第53話 祭りの準備
終司が目を覚ました時には、昨日までとは嘘のように、学院の空気は一変していた。
窓の外から聞こえてくるのは、剣戟の音でも、魔法の炸裂音でもない。
誰かの呼び声。
荷物を運ぶ音。
慌ただしく走り回る足音。
そして、あちこちから聞こえてくる楽しげな笑い声。
「……なんだ?」
寝起きのまま、終司はゆっくりと身を起こした。
肩や脇腹にはまだ痛みが残っているものの、動けないほどではない。
身支度を整え、寮の部屋から出て校舎の方へと歩いて行く。
「おっと」
思わず、声が漏れた。
生徒たちが慌ただしく行き交っている。
大きな板材を抱えて走る者。
布や装飾品を運ぶ者。
魔法で色とりどりの旗を浮かべている者。
何やら模擬店の試作品らしきものを抱えている者までいる。
「そこの柱、午後までに装飾お願いしまーす!」
「展示用の魔導具は第三演習場へ!」
「出店の申請書、まだ出してない班は急いでください!」
学院中が、一夜にして祭りの準備会場へと変貌していた。
終司はしばらくその光景を眺めたまま、ぽかんと立ち尽くす。
「……昨日までとは別の場所みたいだな」
これまでの学院の印象といえば、鍛錬、実習、研究。
生徒たちは常に何かしらの訓練に励み、魔法の研鑽に時間を費やしていた。
そんな連中が今や、木材を抱えて走り回り、飾り付けに頭を悩ませ、屋台の準備をしている。
そのギャップに、思わず苦笑した。
「ちゃんと学生してるじゃないか……」
呟いたところで、向かいの廊下から見覚えのある声が飛んできた。
「終司さん、おはようございます」
振り向く。
そこにいたのは、書類の束を抱えたエリューシアだった。
その周囲には数名の生徒が控え、指示を待っている。
「中央広場の設営は予定通り進めてください。魔力供給の確認は午後までに完了を。何か問題があれば、すぐ報告をお願いします」
「はい!」
生徒たちは慌ただしく走っていく。
それを見届けてから、エリューシアは改めて終司へ向き直った。
「体調はいかがですか?」
「この通り、問題ない」
「無理はしないでくださいね」
口調はいつも通り淡々としている。
だが、その視線には確かな気遣いがあった。
終司は周囲を見渡す。
「すごいな。昨日までと空気がまるで違う」
「学術祭の準備期間ですから」
エリューシアはさらりと答える。
「普段は研究と鍛錬ばかりの生徒たちも、この時ばかりは全力です」
「なるほど。文化祭みたいなものか」
「ええ。学院最大の行事のひとつです」
一拍置いて、エリューシアの口元がほんの少しだけ和らぐ。
「みなさん、この期間は少し浮かれ気味ですから」
「少しどころじゃない気もするが」
廊下の向こうでは、巨大な看板を持った生徒たちがわいわいと騒ぎながら走っていく。
どこからともなく甘い匂いまで漂ってきた。
終司は思わず笑った。
「……悪くないな」
「そう言っていただけると嬉しいです」
エリューシアは胸の書類を抱え直す。
「夕緋さんの様子を見に行かれるのですよね?」
「ああ」
「容体は安定しています。旭さんも、あれからずっと付き添っていますよ」
それを聞いて、終司の表情が少し和らぐ。
「そうか」
「目覚めるのも時間の問題かと」
終司は頷いた。
「ありがとな」
「いえ」
エリューシアはいつものように簡潔に答える。
だが、その後で少しだけ首を傾げた。
「それと――」
「ん?」
「学術祭も楽しんでくださいね?」
ほんのわずかに、言い淀む。
「……せっかくの機会ですから」
終司は目を瞬かせた後、ふっと笑った。
「学生会長直々のおすすめなら、そうさせてもらうよ」
「ぜひ」
短い返答。
それでも、彼女の表情はどこか柔らかかった。
すぐに背後から声が飛ぶ。
「会長! ステージ設営の件でお話しが!」
「今行きます」
エリューシアは再び学生会長の顔に戻る。
「では、失礼します」
「忙しそうだな?」
「毎年のことですよ」
そう言って踵を返す。
数歩進んだところで、ふと立ち止まり――
「終司さん」
「ん?」
「宜しければ、今日の前夜祭ご一緒しましょう」
それだけ告げると、エリューシアは足早に去っていった。
書類を抱えながら次々と指示を飛ばすその背中は、実に頼もしい。
終司はその後ろ姿をしばらく見送る。
「……今のは、誘われたでいいんだよな?」
感心半分、呆れ半分。
だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
学院全体を包む賑やかな空気。
行き交う生徒たちの明るい表情。
昨日までの緊張感が、まるで別世界のようだ。
その喧騒の中で、終司は静かに歩き出す。
向かう先は、医療棟。
旭と、夕緋が居る場所だ。




