第百十五話 カラスの戦い(後編)
前衛の騎兵部隊が交戦状態に入った、と知らされたテルマルタルは大きな息の塊を吐き出した。
「ダーハドが退いたか」
女王から預かった軍勢を率いるテルマルタルにとって、ダーハドとの対陣は極度の緊張を伴うものだった。まず第一に、万に一つも敗北するようなことがあってはならない。もし軍が敗退すれば、女王とボナパルトは敵中に孤立する。ゆえにテルマルタルはダーハドと対すると攻撃が難しい難所に陣を構え、防御柵を巡らし、陣地を構築するのに務めていた。
さらにそこに蹄鉄砦より奪い取った穀物などを運び込み、進撃の際には有力な補給拠点として機能するように努めてもいたのだ。
無論、守りに徹するだけでは足りない。女王とボナパルトが敵の背後に現れるまでダーハド王の意識をひきつけて置く役目も担っていたので、牽制攻撃を繰り返し、軽騎兵を出撃させては戦意があるかのように偽装を凝らしていた。
これは並大抵の指揮官に果たせる任務ではなく、戦意過剰、逆に戦意過少の諸侯を統率してのけ、テルマルタルは碧隼の異名が伊達ではないことを直接の戦火を交える前から内外に証明しているのだった。
「それにしても、あのバカ者め。早まった真似を!」
あのバカ者、とはウルバルトを指す。
「しかし、敵が撤退したとあれば追い打ちをかけるのは当然の事。ましてその先鋒を担うとはウルバルト殿はご立派ではござらんか!これを騎士の名誉というものでしょうぞ!」
調子はずれの大声で叫んだのはソチタロト公である。フランス式の訓練を受けた「羊毛軍団」を預かる老将はせき込むようにカラカラと笑った。
「騎兵だけで戦うバカ者があるかと言うのだ!」
屈託のない笑みに煙たそうな視線を投げつけてテルマルタルは口をへの字に曲げた。
撤退中の敵は最も脆弱である。そこを追い討ちするのは当然の策であるが、敵も撤退の困難は承知している。殿を務めるのはおそらくダーハド王の精鋭だろう。戦意過剰の孫は騎兵だけで早まった攻撃をしかけ、挙句苦戦しているというのだ。実戦経験が少なすぎた。
敵が引くなら性急に敵と戦う必要はない。ぴったりとその後ろに陣取って追跡し、敵が休もうとすれば攻撃を仕掛けて引き上げる。それだけで敵はとどまって休むこともできず、ただ移動するだけで疲弊し、士気がそがれ、軍は失血死するというものを。
攻撃するならば、歩兵部隊と協力して敵が逃げられないようにして殿部隊を徹底的に打ち負かすかすべきだ。まだ敵が十分に備えている時に攻撃しては、貴重な騎兵を消耗するばかりではないか。
あのバカ者は猪突して全軍の足並みを乱してしまった。追撃のタイミングを慎重に図っていたというのに!
「やむを得ん。老公、救援に向かっていただけるか。我らもすぐに部隊を整えるが、今すぐ動けるのは貴殿の部隊だけだ」
とはいえ、見殺しにはできない。ひとたび戦端が開かれた以上は掩護してやらねばならなかった。
軍が会戦のために拠点を出るとなると、部隊を展開するのに数時間を要する。武装した数千、数万の男たちを平野に並べ、戦闘単位として機能するように配するのにはとにかく時間がかかるのだ。諸侯の寄せ集めの軍隊とあってはなおのことである。
さりとて、全兵力をもたもたと並べていてはそれだけで日が暮れ、敵軍は夜陰に紛れて悠々と逃げおおせるだろう。ともかく、動かせる部隊から順次ぶつけていくしかなかった。
「ああ!承知致した。すぐに孫殿をお救い申そう!坊主の孫も勇敢な戦士に育ったものだて!」
椅子を蹴とばすように立ち上がったソチタロトは陣営を飛び出して馬に跨った。羊毛軍団の戦旗が掲げられ、兵士たちがそれに続く。
「あの爺……」
テルマルタルは苦々しく吐いた。その表情は苦いがどこか棘に欠けた表情である。テルマルタル自身も、「爺」と呼ばれる歳なのだが、ソチタロトはさらにその十歳ばかり年上である。若かりし日はソチタロトを兄のように慕って狩りについていったこともある。ソチタロトからすれば、自分はいつまでたっても「坊主」なのだった。
「伯、よろしいのですか?追撃なさるので?」
諸侯の一人が狐のような笑みを浮かべて問いかけた。
「ただ移動するだけでダーハド王を撤退に追いやってみせたボナパルト、あれはやはり脅威なのではありませんか。ゆっくりと追撃し、せいぜいダーハド王と潰し合わせては……」
その言葉をテルマルタルは一閃した。
「この期に及んでそのような差し出口を聞くな」
それは隼の爪のように鋭く諸侯を抉った。確かにボナパルトの軍才は脅威である。大山脈越えを見事に果たして、ただ軍を機動させるだけであのダーハド王を撤退に追い込んでしまった。もはや精霊の業としか言いようのない。構想力といい実行力といい、ボナパルトが非凡であるということはよくわかる。
だが小手先の知恵を弄して足を引っ張れば、ダーハド王が勝ってしまう。そうなってはなんの意味もない。まして、ボナパルトの元には女王がいるのだ。たとえ後日の脅威に備えてボナパルトを見捨てようにも、女王まで見捨てたとあっては、王国が崩壊するではないか。
思えば、女王は我らがボナパルトを見捨てぬために、わざわざ彼の陣営に身を置いたのではあるまいか……?
「次にそのような下らぬことを申せば、反逆者として処罰する。ただちに追撃の用意をせよ!」
テルマルタルが言葉の鞭で打ち据えると、諸侯は軍馬のように慌ただしく動き始めた。
◆
「歩兵が来たか」
「そのようです。あの旗は噂に聞く羊毛軍団。連中は防具こそ貧弱ですが、銃火器とよく訓練されているようです」
報告を受けてダーハドは屈託のない笑みを浮かべた。既に直接指揮する騎士たちを率いて草長の軍勢に突入すること四たび、ダーハドはその都度に敵を突き崩して縦横に暴れまわっていた。
ダーハドの騎士たちは敵を突き崩すと自軍の歩兵隊の後ろに下がって隊列を組みなおし、馬を休ませることができるのに対して、草長の騎士たちは歩兵を欠き、そのうえ白兵戦に弱い軽騎兵が中心であったため、ゆっくり再編成する余裕を与えられず、部隊は突き崩されると結集できず組織的な戦闘力を発揮し切れずにいる。
辛うじて、救援に駆けつけたフランス軍の騎兵が踏みとどまって騎銃による射撃を浴びせて敵の接近を阻むのがやっとだった。そのフランス騎兵にしても、陽光を吸い込むような漆黒の騎士たちを前にしては踏みとどまることが難しい。歩兵が欠かせぬ所以である。
「よし、俺についてこい!」
羊毛軍団の先頭を進むランヌ将軍率いる散兵たちが銃撃を加え、ダーハドの近衛たちを怯ませると、ようやくウルバルトら軽騎兵は羊毛軍団が築いた分厚い壁の後ろに下がって部隊を再編し、馬を休める機会を得た。
「老公!救援かたじけない」
発汗していき絶え絶えの馬からひらりと降りたウルバルトは援軍に駆けつけた老将に跪いた。
「なんの。先陣は武人の誉。よくぞ大任を果たされた。武功第一ではないか。のう!」
老将のからりとした笑みに頬を緩めるウルバルトだった。
羊毛軍団の来援を以って、なんとか敗北の窮地から救われたウルバルトはすかさず残った騎士をまとめると反撃に転じる。羊毛軍団の援護を受けて陣形を立て直し、すぐに再攻撃に打って出るのは、ウルバルトがただの猪武者ではないことを証明していた。
が、それを遮ったのはダーハド王の近衛隊、その歩兵部隊である。重装甲の防具で固め、高度に統率された彼らは弓騎兵の射撃にも蛮勇を見せつける騎士の襲撃にも怯むことなく、花崗岩の巨石のように立ちはだかって追いすがるウルバルトの騎士たちを寄せ付けなかった。
戦場が血で赤く染まる頃、斧打ちの国の方角、東のほうから瑠璃色の闇が覆いかぶさりはじめ、戦場を蹂躙して勝ち誇るダーハド王の軍勢を星空たちが出迎えはじめていた。
「全軍を引き上げさせろ。草長の田舎騎士どもにはちょうど良い教訓になっただろう。これだけ出鼻を挫いてやれば、連中はしばらく戦意も萎えて、追ってこない」
ダーハドは意気揚々と全軍に引き上げを命じ、勝利に沸く兵士たちと共に悠々と引き上げていく。
「クソッ!」
ウルバルトは歯ぎしりしてサーベルを大地に突き立てたが、黄昏のなかに消えていく敵の背を見送るしかない。日が落ちてしまえば、視界が失われ戦うことは不可能だった。闇夜が彼らの姿を完全に守り、古の精霊の業のように姿を消してしまうのだった。
◆
肩を落として本営に戻ったウルバルトを迎えたのは、鋼の刃のような祖父の眼差しだった。
「さてウルバルト殿。司令官である私の命令もなく戦端を開き、いたずらに兵馬を損なったことをいかに弁解するおつもりか」
いっそ、杖で殴りつけられたほうがまだ救いがあった。ウルバルトは跪くほかになかった。
「弁解のしようもありません」
「この者の首を切って軍門に晒して見せしめとせよ」
その言葉に諸侯が取りすがった。
「おやめください司令官閣下。ウルバルト殿は閣下の一人孫ではありませんか」
「その通りです。どうかウルバルト殿をご容赦ください」
「閣下!」
テルマルタルは苦虫をまとめて十匹は嚙み潰したような表情を作って息を吐いた。
軍紀に照らして、孫を処罰せねばならぬ。が、孫は奇妙な人望があるようだった。誰もかれもが、おそらくは自分に貸しを作ってやろうという打算もあるのだろうが、孫の赦免を求めてやまない。
「孫殿は見事に戦われた。敵に与えた損害も二百は下らぬでしょう。撤退する敵を追い討ちするのは戦いの定石。戦機に適ったものであり、前衛を担う部隊長の権能の内にあるもの。司令官の命に背いたとは必ずしも言えぬのではなかろうと思います。勇んで戦う者を処罰すれば、かえって士気を削ぎ、精霊の加護も失うやもしれませぬぞ!」
そう主張したのは、火薬の煤で鎧を汚したソチタロト公だった。いまや、全軍の中でも重きをなす老将の言葉を、テルマルタルは無視することも出来ずにいる。
「……よかろう。諸侯がそうも言うなら、斬首は取り消す」
安堵の溜息は、しかし落雷のような声にかき消された。
「ウルバルトに命じる。残存した兵を指揮し敵軍を追跡し、決して見失うな。地の果てまで追いかけろ。もししくじれば二度と私の前に顔を見せるな。分かったか!」
祖父の言葉に孫は奮い立った。
「はっ。必ずや!」
古いおとぎ話の騎士のようなこの男は、むしろ闘志をさらに燃やして瞳を輝かせた。その姿勢こそが、狐のように狡猾な諸侯たちの奇妙な心をとらえるのかもしれない。
「お待ちあれ。その騎兵に我が集団もお加えいただきたい。ダーハドに一矢報いて御覧にいれましょう!」
それはフーゲン伯以下、東部諸侯の騎士たちだった。故郷を踏み荒らされた彼らの戦意は、今日の戦いに加われず、一番槍をウルバルトに奪われていっそう激しく刺激されていた。手綱を振り切る暴れ馬のような猛々しさを具えて司令官に迫る。
「その言やよし。諸侯よ、我らはこれより追撃に移る!敵軍を女王とボナパルトの軍勢とで前後に挟撃してくれようぞ!」
ウルバルトの攻勢に武人としての尚武の心を刺激された草長の諸侯たちは、ひとまずの追撃に失敗してなお、むしろ士気を高めて蹄鉄で大地を揺らしながらダーハドの背後を猛追し始めたのだった。




