第57話 ざわつき
女性陣の声が、ようやく落ち着きを取り戻す。
それでもなお、病室の空気は興奮に満ちていた。
「いやいやいや」
旭がベッドの縁に身を乗り出す。
目をきらきらと輝かせ、今にも身を乗り出しすぎて転げ落ちそうな勢いだ。
「相手はあのエリューシア先輩ですよ!?」
その言葉には、純粋な驚きと、どこか感動すら混じっている。
「確かにね……」
リトリも頬に指を当て、しみじみと頷いた。
「シアちゃんが自分から誰かを誘うなんて、私もほとんど見たことないかも」
「そんなに珍しいことなのか?」
終司が首を傾げる。
すると、隣のベッドから呆れたような声が飛んできた。
「珍しいなんてもんじゃねぇよ」
ラルスが腕を組み、半眼でこちらを見ている。
まだ身体を起こすのも辛そうだというのに、こういう話になると妙に口が回る。
「学院中の男子が聞いたら卒倒するぞ」
「ラルス先輩、それ経験談ですかー?」
旭がにやりと笑う。
「俺はそういう浮ついた話に興味はねぇ」
「はいはい、負け惜しみ負け惜しみ」
「だから、何に負けたってんだ!」
すかさず噛みつくラルスに、病室の空気が和らぐ。
夕緋がくすりと微笑んだ。
「会長は誰に対しても誠実ですが、とても線引きのはっきりした方ですからね」
「そうそう」
リトリも頷く。
「優しいけど、必要以上に誰かに踏み込むことはほとんどないんだよ」
「つまり」
旭が勢いよく手を挙げる。
「先輩は特別ってことです」
「そういうことになるよねぇ」
リトリも楽しそうに笑う。
ラルスは鼻を鳴らした。
「……少なくとも、社交辞令で誘うような相手じゃねぇな」
「しかも後夜祭ですからねー」
旭が意味ありげに頷く。
「これはかなりポイント高いですよ?」
終司は額を押さえた。
「……大げさだな」
「あ、もしかして」
夕緋が手をぽんと合わせる。
「終司さんと会長は、以前からお知り合いだったりするのでは?」
その言葉に、終司の動きが一瞬止まった。
「そういえば!」
旭の目がさらに輝く。
「前にそんな話、してましたよねー?」
「……昔、少しな」
終司がそう答えると、ラルスがじろりと睨む。
「少し、で済むような感じじゃ無さそうだぞ」
「お前まで乗るのか」
「いや、だってよ」
ラルスは肩をすくめる。
「あの能面女、お前を見るときだけ明らかに態度違うだろ」
「ラルス先輩、よく見てますねー」
「てめぇはいちいちうるせぇんだよ」
リトリがくすりと笑う。
「私は何も言わないでおくね?」
終司はちらりとリトリを見る。
リトリは、事情を知っているからこその優しい笑みを浮かべていた。
踏み込みすぎず、けれど黙って見守っている。
その距離感がありがたかった。
「でもでも!」
旭はそんな空気もお構いなしに身を乗り出す。
「エリューシア先輩って、過去の記憶を失ってるんですよね?」
終司は黙って頷く。
「じゃあ、もしかして――」
旭はぱっと表情を明るくした。
「終司先輩と再会して、記憶が戻ったのかもしれませんよねー!」
無邪気な言葉だった。
何の悪意もない。
ただ、そうなったら素敵だと思っただけなのだろう。
けれど。
その瞬間、終司の表情がわずかに強張った。
「それはない」
低く、はっきりとした声だった。
病室の空気が一瞬で静まり返る。
旭の笑顔が止まる。
「え……?」
「そんな都合のいい話はない」
終司は視線を逸らしたまま続ける。
「無理なんだよ。絶対にな」
その声音には、思いのほか強い感情が滲んでいた。
諦め。
拒絶。
旭が肩をすくめる。
「あ……ご、ごめんなさい」
ラルスも口を挟まない。
夕緋も、静かに終司を見つめている。
リトリだけが、何も言わずにそっと目を伏せた。
終司はそこでようやく、自分の口調に気づいたように目を閉じる。
小さく息を吐いた。
「……いや、悪い」
額に手を当てる。
「旭に言うことじゃなかった」
「先輩……」
「旭は何も悪くない。ただ――」
言いかけて、終司は言葉を切る。
これ以上続ければ、余計なものまで口にしてしまいそうだった。
数秒の沈黙。
終司は壁から身体を離した。
「少し外の空気を吸ってくる」
旭が不安そうに見上げる。
終司は扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返った。
「気にしなくていい。本当に、旭は何も悪くないからな」
それだけ告げて、病室を後にする。
静かに扉が閉まった。
廊下に出ると、学術祭の準備のざわめきが遠くから聞こえてくる。
楽しげな声。
慌ただしい足音。
笑い声。
学院全体が祭りの熱気に包まれていた。
その中で、終司はひとり立ち止まる。
「……まったく」
自嘲気味に呟く。
旭に悪気などなかった。
そんなことは最初から分かっている。
むしろ、あいつらしい純粋な発想だった。
それでも。
記憶が戻ったかもしれない。
その言葉に、一瞬だけ心が揺れた。
あり得ないと分かっているのに。
だからこそ、あそこまで強く否定してしまった。
「……大人げないな」
小さく息を吐く。
窓の外では、色とりどりの飾り付けが風に揺れていた。
誰もが、学術祭を楽しみにしている。
笑って、騒いで、明日の準備に追われている。
日常は前へ進んでいく。




