表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/105

第58話 相談

 屋上へ続く扉を開けた瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。


 空は高く、雲はゆっくりと流れている。


 下からは、学術祭の準備に追われる生徒たちのざわめきが小さく聞こえてくる。


 楽しげな声。

 

 慌ただしい足音。

 

 木材を運ぶ音。


 まるでさっきまで病室で空気を凍らせてしまったことなど、最初からなかったかのような平和な光景だった。


「……はぁ」


 終司はフェンスにもたれかかり、深く息を吐く。


 旭は悪くない。


 そんなことは分かっている。


 むしろ、あの言葉は純粋な善意から出たものだ。


 ――記憶が戻るかもしれない。


 誰だって、そう願いたくなる。


 だが。


「そんな都合のいい話があるなら……」


 とっくに。


 ずっと昔に。


 願いは叶っていたはずだ。


 そのとき、端末が震えた。


 画面に表示された名前を見て、終司は小さく笑う。


「……ほんと、タイミング良いよな」


 通話ボタンを押す。


「もしもし」


『お疲れ様です。兄さん』


 聞き慣れた少女の声。


 冴鳴の落ち着いた声音に、自然と肩の力が抜ける。


『何かあったみたいですね?』


「……何でもお見通しだな」


『当たり前です。何年の付き合いだと思ってるんですか』


 冴鳴の声には、かすかな笑みが混じっていた。


 終司は苦笑する。


 行動は、常に端末を通して確認されているとはいえ、声をかけてくるタイミングは毎回絶妙だ。


「心配されるようなことじゃないぞ」


『兄さん、ほんとそういうところありますよね』


 少しの沈黙。


 屋上を吹き抜ける風の音だけが耳に残る。


『……エリューさんのことですよね』


 冴鳴の問いに、終司は素直に頷いた。


「ああ」


 短い返答。


 それで十分だった。


『旭さんの言葉に、昔のように期待したわけではない』


「分かってる」


『でも、期待というのは理屈とは別です』


「……そうだな」


 二人とも理解している。


 エリューシアの記憶喪失は、単なるショックによるものではない。


 あれは、正真正銘の魔力損失によって失われた記憶だ。


 失われたものは、戻らない。


 それは希望的観測で覆せる類のものではない。


 終司も。


 冴鳴も。


 その事実を、誰よりもよく知っている。


『だからこそ』


 冴鳴の声が静かに続く。


『今のエリューさんときちんと向き合うことが大事だと思います』


 終司は目を閉じる。


 脳裏に浮かぶのは、薄桃色の髪の少女。


 凛として。

 

 冷静で。

 

 完璧で。


 けれど、ときどき不器用なくらい真っ直ぐな人間。


『昔のエリューさんとは違います』


「……ああ」


『でも、だからといって今のエリューさんから目を逸らす理由にはならないはずです』


 その言葉に、終司は小さく笑った。


「お前は本当に、容赦なく核心を突いてくるな」


『兄さん相手には遠慮しませんので』


 さらりと返される。


 それが冴鳴らしかった。


「……分かってる」


 フェンスに寄りかかったまま、空を見上げる。


「昔の彼女じゃない」


 同じ顔で。

 

 同じ声で。

 

 同じ名前を持っていても。


 今ここにいるエリューシア・フラウレスは、別の人生を歩んできた一人の人間だ。


 だから。


「俺が向き合うべきなのは、今の彼女だ」


『はい』


 冴鳴の声が、少しだけ柔らかくなる。


『それでいいと思います』


 しばらく、二人とも黙ったまま風の音を聞いていた。


 やがて、冴鳴がふっと笑う。


『……ところで』


「ん?」


『後夜祭の件は、どうするつもりですか?』


 終司は思わず顔をしかめた。


「そこに戻るのか」


『とても重要な問題です』


「冴鳴まで旭みたいなことを言うな」


『後夜祭にエリューさんが兄さんを誘った。何かあるということは理解していますよね?』


「……まあ、一応な」


『それで?』


 妙に真剣な声だった。


 終司は苦笑する。


「どうするも何も、普通に過ごせばいいだろ」


『それは最も失敗しやすい考え方です』


「おい」


『せっかく誘っていただいたのですから、エスコートくらいはきちんとしてください』


「いや、別にそこまで意気込む必要はないと思うが……」


『兄さんは放っておくと無自覚に好感度を上げるか、無自覚に下げるかの二択ですから』


「ひどい言われようだな」


『事実です』


 即答だった。


 終司は肩を落とす。


「で、具体的には?」


『まず、体調を整えてください。それと、身だしなみはきちんと、ですよ?』


「現実的だな」


『それから、エリューさんが楽しめるようにしてください』


「それは……そうだな」


『兄さん自身も』


 冴鳴の声が、少しだけ優しくなる。


『楽しんできてください』


 終司は言葉を失う。


 風が吹く。


 雲が流れる。


 遠くから、生徒たちの笑い声が聞こえる。


「……そうだな」


 ようやく、それだけを返した。


 過去は戻らない。


 失われたものも戻らない。


 それでも。


 今の彼女と過ごせる時間は、確かに存在している。


 ならば――


 向き合うべきなのは、過去ではなく、これからの時間だ。


『兄さん』


「ん?」


『応援しています』


 短い一言。


 だが、その言葉には妹なりの精一杯の気遣いが込められていた。


 終司は小さく笑う。


「ありがとな」


『はい。では、また連絡します』


 通話が切れる。


 静寂が戻る。


 終司は端末をしまい、ゆっくりと空を見上げた。


「……まったく」


 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「妹にこんな相談をする兄ってのも、どうなんだかな」


 けれど、不思議と気分は軽くなっていた。


 胸の奥に沈んでいた重さは、いつの間にか薄れている。


 終司はフェンスから身体を離した。


 やるべきことは決まっている。


 学術祭を楽しむこと。


 そして――


 今のエリューシアと、ちゃんと向き合うこと。


「さて」


 軽く肩を回す。


 まだ痛みは残っているが、これくらいならどうということはない。


「そろそろ戻るか」


 屋上の扉へ向かう。


 その足取りは、先ほどよりもずっと軽かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ