第28話 二日目の夜
食堂を出る頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
西の空は橙から紫へとゆっくりと色を変え、学院の建物群を長い影が覆っている。窓から漏れていた光も一つ、また一つと灯り始め、昼とは違う顔を見せていた。
昼間の喧騒はすでに落ち着き、行き交う生徒の数もまばらだ。どこか疲労の色を残した表情で、寮へと戻っていく者も多い。
その中を、三人は並んで歩いていた。
「では、また明日ですねー」
旭が軽く手を振る。いつも通りの調子だが、その声にはほんの少しだけ安堵が混じっていた。
「ああ」
終司は短く返す。
隣ではエリューシアが足を止め、静かに一礼した。
「私もこれで」
無駄のない動作。だがその視線は一瞬だけ終司へと向けられる。
「クエト先生が学院に戻り次第、すぐ連絡しますね」
「助かる」
それだけで十分だった。
三人はそこで別れ、それぞれの寮へと向かっていく。
背を向け、歩き出す。
夕暮れの中に溶けていく背中を一瞬だけ見送り、終司もまた視線を前へ戻した。
寄り道はしない。
そのまま寮へと戻り、階段を上がり、自室の前へ。
扉を開ける。
簡素な机とベッド。必要最低限の家具だけが並ぶ空間は、妙に落ち着く。
窓の外では、空が完全に夜へと移り変わりつつあった。
ふっと息を吐き、椅子に腰を下ろす。
背もたれに体重を預けると、じわりと一日の疲れが浮かび上がってくる。
「……さて」
小さく呟き、端末を手に取る。
慣れた操作で通話を繋ぐ。
呼び出し音が数回鳴った後――
『――はい、兄さん』
すぐに応答があった。
落ち着いた声。
冴鳴だった。
「今、大丈夫か?」
『ええ、問題ありません』
間髪入れない返答。
無駄のない声音に、思わず口元が緩む。
『今日の報告ですか?』
「ああ、頼む」
椅子に深く座り直しながら答える。
「それなりに面倒なこともあってね」
『でしょうね』
即答だった。
『兄さんはそういう運の悪さだけは一級品ですから』
「褒めてるのか?」
『事実を述べているだけです』
淡々とした口調。
だが、その奥にかすかな愉快さが滲んでいる。
「まあいい」
肩をすくめる。
「で、今日の話だけど――」
そこからは手短に。
聖堂での出来事。
リトリとの再会。
クエトの説明。
そしてラルスとのやり取り。
順を追って、要点だけを拾い上げていく。
冴鳴は一切口を挟まない。
ただ静かに聞いている。
その沈黙は、思考している証でもあった。
やがて。
『……なるほど』
短く呟く。
『とても濃い一日を過ごされたみたいで』
「だろ?」
軽く息を吐く。
「で、どう見る?」
わずかな間。
思考の時間。
『私も兄さんと大体同じ考えになると思いますけど』
落ち着いた声で続ける。
『今回の夕緋さんの失踪は、おそらく事件の一部でしょう』
「ああ」
『生徒の体調不良も、無関係ではないはずです』
「だろうな」
頷きながら、窓の外へ視線を向ける。
夜の帳が完全に下りていた。
『ただ』
冴鳴が続ける。
『私たちは失踪と呼んではいますが、生徒はどこかで休んでいるだけの可能性もありますよね』
「そうだな。実際夕緋さんも、最初の一週間はリトリのところで休んでいたんだし」
『この学院にリトリさんがいる以上、本来であれば体調不良は彼女の元に集まるはずですが』
「体調が悪くなれば医者を頼る」
指で机を軽く叩く。
「本来はそれが当たり前だが……」
『ええ』
短く同意。
そして。
『それにしても』
わずかに声音が変わる。
『リトリさんのこと、本当に信頼しているようで』
「あいつは名医だよ」
即答だった。
「冴鳴だって分かってるだろ?」
『兄さんの愛人さんだからでは?』
「それはあいつの――」
言いかけて、止まる。
視線が扉へ向いた。
――気配。
「……誰か来た」
『この部屋に、ですか?』
「ああ」
通話を繋いだまま立ち上がる。
数歩で扉の前へ。
コン、と控えめなノックが響いた。
「誰だ?」
そう告げて、扉を開く。
そこに立っていたのは――
「……リトリ?」
「来ちゃった」
白衣の少女が、軽く手を上げる。
いつもの軽い調子。
だが、その瞳の奥にははっきりとした意志があった。
「少し時間を貰えたら、なんて」
柔らかな声。
だが、用件があるのは明らかだった。
終司は一瞬だけ、端末の向こうを思い出す。
「悪い、来客だ。また連絡する」
『了解です』
即座に返答。
そして、わずかに間を置いて。
『二人きりだからって、変なことしないでくださいね?』
「誰がするか」
短く返すより早く、通話は切れた。
静寂。
廊下の空気が、わずかに流れ込む。
改めて、リトリへと向き直る。
「よし、大丈夫だ。それで、要件は?」
「んー……」
少しだけ視線を泳がせる。
ほんの一瞬、言葉を選ぶような仕草。
そして。
「夜這い、かな?」
さらっと言った。
部屋の中を覗き込む。
「入ってもいい?」
「そう言われて入れるわけないだろ、閉めるぞ」
「あ、ひどいなぁ」
くすっと笑う。
「女の子からの夜這いで外にしめ出すなんて普通しないよ?」
「普通の女の子は夜這いなんてしないんだよ」
ため息混じりに返す。
「ふざけてるなら――」
「ごめんごめん、私が悪かったね」
すぐに手を上げる。
軽い降参の仕草。
「真面目にするから、中に入れて?」
「最初からそう言ってくれ」
呆れたように言いながら、扉を大きく開ける。
「全く……」
リトリが部屋へと足を踏み入れる。
その瞬間、空気がわずかに変わった気がした。
軽さの奥に、確かな何かを抱えた気配。
扉が静かに閉まる。
夜は、まだ終わらない。




