第52話 休息
学院長室を後にした頃には、すでに夜も深まっていた。
廊下の窓から差し込む月明かりが、白い床に細長い影を落としている。
終司は静かに歩きながら、肩を軽く回した。
「っ……」
鈍い痛みが走る。
クエトとの戦いで受けた傷は、応急処置こそ済んでいるものの、完全に癒えたわけではない。
肩口、脇腹、脚。どこもかしこも痛む。
だが、歩けないほどではない。
それなら十分だ。
「……今日は、大変でしたね」
隣を歩くエリューシアが、静かに口を開く。
「お互いにな」
終司が苦笑する。
「君だって、クエトの拘束に後始末、天井の固定まで全部やってたじゃないか」
「学生会長として当然の務めですよ」
相変わらず、さらりと言ってのける。
終司は肩をすくめた。
「本当に規格外だよ、君は」
「そういう終司さんも、十分に規格外です」
淡々とした返答。
だが、その声音にはほんのわずかに柔らかさがあった。
医療棟の前で、エリューシアは足を止める。
「夕緋さんが目覚めたら、連絡します」
「ああ、頼む」
「ゆっくり休んでください。見た目以上に消耗していますよ?」
「自覚はある」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
エリューシアが一礼し、静かに去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、終司は小さく息を吐いた。
「……ほんと、よく見てるよな」
呟いてから、自室へと向かう。
◇
部屋に戻ると、ようやく張り詰めていた緊張がほどけた。
扉を閉めた瞬間、静寂が訪れる。
「……終わった、か」
ベッドへ腰を下ろす。
身体中の痛みが一斉に主張を始めた。
やはり、思っていた以上に消耗している。
それでも――胸の内は、不思議なほど穏やかだった。
夕緋は見つかった。
旭の願いは叶った。
クエトも確保された。
依頼は、ほぼ達成したと言っていい。
だが。
「……綺麗に終わりすぎてる」
ぽつりと漏れる。
あの違和感は、まだ胸の奥に残っている。
とはいえ、今はそれ以上考えても仕方ない。
終司は端末を取り出した。
通話履歴の一番上。
迷わず発信する。
数回の呼び出し音。
すぐに、聞き慣れた声が返ってきた。
『――はい、兄さん』
その一言だけで、どこか安心する。
「起きてたか」
『もちろんですよ。連絡が来ると思ってましたし』
少しだけ誇らしげな声。
『無事に終わったみたいですね』
「おかげさまでな」
終司はベッドの背にもたれながら答える。
「夕緋さんは見つかった。まだ眠ったままだが、命に別状はない」
『そうですか……よかった』
冴鳴の声が、心底安堵したものに変わる。
『旭さんも喜んでいたでしょう?』
「ああ、大喜びだったな」
思い出す。
夕緋の手を握って泣き笑いしていた旭の姿。
そして、お姉ちゃん可愛いでしょうと満面の笑みで語っていた様子。
終司の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「見つかってよかったって、ずっと言ってた」
『ふふっ、想像できますね』
柔らかな笑い声。
『今夜はずっとお姉さんのそばでしょうね』
「ああ。病室に泊まり込むだろうな」
『旭さん、ほんとに良かった』
しばらく、穏やかな沈黙が流れる。
その後、冴鳴の声が少しだけ真剣になる。
『クエト祭司は?』
「確保したよ」
終司は簡潔に答える。
「学院側で管理するそうだ。拘束してるみたいだな」
『なるほど』
一拍。
『それなら、大丈夫そうですね』
「たぶんな」
終司は視線を天井へ向ける。
「レナルス教との交渉材料になるらしい。学術祭が終わるまでは表立っては動かないみたいだけどな」
『妥当な判断でしょう』
迷いのない声。
やはり冴鳴は状況把握が早い。
『兄さんはこれからどうするつもりです?』
その問いに、終司は少しだけ考える。
本来なら、夕緋の無事を確認した時点で学院を離れるつもりだった。
それが依頼だったからだ。
だが、学院長から提案された。
せっかくだから、学術祭が終わるまで学院に残ってはどうか、と。
「……少し、予定変更だ」
『はい』
「夕緋さんの無事を確認したら出るつもりだった」
そこで一度言葉を切る。
「でも、学術祭までは残ることにした」
すぐに返ってきたのは、明るい声だった。
『それがいいと思いますよ』
「即答だな」
『せっかく学院の中に入れたんですから、調べたい事もあるでしょう?』
思わず苦笑する。
「今回は依頼でここに来たんだぞ?」
『きっかけはそうかもしれないですけど』
優しい声。
『いろんな人と出会って、いろんなことに巻き込まれて……それでも、ちゃんと前に進んでるでしょう』
一拍置いて。
『昔の兄さんなら、きっと途中で立ち止まってましたよ』
「……そうかもな」
否定できなかった。
『だから、もう少しそこにいてもいいと思います』
その言葉は、不思議と胸に沁みた。
終司は目を閉じる。
「そうだな」
小さく頷く。
「せっかくだし、最後まで見届けるか」
『うん。それに――』
冴鳴の声が少しだけ弾む。
『きっとまた何かに巻き込まれるよ』
「それはあまり嬉しくない予言だな」
『ふふっ』
笑い声が、柔らかく響く。
『でも、今の兄さんなら大丈夫』
短い言葉。
けれど、何よりも力強い。
「ありがとな」
『どういたしまして』
穏やかな声。
『今日はもう休んでください』
「ああ。そうする」
『おやすみなさい、兄さん』
「おやすみ、冴鳴」
通話が切れる。
静寂が戻ってくる。
終司は端末を置き、そのままベッドへ横になった。
全身の疲労が、一気に押し寄せる。
瞼が重い。
意識がゆっくりと沈んでいく。
最後に浮かんだのは、旭の泣き笑いの顔と、静かに眠る夕緋の姿だった。
「……これで、ひとまず一区切りだな」
呟きは、誰にも届かない。
やがて意識は闇に溶けていく。
長い一日が、ようやく終わった。
◇
翌朝。
窓から差し込む光とともに、学院は新たな一日を迎える。
事件は終息し、生徒たちの間には再び活気が戻りつつあった。
そして――
学術祭の準備が、本格的に始まろうとしていた。




