見えていなかったのは、俺の方
まず、冷静に状況を整理しよう。
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俺の目の前では今、
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犬がいる。
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これは見える。
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問題ない。
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非常に分かりやすい存在だ。
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ありがたい。
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そしてその犬は。
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何もない空間と遊んでいる。
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ここから急に難易度が上がる。
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だが、事実である。
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そして綾瀬は。
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その様子を見て、満足そうに頷いている。
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つまり。
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この場にいる全員が納得しているのは俺以外である。
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これは非常にまずい。
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孤立である。
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精神的に。
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「……あのさ」
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俺は言う。
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もう逃げない。
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逃げたところでどうにもならない。
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ここまで来たら、真実を知るしかない。
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「それ、ちゃんと説明してくれ」
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綾瀬を見る。
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真っ直ぐに。
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すると。
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綾瀬は少しだけ考えて。
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それから。
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いつも通りの無表情で言った。
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「……普通に猫」
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——。
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……はい?
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「……猫?」
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聞き返す。
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確認のために。
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重要なプロセスである。
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「うん」
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頷く。
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当然のように。
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いや待て。
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おかしい。
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色々とおかしい。
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「いや、いないけど」
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事実を述べる。
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俺の視界には、猫など存在しない。
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犬はいる。
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だが猫はいない。
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断言できる。
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これはもう、自信を持って言える。
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「いる」
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綾瀬は言う。
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断言する。
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強い。
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相変わらず無駄に強い。
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だが今回は違う。
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こちらにも、根拠がある。
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「いや、見えてないって」
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「見えないだけ」
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その通りである。
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その通りなのだが。
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納得できるかどうかは別問題だ。
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その時。
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綾瀬が、俺の方に一歩近づいた。
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珍しい。
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かなり珍しい。
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そして。
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手を伸ばす。
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俺の顔に。
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正確には。
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俺の目の前に。
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「……ちょっと待て」
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嫌な予感がする。
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非常に。
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だが、止める前に。
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綾瀬は、俺の目の前で。
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何かを掴んだ。
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いや。
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“何かを外した”。
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次の瞬間。
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世界が、変わった。
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——いた。
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猫が。
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普通に。
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めちゃくちゃ普通に。
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そこにいた。
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俺の足元に。
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さっきまで“何もなかったはずの場所”に。
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黒い猫が、いる。
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尻尾を揺らして。
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犬とじゃれている。
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めちゃくちゃ楽しそうに。
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「……は?」
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声が出る。
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当然だ。
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出ない方がおかしい。
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「見えた?」
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綾瀬が言う。
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少しだけ。
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ほんの少しだけ。
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楽しそうに。
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「いや、ちょっと待て」
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思考が追いつかない。
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情報が多すぎる。
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だが、一つだけ確かなことがある。
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俺はさっきまで、
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この猫を認識できていなかった。
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完全に。
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綺麗さっぱり。
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存在ごと。
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「……なんだこれ」
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呟く。
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自分でも分かるくらい、混乱している。
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綾瀬は、あっさり答えた。
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「フィルター」
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短い。
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相変わらず短い。
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だが今回は。
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致命的に説明不足である。
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「いや意味分かんないけど」
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当然のツッコミ。
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しかし。
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綾瀬は少しだけ考えて。
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そして。
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「……動物、苦手でしょ」
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言った。
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静かに。
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「え」
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止まる。
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思考が。
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「小さい頃、噛まれてた」
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続ける。
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記憶が、蘇る。
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確かに。
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あった。
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そんなことが。
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昔。
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かなり昔。
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「だから、見えなくしてた」
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——。
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……いや。
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待て。
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待て待て待て。
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おかしい。
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色々とおかしい。
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「なんでそんなことできるんだよ」
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至極まっとうな疑問である。
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「……なんとなく」
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終わった。
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説明が終わった。
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雑すぎる。
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だが。
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ここで重要なのはそこではない。
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問題は。
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俺が今まで“存在するものを認識できていなかった”という事実である。
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つまり。
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幽霊でもなんでもなかった。
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普通に。
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ただの。
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猫だった。
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しかも。
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めちゃくちゃ人懐っこい。
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今も。
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俺の足元に来て。
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すり寄ってきている。
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普通に。
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めちゃくちゃ普通に。
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「……かわいいな」
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思わず呟く。
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本音である。
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完全に。
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その瞬間。
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綾瀬が、ほんの少しだけ目を細めた。
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嬉しそうに。
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分かりにくいが。
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確実に。
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「……でしょ」
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短く言う。
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それだけ。
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それだけなのに。
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さっきまでの恐怖が、全部どうでもよくなるくらいには。
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破壊力があった。
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そして。
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ここで一つ、問題が発生する。
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「……これ、戻るのか?」
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恐る恐る聞く。
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視界の話だ。
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猫が見える状態。
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これが続くのかどうか。
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綾瀬は少し考えて。
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「……たぶん」
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曖昧である。
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非常に曖昧である。
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だが。
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まあいい。
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もういい。
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ここまで来たら。
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どうでもいい。
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猫は可愛いし。
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犬もいるし。
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そして。
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綾瀬は、隣にいる。
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いつも通り無表情で。
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でも。
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少しだけ距離が近い。
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気がする。
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たぶん。
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そして。
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俺は思う。
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結局のところ。
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見えていなかったのは。
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猫じゃない。
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“何か”でもない。
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きっと。
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俺の方だったんだろうな、と。
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……いやまあ。
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普通にフィルターのせいなんだけど。
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そこはそれでいい。
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雰囲気である。
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大事なのは雰囲気だ。
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たぶん。
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そんなわけで。
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これは恋愛の話である。
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たぶん。
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かなり怪しいけど。
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少なくとも。
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俺はもう。
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綾瀬と、
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この猫と、
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たまに来る犬と、
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関わらずにはいられない。
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そんな気がしている。
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理由は分からない。
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でも。
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まあ。
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悪くない。
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たぶん。




