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三郎に嫌われた、と喜平次は思ったが、別にそういうわけではないようだった。その次の日も三郎は普通に話しかけてきた。ただ、喜平次がうっすら三郎のことを、掴みどころがない、と思っているように、三郎も喜平次のことをどこか理解しにくいものと思っているらしいことはわかった。
それからしばらくしたある日の、よく晴れた昼下がりに、人を探して廊下を歩いていると、角を曲がったところでいきなり子どもが吹っ飛んできた。見覚えのある子どもである。その子どもは喜平次にぶつかったことを謝らないどころか、振り返りもせずに立ち上がって、自分を吹っ飛ばした相手に掴みかかりに駆け出した。怒りに我を忘れて全く周りが見えていない様子である。掴まれた方も子どもであった。
どちらも喜平次の近習である。喜平次が探していた二人であった。
喜平次にぶつかってきたのが与六、飛び蹴りをかまして与六を吹っ飛ばしたのが又五郎。二人は同い年で、たいそう仲がいいのだが、一方で少なくとも一日二回は喧嘩をしないと気が済まない仲でもあった。元服直前の二人は体力が有り余っており、最近はじゃれ合いが発展したただの喧嘩でもこうして激しくなることが多々ある。注意しても無駄なことを喜平次はよく知っていたが、かといって注意しないわけにはいかない。二人に声をかけようと顔を上げると、与六に掴み掛かられた又五郎の向こうにきれいな額が見えた。こちらは又五郎にぶつかられたらしく、肘のあたりをさすっていた。
三郎はやや呆れたような顔をしてから、即座に二人の子供の首根っこを掴んで引き離した。
「お前ら……何してるの?」
三郎は不審がっていた。当たり前だ。この城ではもはや名物のようなものになっている二人の取っ組み合いだが、来たばかりの三郎にそれはわからない。掴まれた二人は口を揃えて元気よく答えていた。
「喧嘩です!」
喜平次は頭を抱え、三郎はますます不審がった。
「ええと……おれが誰かわかるよな?」
「三郎さま!」
また二人は口を揃えて言った。わかってるのかよ、と悪態をついたのが聞こえて、喜平次はなんだか笑いそうになった。三郎も一瞬笑いたそうな顔をしたような気もしたが、次の瞬間には真面目な顔になっていたので、喜平次の見間違いかもしれなかった。首根っこを掴まれたままの二人はまた取っ組み合いを始めようとしていたが、三郎は両手にますます力を入れて二人を無理やり引き離し、その間に入るようにして言った。
「いいか、よく覚えておけよ」
三郎は両方の瞳を覗き込みながら言い聞かせた。
「人にぶつかったら、謝ること。それから、次の当主になるかもしれない人には、極力ぶつからないこと」
喜平次はふと、北条の家について聞いていたことを思い出した。三郎には兄弟がたくさんいて、妹なんかもいたのだということを。一方の喜平次は姉がふたりと死んだ兄が一人であり、育った環境にはかなり隔たりがありそうだった。少なくとも、こうして二人の仲裁に簡単に入れるあたり、三郎は喜平次とまったく違っていた。三郎は続けた。
「跡取りにぶつかるなってのは、おれだけじゃなくて、お前らのご主人にもだぞ。おれは知ってるんだからな、お前らが毎日毎日喜平次にぶつかりまくってること。いいか、わかったな」
確かに三郎の言う通り、与六と又五郎はよく喜平次にぶつかっていた。ところ構わず喧嘩を始めるし、そうでないときもいろいろなことが気になってふらふらしているからだ。来客があるときと重要なときは年不相応なほどに気を張ってしっかりしていられるくせに、身内しかいないとここぞとばかりに喜平次にぶつかりにきた。
やはり三郎は聡明だ、と思った。周りをよく見ていて、それを的確な時にきちんと、必要な相手に伝えることができる。自分には難しいことだというのを喜平次は自覚していた。
しかし言われた二人がどこまでわかっているのかはよくわからなかった。とりあえず、と思ったのか、二人はまた声を揃えて元気に返事をした。
「はい! ごめんなさい!」
はいじゃねえんだよなあ、と三郎は頭を振っていた。与六と又五郎はようやく戦意をなくしたようで、取っ組み合うそぶりを見せるのをやめたので、三郎はその首から手を離して、重ねて尋ねた。
「ていうか、お前たち、なんで喜平次のところにいないの。近くにいないのに近習ってのは、筋が通らないぞ」
「あっ!」
どうやら今やっと気がついたらしい。慌てて二人は振り返り、廊下の角にいる喜平次に気がついて、ものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「喜平次さま、ごめんなさい!」
「お待たせしました!」
「探したよ」
喜平次は頭を掻いた。二人とも、この年齢の少年たちの中では群を抜いて賢いはずなのだが、同時に群を抜いて短気でもあり、一度頭に血が上ると周りが見えなくなることがあった。知恵は大人並みに回ることもある反面、そういうところはまだまだ少年と言えた。今回は喜平次がふたりまとめて用事を言いつけたのだが、その帰りに取っ組み合いを始めて喜平次の元に戻るのを忘れていたようだ。よくあることだった。
先に戻っていろと声をかけると、二人は少し反省した様子で、しかし心底反省しているとみなすには元気すぎる様子で、喜平次の居室の方に廊下を駆け抜けていった。喜平次はまた頭を掻いた。
遠くなっていくふたつの小さな背中を眺めていると、隣に三郎が立ったのがわかった。三郎は眩しいときのようにわずかに目を細めながら言った。
「元気があってよろしいよ。もしかして上杉名物?」
喜平次は苦笑いした。
「まあ、そんなところ」
それを聞いた三郎も少し笑っていた。
「あんまり元気だから、叱ってるのに笑いそうになったよ。おかしくて」
「おれも。……弟みたいなものかも」
そう付け加えると三郎はもう少し笑った。
「ああ、ちょっとわかる気がする。けど、そのわりに、あんまりお前に似てないよな」
痛いところを指摘されて喜平次は口を閉じた。又五郎も与六もかなり頭の回るほうであり、特に与六は大人ですら舌を巻くような発言をすることがたびたびある。跡取り候補の喜平次よりも、五つ下でそこらへんの家の出の与六のほうがよくしゃべる、という悪口は、喜平次を貶す際にまず用いられる鉄板の文句であった。正直に言って、これまであまりにも繰り返し言われすぎたため、喜平次は聞き飽きていたが、三郎に言われるのはまた違った。
「……まあ」
三郎は喜平次の声が少しだけ沈んだのに気がついたようで、わずかに気遣うような目線を寄越してから、明るく付け加えた。
「だからかな。懐かれてるなあ」
三郎はその時はそれ以上何も言わなかった。しかしやはり嫌われたわけではないらしいことはわかった。




