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ソフィアは名前を捨てた。
「元気でくらしています。迷惑をかけてごめんなさい」とだけ書いた手紙を子爵領に出した。
今ごろ王都から遠く離れた子爵領にも、ソフィアが起こした王都でのスキャンダルが伝わる頃だろう。
田舎の街の事、しばらくは娘のスキャンダルで両親を針のむしろに座らせる事となるが、家の名誉と引き換えにトビーの学費の心配も子爵領の経営の事も心配がなくなったのだ。それくらいは我慢してもらおう。
ソフィアの新しい住所は、教えなかった。
この街ではソフィアは、ソフィア・ド・マーレ子爵令嬢ではなく、ただの平民のフィフィとして生きている。
(実家が貧乏でよかったわ。平民の暮らしを始めても問題ないもの)
小さな海の街での生活は心おだやかなものだ。
ソフィアがこの街にきて初めて知った事だが、平民の子供には基本的な文字の読み書きすらままならない子供が多くいる。子供の中には高い魔力を感じる子供もいるが、この子供達は魔術の才能を開花させる前に、文字の勉強をする機会すら貴重なのだ。
ようやくブライスの悲願であった法律が立法化した今、こうやって平民の識字率を上げる事からブライスの夢を陰ながら支えて生きていこうと思う。
ソフィアは貧乏貴族とはいえ、平民としての生活ははじめてで、最初は戸惑うことも多かったが、子どもたちもその親達も、ソフィアを王都から派遣されて田舎の生活に不慣れな先生として、温かく迎え入れてくれた。
朝から夕方まで子どもたちに文字や計算を教えて、そして夕食の材料を買い出して、海に夕焼けが落ちる所をみてから小さな部屋に帰宅する。静かな日々だ。
「今日はこっちのお野菜をくださいな」
「フィフィちゃん、いつもありがとう。この果物をおまけしておくよ」
「おいジミー、おまえフィフィちゃんが可愛いからって、買ってもらった商品よりも高い果物をおまけするバカがいるか!」
「いけね、親父、もうかえってきてたのか!」
生鮮食品店の息子であるジミーは、いつもソフィアが買い物に行くと、ソフィアの気を引こうとおまけばかりして、オヤジさんにからかわれている。
「お気遣いありがとう、ジミーさん。今日は遠慮しておくわ」
「ははは、まいったなあ。ねえ、それでいつになったらフィフィちゃんは俺とデートしてくれる? 来週のお祭りには是非君をエスコートしたいんだ、考えておいてよ」
「ふふふ、考えておくわね」
「やった!! 必ず考えておいてくれよ!」
恋の痛みからすこしずつ立ち直りつつあるソフィアにも、こうして今は少し気になる人もできた。
領地や領民の事を考えたり、夢見がちな父母の領地経営を心配したり、弟の学費の事を考えなくてはいけない生活から解放されたソフィアは、豊かではないが心は静かなここでの生活が気に入っている。
誰かと結婚して家庭を持ちたいとあれほど強く願っていたけれど、こうして田舎で可愛い子どもたちに囲まれて読み書きや計算を教えていると、そんな気持ちへの未練もすこしずつ消えていくような気がしてきた。
(宮廷魔術師になりたかった夢も、結婚してやさしいお母さんになりたかった夢も、全部幻のようだわ)
ソフィアは買い物をおえると、いつものように、海に立ち寄った。
静かに夕日の落ちてゆく海を眺めながら、そっと自分の右腕を抱きしめた。
ついこの間まで、この右腕に解呪の方法もわからない、厄介な呪いが掛かっていたなど、本当に遠い昔の幻の事のようだ。
右手の向こうには、忘れようとして忘れることなどできない、宝石のように美しい男の姿が思い出される。
嵐の後のようなすさまじいあの部屋、難しい顔をして書類にむかっている時の真剣な美しい顔、ソフィアと目があうと、二カッと少年のように見せてくれる、あの美しい笑顔。
頭をふって幻影をふりはらって目の前の広い海に目をやる。
広い海は、残酷にもあの男の優しい紺色の瞳の色をしていた。
(会いたい・・ブライス様、私、貴方に会いたい)
ブライスのいない右側が苦しくて、ソフィアはその場で大声で、ぼろぼろと涙をこぼした。




