存在しているのに、存在していないもの
まず結論から言おう。
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俺はこの日、
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人生で最も理解不能な30分を過ごした。
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場所は公園。
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時間は放課後。
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状況は最悪。
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なぜなら。
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目の前で、綾瀬が。
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何もない空間と会話しているからだ。
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「……今日は元気」
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綾瀬が言う。
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誰に?
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聞くな。
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聞いたら負けだ。
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さっき聞いたばかりだが。
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負けたばかりだが。
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学習はしない。
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人間だから。
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「……いや、あのさ」
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俺は言う。
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勇気を振り絞って。
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「マジで何が見えてるんだ?」
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核心。
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直球。
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これ以上ないくらいのストレート。
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もはや変化球を投げる余裕はない。
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綾瀬は少しだけ考えて。
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「……いるでしょ」
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言った。
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簡潔に。
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あまりにも簡潔に。
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問題は。
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俺には一切見えていないことである。
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「いや、いないけど」
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事実を述べる。
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「いる」
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断言された。
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強い。
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無駄に強い。
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こういう時の綾瀬は、本当に強い。
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主に精神的に。
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その時だった。
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足元で、何かが動いた。
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気がした。
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いや、動いた。
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絶対に動いた。
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見えないけど。
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動いた。
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これはもう哲学である。
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“見えないのに動いたと感じるものは存在するのか?”
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という問題だ。
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今はどうでもいい。
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非常にどうでもいい。
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重要なのは。
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俺の足元で何かがうごめいている気がするという事実である。
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「……あの」
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俺は言う。
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少しだけ後ずさりながら。
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「今、何か来てない?」
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「うん」
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即答。
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迷いがない。
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恐怖である。
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「来てるって何が!?」
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思わず声が大きくなる。
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仕方ない。
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普通はそうなる。
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ならない方がおかしい。
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綾瀬は、俺を見る。
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ほんの少しだけ、首を傾げて。
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「……触る?」
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提案された。
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何を?
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分かっている。
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分かっているが。
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分かりたくない。
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「いやいやいや無理無理無理」
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即座に拒否する。
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人間として正しい判断だ。
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たぶん。
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しかし。
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その瞬間。
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何かが、足に触れた。
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「うわっ!?」
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跳ねる。
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完全に跳ねた。
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反射的に。
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もう理性とかそういうレベルではない。
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純粋な恐怖である。
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「……大げさ」
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綾瀬が言う。
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冷静に。
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冷静すぎる。
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こっちは人生最大級のピンチなのに。
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「だって今触れたぞ!?」
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「触るよ」
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当然のように言う。
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この会話、成立しているのか?
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不安になってくる。
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かなり。
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その時。
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綾瀬がしゃがむ。
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そして。
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何もないはずの空間に向かって。
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手を伸ばす。
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撫でる。
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ゆっくりと。
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優しく。
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その動きは。
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明らかに。
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“何かを撫でている動き”だった。
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「……いい子」
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小さく言う。
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柔らかい声で。
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さっきまでの無機質さはどこにもない。
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まるで別人だ。
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いや。
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これが本来の姿なのかもしれない。
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そう思った瞬間。
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また、足元で何かが動く。
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さっきより近い。
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というか。
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完全にまとわりついている気がする。
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「ちょっと待てこれ絶対何かいるって!!」
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もはや叫びである。
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冷静さは捨てた。
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綾瀬は、少しだけ考えて。
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それから。
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とんでもないことを言った。
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「……見えないの、かわいそう」
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同情された。
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この状況で。
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なぜか。
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俺が被害者ではなく“不憫な人”扱いされている。
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納得いかない。
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全く納得いかない。
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だが。
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ここで一つ、冷静に考えてみよう。
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綾瀬は。
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何かを見ている。
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触れている。
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会話している。
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そして。
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それは。
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少なくとも攻撃的ではない。
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なぜなら。
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俺はまだ無事だからだ。
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精神的には無事じゃないが。
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肉体的には無事である。
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ここ重要。
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「……危なくないのか?」
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恐る恐る聞く。
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「全然」
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即答。
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信頼が厚い。
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何に対してなのかは不明だが。
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その時だった。
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公園の入り口の方から、
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犬の鳴き声が聞こえた。
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「ワン!」
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普通の犬だ。
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見える。
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はっきりと。
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非常に安心する。
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“見える存在”というだけで、ここまで心が安らぐとは思わなかった。
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犬はこっちを見ている。
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いや。
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正確には。
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俺の足元を見ている。
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そして。
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次の瞬間。
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犬が、尻尾を振りながら近づいてきた。
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一直線に。
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俺ではなく。
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“俺の足元の何か”に向かって。
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止まる。
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そして。
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何もない空間に向かって。
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じゃれ始めた。
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完全に。
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楽しそうに。
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見えない何かと。
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遊んでいる。
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「……は?」
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理解が追いつかない。
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いや。
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理解したくない。
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でも。
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事実は一つだ。
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“見えている存在”が、“見えていない何か”と遊んでいる。
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これはもう。
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言い逃れできない。
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確定である。
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何かがいる。
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確実に。
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俺には見えないだけで。
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その時。
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綾瀬が、ふっと笑った。
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小さく。
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本当に小さく。
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でも。
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はっきりと分かるくらいに。
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柔らかく。
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優しく。
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「……仲良くできそう」
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誰に向かって言っているのかは。
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もう、聞かない。
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聞かないが。
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分かってしまう。
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これは。
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完全に巻き込まれている。
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しかも。
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かなり面倒な方向に。
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そして何より。
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この時の俺は、まだ知らない。
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この“見えていない何か”の正体が、
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とんでもなく現実的で、かつ情けない理由で見えていないだけだということに。




