には、おれはなれない」
「だったとしてもだ。少なくとも、お前はお屋形さまの甥だ。その分、おれたちにわからないことでも、わかることがあるのかもしれない」
「それが買い被りだって言ってるんだよ。おれはあの人を真に理解できたことなんかない」
三郎はとうとう喜平次に掴み掛かった。襟元を締め上げるようにして、喜平次の目を覗き込んで言った。
「跡取りのことを決めるのはお前じゃないって、いつも言ってるのはお前の方だ。いい加減に認めろ。腹括れよ。お前はお屋形さまに似てるんだ。おれがそう思うのが買い被りかどうかは……そういうお前が跡取りにふさわしいかは、お前が決めることじゃない」
喜平次も謙信ももたない、三郎の額がきれいだった。
「お屋形さまが決めるんだ」




