第29話 検診
扉を閉めると、外のざわめきがすっと遠のいた。
夜の静けさが、ゆっくりと部屋の中に落ちてくる。
「で?」
終司は壁に軽く背を預けたまま、腕を組む。
「夜這いなんてくだらないことを言いに来たわけじゃないんだろ?」
「ひどいなぁ」
リトリは肩をすくめて笑いながら、靴を脱いで部屋に上がる。
遠慮のない足取り。けれど、その動きには妙な馴染みがあった。
「もしかして、誰かと話してた?」
何気ない調子で視線を向けてくる。
その目だけが、ほんの少しだけ探るように細められていた。
「ああ、冴鳴と少しな」
「あ、冴鳴ちゃん?」
ぱっと表情が明るくなる。
「元気にしてる?」
「相変わらずだよ」
短く答えると、リトリは嬉しそうに小さく頷いた。
「そっかぁ」
どこか安心したような声。
「私もまたお話したいな。冴鳴ちゃん、しっかりしてるし」
「……どうだろうな」
終司はわずかに肩をすくめる。
「あいつ、身内にはわりと遠慮ないから」
「あれは身内っていうより、終司くんにだけって感じだけど」
くすり、と柔らかく笑う。
その笑いが、ほんの一瞬だけ部屋の空気を緩めた。
「で?」
終司が短く切り替える。
「そろそろ用事を教えてくれ」
「んー……」
リトリは少しだけ視線を泳がせる。
「とりあえず、脱いで」
「は?」
間の抜けた声が出る。
「身体、診るって言ったでしょ?」
あっさりとした返答。
「昼間約束したよ? ちゃんと診るって」
「……そういえば、言ってたな」
記憶を辿る。
確かに、そんな話はあった。
「ラルスくんとも一戦交えたし、ちょうどいいでしょ?」
軽い口調。
けれど、その目はまったく軽くない。
医者のそれだった。
「ほら、上だけでいいから」
「……分かったよ」
小さく息を吐き、上着を脱ぐ。
布が擦れる音が、やけに大きく感じる。
続けてシャツも脱ぎ捨てると、夜の空気が肌に触れた。
リトリが一歩近づく。
視線が、自然とその身体へ落ちた。
「……相変わらず、無茶な使い方してるね」
ぽつりと零す。
「そんなことないだろ」
「そんなことあるの」
即答。
間髪入れずだった。
指先が触れる。
肩、腕、脇腹――
確かめるように、丁寧に。
押し込むたびに、筋肉の反応を読み取っていく。
「痛みは?」
「ない」
「違和感」
「特に」
「……ふーん」
短く相槌を打ちながら、リトリはそのまま背後へ回る。
視界から消える。
次の瞬間、背に指が触れた。
背筋をなぞるように、ゆっくりと。
呼吸に合わせて、わずかに力を込めていく。
「……ここ」
「……問題ない」
「はい、嘘。ちょっと痛いくせに」
声が一段低くなる。
責めるような、それでいてどこか諭すような響き。
「前にそうやって誤魔化して、後から面倒なことになってたでしょ」
沈黙。
否定もしない。
その反応を見て、リトリは小さく息を吐いた。
「ほんと、変わらないなぁ」
呆れたように。
けれど、どこか安心したように。
最後にもう一度だけ全体を確かめてから、手を離す。
体温が、ふっと遠ざかった。
「……うん、とりあえず大きな異常はなし。薬も必要は無さそうかな」
「当たり前だろ」
「ただし」
ぴっと指を立てる。
視線が真っ直ぐ刺さる。
「あんまり無茶し過ぎないこと」
「といっても、仕事だからな」
「今日はちゃんと休むことだよ」
「検討しておく」
「ちゃんと休むって言って」
軽く睨む。
逃がさない視線。
終司はわずかに肩をすくめた。
「……分かった。ちゃんと休む」
「よろしい」
満足げに頷く。
その仕草だけ、少しだけ柔らかい。
「……そのモードのリトリには敵わないな」
「私、ベッドの上ではよわよわだよ?」
「そのネタはもういい」
「はぁい」
軽く流してから――
「それでね」
空気が、ほんのわずかに変わる。
雑談から、本題へ。
「学院長にきちんと話してきたよ」
「夕緋さんのことか」
「うん」
静かに頷く。
「あの子の症状も、経過も、消えたことも全部。頼まれてたとは言え、知ってて黙ってたからね」
「何か言われたか?」
「ううん。保険医としてのリトリくんを信用してるし、学生の自主性を重んじるって。だから、黙ってたことのお咎めは無し」
「そうか」
短く息を吐く。
「それから、財前くんたちのことなんだけど」
リトリは少しだけ視線を落とした。
「意識が戻り次第、退学って形になると思う」
「魔法を失ったから、か」
こくり、と頷く。
「この学院って、ほとんど強制で皆入れられたようなものだけど、不思議なことに自分から辞めたいって言う生徒はいなかったんだよね」
「それは、何故だ?」
「魔法を手放すなんて真似、誰も出来なかったから」
静かな声だった。
「そうすれば外に出られるって分かってても、ね」
少し遠くを見る。
過去をなぞるように。
「第二世代が出る前は、魔法使いって差別されてたけど……本当は、ただ羨ましかっただけなんだと思う」
「その証拠に、誰も捨てなかった……か」
「うん」
小さく頷く。
「だから、ある意味あの二人は凄いことをしたのかもしれない」
「リトリとしては、どう思ってるんだ?」
問いかけに、彼女は迷わなかった。
「医者としてなら、迷わず肯定するよ。命が助かるなら、それが正しい」
一拍。
そして、少しだけ視線を揺らす。
「でもね……個人としては、他に方法がなかったのかなって思っちゃう」
「リトリは優しいんだな」
「ううん……私のは、ただのエゴ」
小さく笑う。
けれど、その言葉にはちゃんと重みがあった。
「あ、それでね」
視線が戻る。
「学院長が言ってた。終司くんとも話がしたいって」
「俺と?」
「うん。当事者として、どう感じたか聞きたいんだって」
「……当然だな」
「だからさ」
少しだけ柔らかくなる声。
「明日の朝、一緒に行こ?」
「リトリも来るのか?」
「当然でしょ」
即答。
「私が話を通したんだから、最後まで付き合うよ」
責任か、意思か。
きっと両方だ。
「……分かった」
短く頷く。
「朝一でいいのか?」
「うん。そう言われてる」
そこで、ふっと空気が緩む。
「それじゃ、話はおしまい」
リトリは軽く伸びをする。
「あ、旭ちゃんにはもうメールしてあるから大丈夫だよ?」
「それなら俺にもメールで良かったんじゃないか?」
「直接会って伝えたかったの。分かってるくせに」
くるりと背を向ける。
そのまま扉へ。
けれど――
直前で、足が止まる。
「……ね、終司くん」
「なんだ」
「……学院でシアちゃんと再会して、どうだった?」
振り返らないままの問い。
少しだけ、間を置いて。
「驚いたよ。死んだと思ってたしな」
静かに答える。
「記憶、戻せないの?」
「ああ、無理だ」
「そっか」
一言だけ。
「今の彼女は新しい人生を生きている」
視線が、わずかに落ちる。
「俺はそれでいいと思ってる」
静かな結論。
それを聞いて――
「……終司くん、えっちでもする?」
「何でそうなる!?」
即座に返す。
空気が一気に崩れた。
「元気、出るかなぁって」
「……リトリ、そろそろ怒るぞ?」
「本気だったんだけどなぁ」
くすり、と笑う。
「したくなったらいつでも呼んでね?」
リトリは軽く手を振って、部屋を後にする。
部屋に残ったのは、夜の静けさだった。




