2
これは養子にやってきたばかりの三郎も認めるところだろうが、謙信は天才だった。
群雄割拠と言ってよかった越後をあっという間に丸ごと抱えてしまった謙信を、人々が毘沙門天のようだと噂するようになって久しかった。三郎が来た時はおろか、喜平次が養子になった時にはすでにそう呼ばれていた。謙信が戦で「龍」の旗を掲げることと掛けて、越後の龍と言う者もあった。
特に軍議や戦場ではその勢いたるや凄まじく、戦に出る上杉兵を過激とすら言えるやり方で豪快に焚きつけ、思い通りに動かない家臣たちを苛烈になじり、一度決めれば過酷なほどに追い詰めてほぼ必ず城を落とし、時には手にした青竹で前触れなく周囲の人を打つことすらあった。その様子はさながら軍神そのものといえた。書状で指示を出すときなどにもその様子が言葉の端々から見え隠れしており、謙信からの文である、というだけで人を震え上がらせるほどであった。
ただ、喜平次にとっての謙信は少し違っていた。
そもそも普段の謙信が、軍議や戦場や書状での姿とは少し違うのであった。誤解されている部分があるが、実は普段の謙信は口数が少ないほうなのだ。普段の生活や内政のことなど、急を要しない要件であれば、いつも人に喋らせて自分はその話を聞いていた。
そもそも戦で豹変するのだって、元はと言えば自分よりもそれを得意とする人が誰もいないからである。少なくとも喜平次はそう理解していた。どんなに言葉を尽くしても、謙信以外に真意を理解できる者がないから、抱えたものが爆発して、異様な焚き付け方をしたり、突然激昂したりするのである。そうしないと越後は動かないのだ。
一方、普段の生活に関することは奥向きを取り仕切る女たちの方が詳しいし、内政についても得意とする家臣がいたので、その必要がなかった。本質的には見ている方が好きなのだろうと喜平次は思っていて、実際にそうなのかはわからないが、基本的には彼らに任せて、それを見守るのが謙信のやり方だった。書面での方がよほど饒舌になるという不思議な人だった。養子に取った喜平次に対しても同様で、あたたかく迎え入れてあまり口出ししなかった。
養子になって最初の二年ほどは喜平次を寺修行に入れさせたが、その間もやはり静かに見守っていた。あまり手出しはしない反面、自分もかつて同じ寺で過ごしたのだと言っては、時折様子を伺いに来た。寺に来たときはいつも静かに話をして、少しだけ褒めて帰っていった。陣中から離れられないときも喜平次を気にかけていたようで、そういうときは手紙を寄越した。褒め方は文の方が大袈裟であった。対面でも手紙でも、喜平次をきつく叱ったことは一度もなかった。
喜平次が初陣を済ませ、大人の仲間入りをしてもそれはあまり変わらなかった。ただし、軍議や陣中では非情になることも多く、本物の戦場どころか机上の兵法ですら誰も敵わず、武芸にも秀でて鬼神のような強さを見せていたので、謙信にも家臣が言うような恐ろしい一面があるのだと喜平次はようやく身を以て理解した。しかしそれでも大枠の印象はあまり変わらなかった。
海のような人だ、と喜平次は結論を出した。
苛烈に当たることが時折あるが、普段は穏やかで、どちらかといえば静かな人であった。時折荒れ狂う日と凪いでいる日のある、越後の海のようだった。そう思うと、毘沙門天よりも龍の方が印象は近いのかもしれない。普段は静かだがどこか気まぐれな、人ならざる力を持つ伝説上の生き物として謙信を語る人がいるというのは、喜平次には納得がいくことであった。
そういう謙信の性格は、三郎がやってきてももちろん変わらなかった。喜平次が三郎と初めてきちんと話をした日、謙信は必要なこと以外はあまり喋らずに、養子二人がぎこちない会話をするのを少し離れたところから見守っていた。三郎にも多くを口出しすることはせず、しばらくすると近くの者に酒を持ってこさせ、養子二人に言葉少なに勧めたのちに自分も口をつけた。口数の少ない養父からの、ささやかな歓迎の宴だった。
しばらくして謙信が厠に行くと言って退席し、喜平次は三郎と二人きりになった。
「不思議な方だなあ」
三郎がぽつりと言った。その通りだと思った。喜平次は、海だとか龍だとか初めて思ったときのことを思い出して返事をした。
「人じゃないみたいだよな」
「どういうこと」
三郎は首を傾げた。うまく説明できる気がしなかったが、喜平次は黙ってしばらく考えた後、思っていたことをそのまま言ってしまうことにした。
「龍とか、言われてるだろ。そういう……それか、海みたいな……」
「なるほどね。そういうこと」
何を言われるかと思ったが、三郎は少し口を開けて、笑みを浮かべて頷いていた。まだ激怒する方の謙信を見たことはないはずだが、それでも謙信の掴みどころのなさは十分わかっているようで、納得がいったらしい。北条の領地も海に面しているはずだから、その分理解しやすいのかもしれなかった。喜平次は続けた。
「あの人の養子になるのは、おれにはちょっと荷が重い。養子になって随分経つけど」
「ああ……長く知っている人ほどそうかもな。なかなかああはなれないよな」
謙信はやはり今日もどこか掴みどころがなく、不思議な人であった。
喜平次には到底辿り着けそうにない境地にいる、と言わざるを得ない。
というか、なろうと思ってなれるものではないと思っていた。謙信の持って生まれた性分が、そもそも常人とはかけ離れているのであろう。そういう非凡な人が、三郎はともかく自分を養子にしたがったのを、喜平次はいつも不思議に思っていた。政治的な理由で自分の傘下に入れておきたい、というのが大きいだろうとはわかっていたが、だとしたらかわいがる必要はない。にもかかわらず、いつも気にかけられ、かわいがられて育ったという自覚が喜平次にはあった。だから時々混乱する。
もし喜平次が気に入られる理由があるとすれば、それは平凡であるというただ一点のみに収束するのだろう、と喜平次は当たりをつけていた。喜平次にとって謙信が理解できないように、平凡な甥はそのぶん謙信の興味をそそるのだ。
では三郎はどうだろう。
三郎がどのような人なのか、会ったばかりの喜平次にはまだわからなかったが、彼も掴みどころのない感じがある気はしていて、それは少し謙信に似ているような気がした。三郎でいいよ、と会ってすぐに言われたことを思うと、初めて謙信に褒められたとき、面映くてやたらに戸惑ったことを思い出すのだ。二人とも腹の奥があまり見えず、それでもいい人らしいのはわかる。二人によくしてもらうのは嫌ではない、と喜平次は思った。
三郎でいいよ、に返事をした声は警戒で硬くなったが、すこし話をした今なら受け入れられる気がする。三郎は掴みづらいところがあるが、気さくでやさしかった。そして戦のときの謙信と同じように頭が回りそうに見えた。
三郎は考え込んだ喜平次を気遣うようにすこし眺めてから、持っていた酒を啜って言った。
「それにしても、随分たくさん飲まれるんだな。見たことないな、あんなに飲む人は」
「……深酒が、お屋形さまの唯一の悪癖かもな」
「そんなに酔うの?」
「いや、ぜんぜん。いくら飲んでも怖いくらい平然としてる。けど、人間が飲むには量が多すぎるよ。だから龍とか言われるのかな」
「龍っていうか、うわばみ?」
喜平次は三郎の冗談で笑った後、すこし考えて話を振ってみた。この気さくな三郎になら、自分からも話を振れる気がした。
「三郎は、酒はすき?」
三郎は笑って答えてくれた。
「おれは結構すき。北条にはうまい酒があって、父が用意させた贈答品の中にあったはずだから、そのうち出てくるんじゃないかな。自分で言うのもなんだけど、まあまあ飲むよ。お屋形さまほどじゃないけど……」
笑って言った三郎を、いい人だ、と喜平次は思った。
そうして言われてみれば確かに、謙信が厠に立つころにはすでに、三郎は結構な量を空けていた。そういうところを含めて、謙信は三郎をいろいろと気に入ったのかもしれなかった。




