見えない何かと、見えている勘違い
人間というのは、不思議なものである。
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一度「違和感」に気づいてしまうと、
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それ以降、すべてが“そう見えてしまう”。
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例えば。
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昨日の出来事。
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綾瀬が、何もない空間に向かって優しく話しかけていた件。
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あれを見てしまった俺は。
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今日という一日を、完全に台無しにされている。
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精神的な意味で。
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まず朝。
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教室に入る。
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綾瀬はいつも通り、窓際にいる。
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問題はここからだ。
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視線が気になる。
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何がって?
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綾瀬の視線である。
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正確に言うと、
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“俺ではないどこか”を見ている視線である。
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これが非常に気になる。
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気になるが、聞けない。
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聞いたら終わる気がするからだ。
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主に俺の社会的な立ち位置が。
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「おはよ」
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一応、声をかける。
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「……おはよう」
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返ってきた。
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珍しい。
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いや、珍しすぎる。
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挨拶が返ってくるというのは、それだけで事件である。
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これはもう、
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ニュースにしてもいいレベルだ。
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ただし誰も興味を持たない。
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悲しい現実である。
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「今日、機嫌いいな」
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軽く言ってみる。
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「普通」
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即答。
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知ってた。
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だが。
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問題はそこじゃない。
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その瞬間。
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綾瀬が、ほんの少しだけ——
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視線を俺の横にずらした。
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俺の横。
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つまり。
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何もない空間。
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いや、正確には。
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“俺には何も見えていない空間”である。
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ここで一つ、仮説を立てよう。
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綾瀬は、
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何かが見えている。
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そしてそれは。
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おそらく。
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俺には見えない。
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ここまではいい。
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問題は次だ。
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その“何か”は、
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果たして安全なのか?
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ということである。
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この時点で俺は、
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かなり余計な心配をしている。
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だが、それに気づくのはもう少し後の話だ。
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その時。
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「ねえ」
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綾瀬が言った。
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「今日、放課後」
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俺を見る。
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いや、正確には。
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俺と、その横を見ている。
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「時間ある?」
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これは。
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事件である。
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先ほどの挨拶どころではない。
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緊急速報レベルである。
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「……あるけど」
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返事が一瞬遅れたのは仕方ない。
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人間、想定外の事態には弱い。
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「じゃあ、一緒に来て」
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短い。
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相変わらず短い。
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だが内容は濃い。
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非常に濃い。
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要約すると。
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放課後デート(仮)である。
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括弧が重要だ。
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なぜなら確定ではないからだ。
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というか、たぶん違う。
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だが。
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俺の脳は、都合よく解釈するようにできている。
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人間だから仕方ない。
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「どこ行くんだ?」
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一応聞く。
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「いつものとこ」
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知らない。
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全く知らない。
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“いつもの”という単語を、ここまで信用できないと思ったのは初めてである。
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「……分かった」
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とりあえず了承する。
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断る理由もないし、
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何より。
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気になるからだ。
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非常に。
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この時点で俺は、
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完全に罠にかかっている。
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誰の罠かは分からない。
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だが、確実に何かに引き寄せられている。
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そして放課後。
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俺は、綾瀬の後をついて歩いていた。
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無言で。
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ひたすら無言で。
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気まずいとかそういう問題ではない。
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これはもう、
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仕様である。
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やがて辿り着いたのは。
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昨日と同じ、公園。
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人はいない。
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静かだ。
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そして。
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綾瀬は、ベンチの前で止まる。
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昨日と同じ場所。
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同じ位置。
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嫌な予感しかしない。
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むしろ良い予感が一つもない。
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「……来たよ」
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綾瀬が言う。
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誰に?
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という疑問は、もはや野暮である。
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答えは決まっている。
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“何か”に、だ。
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そして。
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綾瀬は、俺を見る。
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いや。
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俺“と、その横”を見る。
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「この人」
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短く言う。
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紹介している。
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誰に?
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考えるな。
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考えたら負けだ。
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「……いい人だから」
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フォローされた。
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誰に対して?
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知らない。
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だが。
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評価されているのは確かである。
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これは喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか。
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判断に困る。
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その時。
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風が吹いた。
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強くはない。
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でも。
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確かに。
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“何かが動いた”気がした。
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もちろん。
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見えない。
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何も。
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だが。
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綾瀬の表情が、変わる。
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柔らかく。
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優しく。
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まるで——
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大切な存在を見るように。
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そして。
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次の瞬間。
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綾瀬が言った。
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「……触ってもいいよ」
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誰に?
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もういい。
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分かっている。
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俺には見えない何かに、だ。
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そして。
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その“何か”は。
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こちらに近づいてきている気がした。
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非常にまずい。
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直感がそう言っている。
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だが。
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逃げるわけにはいかない。
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なぜなら。
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ここで逃げたら、
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一生気になるからだ。
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人間は、未知よりも後悔の方が怖い。
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たぶん。
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「……あのさ」
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俺は言う。
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覚悟を決めて。
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「それ、何なんだ?」
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聞いてしまった。
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ついに。
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やってはいけない質問を。
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綾瀬が、こちらを見る。
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少しだけ、驚いた顔。
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それから。
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いつも通りの無表情に戻る。
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そして。
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「……見えないの?」
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静かに言った。
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この瞬間。
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俺は確信する。
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これは。
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想像以上に面倒な話に巻き込まれている。
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そして同時に——
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とんでもない勘違いをしている可能性にも、まだ気づいていない。




