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その夜、二人はまた謙信に呼ばれ、三人で飲むことになった。謙信はいつものように酒を運ばせたあと(相変わらずの大酒であった)、人払いをして三人きりにし、自分は養子ふたりを眺めながら静かに盃を傾けていた。来たばかりの頃は口数の少ない養父をやや訝しんでいた三郎も、もうこのころには慣れたようで、自由に酒に手をつけては喜平次に話を振った。
喜平次も会ったばかりの頃と比較してずいぶん三郎と話ができるようになっていた。三郎を怒らせてしまった、と思ったこともあったが、さほど気にすることでもなかったのかもしれない。
「そういえば、前から思っていたんだけど」
三郎はそう言って酒を啜ると、喜平次を見据えて言った。
「お前さあ、与六と又五郎の喧嘩、なんで止めないの? お前が一番迷惑してるんじゃないの」
あまりにも予想外の話の振り方だった。喜平次は言葉に詰まり、すこし経って出てきたのがこれだった。
こんなところで聞くな阿呆!
と、思った。が、言えるわけはない。何しろそこで謙信が聞いているのである。どうしてさっき、二人だったときに聞いてくれなかったのか、と思った喜平次の背中をだらだらと汗が伝った。目が泳いでいるのも自分でわかるが、言えなかった。だって、言えるわけがない。
面白いから野放しにしている、だなんて。
そう、何を隠そう喜平次は、与六と又五郎の度の過ぎた喧嘩を、娯楽として消費していたのである。三郎はますます訝しむ様子を見せ、一方の喜平次はますます答えに窮して黙り込んだ。そうして二人で無言の攻防を繰り広げていると、むこうで黙って聞いていた謙信が、薄く笑って口を開いた。
「わたしはわかるぞ。喜平次、当ててやろう」
まずい、と思ったが遅かった。謙信は穏やかに笑って酒を煽ったのちにさらりと指摘した。
「喜平次、お前、面白がっているな」
喜平次は観念した。謙信には全てばれているのであった。
「申し訳ありません」
謙信は喉の奥で低く笑った。明らかにこの様子を楽しんでいる笑いであり、事情のわからない三郎だけが辺りを見回して困っていた。ついに謙信に尋ねた。
「どういうことですか?」
さすがに、このどうしようもない事情を謙信に説明させるわけにはいかない。喜平次は腹を括ってぼそぼそと白状した。
「おもしろいから……」
「は?」
案の定三郎は意味がわからないという顔をした。仕方がないので喜平次は説明を重ねた。
「なんていうのかな……相撲を見ているみたいな……」
三郎は呆れていた。
「お前、まあまあ頻繁にぶつかられてるよな? それ踏まえてもその感想なの?」
「うん、まあ……」
三郎は何も言わず、謙信も笑うばかりなので、喜平次は仕方なく白状を続けた。
「何もないところで突然発生するのが、なんか面白くて……」
三郎は呆れた表情のままで、ええ……とこぼしていた。けれどもこれは喜平次の本心だったので、他になんとも弁明のしようがなかった。
寺から出て正式に謙信の近くで暮らすようになったとき、謙信が特別に目をかけている男子は喜平次一人だった。その上数少ない謙信の血縁であったから、おそらく謙信は喜平次を跡取りにするつもりなのだろう、という憶測が越後を飛び交っているころだった。謙信の養子になる前とは比べ物にならないほどたくさんの大人が喜平次に構うようになって、それはありがたいことであったが、喜平次にはどうにも気詰まりだった。平凡な自分が謙信のようになれる気も全くせず、落ち込むこともよくあった。
そういう中で見つけたのが、与六と又五郎の大喧嘩なのである。
もともと与六が五つにして大抜擢を受け、喜平次の側仕えとして寺にもその後にもついてきていた。その後、寺から出たときに喜平次の周りで人員の整理があって、未来の喜平次のためにと何人か追加で選ばれたうちの一人が又五郎であり、才能あるふたりは並んで喜平次の近習をするようになった。
又五郎がはじめて与六や喜平次と一緒に暮らすようになった最初の日に、与六と又五郎は城下を揺るがす大喧嘩をした。謙信が出てきて諌めるほどの大騒ぎになり、周りの大人は皆呆れかえって二人を叱りつけた。又五郎の父は謹慎するなどと言い出し、比較して身分の低かった与六の父は、自分などは腹を切らねばならない、と顔を真っ青にして盛大に謝り倒していた。
そうして大人を動かしたふたりが喜平次には眩しかった。
喜平次はもともと、感情を爆発させることも、大声で主張することも苦手だった。謙信の跡取り候補とみられるようになってからは、ますます自分の本心を主張することが難しくなった。そういう中で与六と又五郎を見ていると、胸がすくような嬉しさが込み上げた。自分の代わりに裸足で駆け回り、人にぶつかり、大声で主張して、気に入らなければ手すら出す。いつしかそういう二人に自分を仮託して、見守るようになっていた。
喜平次がそんなことを考えているとは少しも知らない三郎は、酒を煽りながら例の二人を評していた。
「又五郎、もう少し大人しければ使い勝手は良さそうだし、何より特に与六だよ」
三郎が何を言いたいのかはよくわかる、と思った。他の人もよく言うことだからだ。
与六は顔がきれいなのだ。
「あの顔であのままでかくなったら、男も女も引く手あまただろうに、あの性格じゃなあ」
喜平次は唸った。三郎の言う事は尤もである。与六の顔は、ちょっとやそっとのきれいさではない。越後いちと謳われるほどの超のつく美人なのである。五つかそこらの頃などは、明日にでも神様に取られるのではないかと大人が口を揃えて言っていたほどだ。人形よりも人形のような子どもであった。
雪のように色が白く、黒目がちの瞳を縁取るまつ毛が長く、黒い艶やかな髪が豊かでよく揃っていた。丸い頬がやわらかく、小さな唇と合わせてやや上気してどこまでもかわいらしい……ただし、性格はやわらかくもかわいらしくもなかったけれども。三郎は口の端で笑って言った。
「なあ喜平次、与六をあのまま野放しにして、勿体ねえと思わねえの? もうちょっと普通になってもらった方が、お前のためにもよくない?」
確かにもったいないとは思う。けれども与六自身が、そのきれいな顔を褒めそやされるのを嫌がる……というか、指摘すると激怒して手がつけられなくなるので、与六の手前、言葉選びは慎重になった。大騒ぎになった又五郎との最初の大げんかも、元はと言えばこの与六の顔の評判のせいなのだ。
「あの性格だからいいんだ……と思う」
最後のところの声が小さくなった。確かに与六はいくらなんでも怒りすぎだと思うことがないわけではないからだった。
「本気でそう思ってる?」
「たぶん……」
「そこ自信ないのはなんなんだよ。主人なら自信持ってやれよ」
謙信がまた低く笑っていた。三郎もそれを聞いて笑って、もう少し続けた。
「顔と、あと頭だけはいいけどな、あいつ。手に余ると思ったことはないの? おれの手には余るよ。あのままでかくなられたら、おれの部下にはとてもできない。手綱を引けないから。よく部下になんかしようと思ったよな」
三郎の言うことはもっともだった。三郎は人をよく見ている。やはり頭が回るのだ。
「正直、手には余る」
正直にそう白状すると、穏やかに笑っていた謙信が横から口を挟んだ。
「喜平次には、それくらいの方がいいんだろう」
「お屋形さまがそうおっしゃるのなら、そうなんでしょうね」
三郎は頷いてから考えを述べていた。
「確かに、喜平次は静かな方だから、そのぶん部下がうるさいのは、それはそれでありなのかな……。おそろしく顔のきれいな部下が横で大暴れしていたら、そいつがめちゃくちゃ目立つだろうから、主人は案外自由にやりやすいのかも」
しかしそこで三郎は膝を打って、喜平次に詰め寄るようにして言い聞かせた。
「でも、だ。もし本気でそれをやりたいなら、お前、やっぱりもうちょっと教育した方がいいよ。顔がきれいなのに気がつく前に、欠点が、一つ、二つ、三つ……」
三郎は指折り数え、謙信は三郎の喋り方の間の良さに受けて笑っていた。
喜平次は苦笑いした。自分でもわかっているのだ。面白がっている場合ではないことくらいは。三郎はそれを目ざとく見つけて指摘した。
「喜平次、お前もたいがい、面白いよな」
「……褒めてないよな?」
「どうだろう」
三郎はそう言ってなんとなく誤魔化したが、喜平次に悪いと思ったのか、すこし肩をすくめて語り出した。
「じゃあおれも白状するけどさ、おれ、ちょっと運が悪いんだよ、時々。だからああいう予測不能なのはあんまりそばに置いておきたくないんだ。ああやってぶつかられ続けてたら、いつか死ぬかも」
「そんなわけあるかよ」
「あるんだなあ、それが。まあぶつかられたくらいじゃ死なないだろうけど、間が悪いっていうかさ」
言われてみれば、心当たりがないではない。そもそもこんな変な時期に、何人もいる北条のせがれから一人選ばれて上杉に来た時点で、ちょっと間が悪いと思うし、前にはじめて軍議に参加したのだって、規模の大きいものがあのときたまたますぐにあったから参加させられるはめになったのだ。もっと小規模なものが続いていたときだったら、変に上座とか下座とか思わずに済んだかもしれない。
三郎は明るく続けた。
「ま、それがおれのかわいいところだ。たぶん」
「かわいい?」
よく分からずに聞き返すと、三郎はやっぱり明るく言った。言い慣れているのかもしれなかった。
「だってそうだろ、口も頭もまわって、顔もいいとなったら、それくらいの悪運がなきゃ。逆にこの間の悪さがおれの売りだよ。かわいがってもらうためのな」
三郎は冗談めかして笑っていた。
けれども確かに三郎の言うことは一理あるかもしれなかった。三郎は与六のことを、顔も頭もいい、と褒めたが、三郎だって負けてはいないと喜平次は思っていた。越後いちとは言い難いが、三郎は額のきれいな、華やかな容姿をした若者で、彼を目にした女子たちがその容姿の良さを噂しているのを喜平次は知っている。頭のほうも、正直喜平次よりもよく回ると思う。こうして雑談をしているだけでも、その話題転換の巧みさや、口数の少ないはずの謙信からうまく言葉を引き出すやり方から、その賢さが伺えるというものだ。
三郎の嫁になった喜平次の姉だって、政略結婚ではあったけれども、見目も頭もよい自分の旦那のことを、好ましく大切に思っていることを喜平次はちゃんと知っていた。笑って続ける三郎の、こういう自己開示のやり方は、やはり人の機敏に聡く、賢い者だけができることなのだと喜平次は思う。
「又五郎にぶつかられたのも、本当はあの場にいる予定はなかったんだけど。ていうか、お前がいるところに養子にきたおれはやっぱりちょっと間が悪いと思うし」
当事者である喜平次は何も弁明ができず、三郎が続けたのを黙って聞いているしかなかった。
「そもそも本来、上杉に来たのだって、別におれじゃなくても良かった……」
謙信が穏やかに尋ねた。
「不服か?」
「いいえ」
三郎は間髪入れずに答えていた。
「越後に来てからは、不満はありません。……越後に来てからは」
三郎は口の中でそう繰り返した。謙信は黙っていて、喜平次も何も言えなかった。三郎はすぐにからっとした笑顔になって続けた。
「でも、どちらにせよ、あいつらがお前にぶつかるのは、やっぱりやめさせるべきだ」
「うん、……ありがとう」
三郎が大真面目に提案するので、謙信は笑いを堪えきれておらず、喜平次も笑いそうになった。けれども三郎のその心遣いはありがたく、礼を言わずにはいられなかった。
しばらくして、厠、と言って謙信は立ち上がった。ついていこうとしたが、人を呼ぶからお前らは待っていろと言われて一人で行ってしまった。叔父がときどき気を遣って二人だけにしてくれていることは、喜平次にはもうわかっていたし、三郎も気がついていることだろうと思われた。三郎は謙信の背中を見送ってから小さく呟いた。
「まあでも、おれはちょっと与六がうらやましい。得だし、いいよな。顔も頭も良くて、しがらみがないやつってのは」
喜平次はすこしだけ考えて返事をした。
「顔も頭も良くてしがらみがあるやつが知り合いにいるみたいな口ぶりだな」
「おう。よくわかったな」
三郎はそれ以上言わなかったが、喜平次には彼が誰を指したいのかわかる気がした。けれどもそれを指摘することはできない気がした……きっと、彼自身がそうなのだ。華やかな容貌とよく回る頭脳を持つ三郎には、喜平次にすらも良くわかる、目に見えるしがらみばかりがあるような気がしてならなかった。本当の親に、景虎という名前に、上杉に来て娶った妻。
どれも喜平次が持たないものだった。自分など、彼に比べたらしがらみなんてあってないようなものだ。妻もおらず、父はとうの昔に死に、謙信と同じ家の出で、生まれ故郷すらさほど遠くない。しがらみがあるとすればこの越後から逃れようがない、というくらいのものだ。
与六と又五郎を眺めることにしか、自分を発散する方法を喜平次が見いだせなかったように、三郎には三郎の悩みと、それを笑いに変えて昇華するしかないという事情があるのだろう。
そう思うと、もう一献どうだと三郎に酒を勧めることしかできなかった。与六と又五郎も大人になるのだから、いつまでも彼らの喧嘩を眺めるだけの喜平次でいるわけにはいかない。三郎という話し相手ができれば、口下手で鬱屈とした自分をどうにかうまく操って大人になってゆけるかもしれないという小さな希望があった。同時に三郎も、喜平次と話をすることで、何か変わることがあると思ってくれるかもしれない。
喜平次は三郎と、そうして兄弟のように、一緒に大人になってゆけはしないか。
酒を差し出すと、手酌をしようとしていた三郎は笑って受けてくれた。いい人だ、とまた思った。実の兄が生きていたらこの人のようだったのだろうか。




