第百十七話 大王の娘
ダーハド軍の退却を阻止すべく、フランス軍の各部隊は分散した。
ボナパルトとクルーミルはボン将軍の師団、そしてアンブローツィ傭兵団の合計七千人の兵力と共に、交通の要路である大王橋の北岸に陣取っていた。
「大王橋」
ボナパルトは眼前に現れた巨大な構造物を見て、感嘆のこもった声を発した。
一つの文明を育む巨大な大河に架けられたその橋は、全長約500メートルに達し幅は16メートルにもなろうとしている。10年以上の歳月をかけて、大王の治世の半ば頃から建築されたその橋は親しみを込めて「大王の愛娘」と呼ばれもしていた。
大河に橋を架ける技術、膨大な石材を運び込み、職人を働かせる富と組織力。そして何より、指導者のゆるぎない意志。
クルーミルの父であるグルバス王が建設させた大街道は彼のゆるぎない強固な意志の結晶であるようにボナパルトには見える。まさに、大王と呼ばれるに相応しい人物であったろう。
過去の偉人に対して一瞬だけ思いをはせたボナパルトが口にしたのは、別の事だった。
「ここで敵を待ち受ける。……あの村を接収するわ」
ボナパルトが指差したのは、橋を一望できるなだらかな丘に築かれた村だった。
「村の者には使いを出しています。寝る場所と食べ物を用意するようにしているはずですが」
「いや。村を陣地にする。住民は邪魔だから追い出すわ。家屋も破壊して防御陣地を作る」
ボナパルトの言葉にクルーミルは顔を強張らせた。
「なに?村は良い防御拠点になるわ。物資もあるし、家屋は簡単な防壁になる。騎兵の動きも妨害できるし……そもそも村それ自体が簡単な防御拠点として作られているのだから利用しやすい」
「私が言いたいのは」
「敵は橋の出口で叩きのめすとして、突破を許した時のことも考えておかないといけないのよ。私は。利用できるものはなんでも利用する。勝つためならなんでもやれる。貴女がどう思おうと、なんと言おうと。もしかしたら敵は敗走していて、防御陣地は要らないかもしれない。この村を破壊することは不要かもしれない。でも、必要かもしれない。少しでも必要なら私は容赦なくそれをする」
クルーミルは握った手をじっと見た。
◆
大王橋の近くの村は「船渡の村」と言った。大王橋が完成するまで、この村は大河を渡る人々を渡し舟で運ぶことで生計を立てていた。橋が完成してからというもの、渡し舟の数は激減したが、交通の要路として通行税の一部や、旅行客などを泊める宿場村としてそれなりの繁栄を謳歌している。
村の入り口では村長らが正装をしてクルーミルを出迎えた。
「偉大なる女王陛下にモルンクトが拝謁致します。ささやかながら昼食の支度を整えさせていただいております。どうぞこの村で長旅の疲れをお癒しください」
恭しく頭を垂れる村長は顔に皺の深い老人だった。彼らはクルーミルを必ずしも歓迎しているようではなかったが、圧倒的な武力を持った相手に下手に逆らうことの無謀さをよく心得ていた。彼らとしては、精一杯に愛想を良くして無秩序な略奪や破壊から自分たちを守らねばならなかった。
そのためなら、ある程度の軍税の負担や物資の供出は必要経費として割り切る用意も出来ている。
「心を尽くした歓迎を嬉しく思います村長」
歓迎の花束を受け取ったクルーミルは一瞬、胸の内から湧き上がる衝動を飲み干して言葉を継いだ。
「王の命令として言います。この村はこれよりわが軍の拠点にします。二刻の時を与えますので、住民は退去しなさい。家財の持ち出しはこれを認めます」
その無形の鉄槌に村長は頭を殴りつけられたようだった。
「なんとおっしゃいましたか、女王陛下」
「住民を全て退去させてください村長。村を再建する費用は後日、補償しましょう」
「村を戦場にする、と仰るのですか?」
「その通りです」
村長は愕然として周囲を見渡した。村の者たちは誰もが衝撃から立ち直れていないようだった。
「し、しかし……」
なお反駁を試みる村長に今度はボナパルトが言い放つ。
「直ちに退去したまえ。我々が言葉を使っている間に」
ボナパルトが右手を挙げると、銃剣の鋭い切っ先を揃えたフランス兵が住民に迫った。
村長は従うほかに無かった。
◆
村がハチの巣を突いたような騒ぎに包まれる。家財を持ち出す住民たちがたてる悲哀の合唱が先ほどまでの平穏を打ち砕き、路上には家財道具を積み込んだ荷馬車や牛車が溢れかえった。中には羊に荷車を引かせようと四苦八苦する者もいる。
自分の家を去ることを惜しんだある男は家の窓ガラスからドアの金具まで持ち出そうと必死になり、またある母親は泣き叫ぶ我が子を必死にあやしながら村のはずれのほうへ長い流浪の列に加わった。
そうこうしている間にもフランス兵たちは村の中に入り込み、手近な家を防御陣地を作るための材料として解体し始める。けたたましい音が響くたびに、あちらこちらから悲鳴が上がり、村は戦場も同然の有様になり果てていた。
「女王陛下、慈悲深き女王陛下。どうかおやめください。私の家を壊さないでください」
馬上から作業を見守るクルーミルに一人の老婆が取りすがって哀願する。
「女王陛下、どうかやめさせてください」
「御気の毒ですが、私にはどうしてもこの村が必要なのです。十分な補償をお約束します。戦いが終わった後、あなたが家を建て直せるだけのお金を……」
「お金は要りません。どうか家を壊さないでください。亡き夫が建てた私の家を壊さないでください。あの家は私たちの子どもも同然なのです。女王陛下」
必死に頼み込む老婆に対して、クルーミルはかける言葉を見つけ出せなかった。
老婆の家は、村に設置する大砲の射線を確保するためにフランス兵によって叩き壊される最中にあった。
「……」
老婆の哀願の言葉は、次第に怒りへと転じた。声高にクルーミルを詰る。
「破壊をもたらす主に災いあれ! 戦争をもたらす女王に呪いあれ! 精霊よ、かの者を罰した給え!」
「この痴れ者が!」
女王への呪詛を看過し得ないのが、護衛のノルケトである。老婆を取り押さえて主への不敬を償わせようと剣を抜いた。
「今更剣など恐れるものか。殺したければ殺せ。戦争をもたらす女王に呪いあれ!死と破壊をもたらす女王は自らの血で溺れるがよい!」
地面に押し付けられながら老婆は怒りに満ちた声を吐き出す。その声は老婆一人のものではなかった。この村の全ての人間の心の声が、この老婆の口から出ているのだとクルーミルには思える。
クルーミルは思わず顔を背けた。逃げた先には、ボナパルトの燃え尽きたような灰のような輝く瞳がある。
その瞳を見た瞬間、クルーミルは内側から燃えるように沸き立つ衝動に駆られた。
自分はこの行いに心を痛めている。この村を必要とすると言ったのはナポレオンだ。自分は反対した。私ではない。
戦争に犠牲はつきものだ。それに彼らには十分な補償を与えるのだ。
この戦争は国家を統一し平和をもたらすためのものだ。そのためなら小さな犠牲に動揺してはいけない。ちっぽけな感傷や、道徳など、踏みつぶしてより強くあらねばならない。
これは国のためだ。これは民のためだ。これは……
老婆の声が、耳と心を苛む。
「代わってあげるわ」
そう聞こえた気がした。ボナパルトのほうからしたように聞こえる。巨大な洞窟に吹き込むような声。
ボナパルトは自分の代わりに老婆に相対してくれるだろう。戦争のもたらす惨禍を、自らの行いの業をすべて引き受けて、一切の呵責なく全てを成し遂げてくれる。そうに違いなかった。
罪の重さに耐えることが王の務めである、と頭では理解していたとしても、こうしていざ目の前に罪を突き出されると、ボナパルトが発する甘い花のような免責の誘惑に抗いがたい魅力を感じてしまうクルーミルだった。
ボナパルトに全てを委ねて、自分は罪から逃れてしまいたい。という衝動に辛うじて耐えることができたのは、そうしてしまえば、自分はボナパルトの友ではいられなくなってしまうのだという稲妻のような確信だった。
クルーミルは馬から飛び降りると老婆の顔に両手を添えた。
「この罪人の顔をよく見ておきなさい。我が瞳を見なさい。これが貴女から住処を奪い、思い出を奪い、これまでの人生の全てを奪う者の顔です。これまでもそうしてきました。私は何千という家を破壊し、妻から夫を奪い、乳飲み子から親を奪い、年老いた親から子どもを奪ってきました。自らの兄の死を願う者です。そして覚えておきなさい、貴女が生きていくための金を与え、戦乱を鎮め、世に法と秩序をもたらし、繁栄と公平を敷こうとする者の顔を。あなたの上に君臨する王の顔をよく覚えておきなさい」
焼き尽くすほど鮮明なその赤い瞳に気圧されて、老婆はそれ以上の抗弁をやめた。
「ノルケト、この人を隣街まで丁重に送り出してあげなさい。付け加えますが、罰してはなりません」
主の言葉にノルケトは頭を垂れた。
「ナポレオン」
向き直ったクルーミルの顔を見て、ボナパルトは僅かに眉をあげる。彼女はまさに、あの橋を作った王の娘に違いなかった。
「私は……あとどれぐらいの犠牲を積み上げるのでしょうか?死んでいった、いえ、私が殺してしまった臣下たち。東部の諸侯たち。テーケルネトの父。ノランの街、そしてあの老婆。私の玉座は敵と味方の死体の山の上にあります。どれだけ己を省みたところで、どれだけ黄金で償ったとして、決して埋め合わせることのできない罪を重ねながら……」
「必要なだけ積み上げるのよ。玉座に届くまで。それが嫌なら、王冠を投げ捨てて修行僧にでもなるか、首でも括りなさい」
「……ここで勝ちましょう。彼らの犠牲を無駄にしないために」
「なにより貴女自身の為に」
ボナパルトは頷いた。




