第百十四話 炎の蛇(後編)
ダーハド王の命令の元、撤退の準備は丸一日をかけて行われた。天幕が大急ぎで畳まれ、兵士たちは前進命令を受けるものかと勇んで顔を強張らせたが、それが撤退命令であると知ると顔を見合わせて口を尖らせる。
敵が後方に回り込んだ、逃げ道を絶たれた。故郷が危ないのだ。という噂が伝染病のように広まり、下は徴募された農民から上は貴族に仕える従者までがそれぞれに集まり、ひそひそと他の階級の者たちに聞かれないように噂話の羽を広げた。
撤退を命ぜられて二日。最初の部隊が大街道を通って撤退を始めた。敵に背を向けてゆっくりと移動する軍隊は巨大な蛇を思わせる。長い、長い、延々と無限に連なる人馬の巨蛇が地平線の向こうへと吸い込まれるように流れていく。
まさにこの瞬間こそ、軍隊にとって最も無防備な瞬間であった。今敵襲があれば大惨事は免れ得ぬ。との思いが指揮官たちの心を蝕み、一刻も早く、少しでも遠くへと行きたいという思いが彼らの足を速め、その足音が不安と狼狽に満ちた心を乱打した。自分たちの背中を守っているのが王その人と五千の近衛隊であるという事実が無ければ、彼らはただ後退するだけで恐怖で崩壊したに違いない。
ダーハド王の軍勢が撤退を決定したとき、商人たちはそれに続行しようと荷造りをするのに忙しかった。荷馬車に山と積んで運んできた麦の袋の荷役作業が延々と続いていたのが、一転して軍に続行するために袋を積み込まねばならなかった。
そこへ、深紅の旗をなびかせた近衛兵を従えたダーハド王が現れたのである。
「国王陛下万歳!」
王の姿に気づいた商人たちからの歓呼の声を浴びると、ダーハドは切り出した。
「わが軍の撤退に伴い、兵糧をすべて焼却する」
その宣言に商人たちは鞭で打たれたように目を見張ったが、しかし、頷いた。兵糧は王の名によって集められたものであり、商人たちはそれを輸送しているに過ぎない。焼こうがどうしようが王の指図には正当性があった。
「この兵糧は陛下のもの。陛下がそうせよと仰るなら、我らご命令に従いまする」
商人たちは荷馬車から麦の詰まった袋や樽を運び出せと荷役に駆り出されている奉公人や下僕に命令した。苦労して積み込んだ荷を下ろせと命ぜられた若い奉公人が恨めしそうな顔で主人と王を見やる。
「その必要はない。荷馬車ごと焼却する」
その一言は人語をした落雷そのものだった。
「なんと仰いますか!兵糧は陛下のものです。どうされようが陛下の御意のままに致します。ですが、荷馬車は違います。荷馬車は我ら商人の命です。これを焼いては、我らはどうやって商いを続けられましょうか!」
「敵が迫っているのだ。利用できるものはすべて破壊する」
「……!」
王の目は鋼鉄の冷たさを帯びて商人の喉に突き付けられた。
物資そのものだけでない、物資を運ぶ手段をも破壊しようというのだ。馬、御者、そして荷馬車。ダーハドはどれ一つとして敵の手に残すつもりはなかった。
「火を放て」
近衛兵たちが抗議する商人たちを押しのけて荷馬車に火を放ち始める。乾燥した麦や秣がたちまち赤く染まり、市場は煙と炎に包まれはじめる。
「やめてくれ!焼かないでくれ!」
取りすがる商人を騎士たちは煩わしく押しのけていく。甲冑に組み付こうとしたある商人は強かに殴打され地面に這いつくばった。
「陛下!陛下!おやめください。我らになんの咎がありましょうか。なぜこのような惨い仕打ちをなさいます。陛下!一体我らになんの罪がありましょうか!?」
「罪などない」
次々と炎に絡みつかれて燃え盛り、青空を焼き焦がすような黒煙を吐く荷馬車を見やりながら、ダーハドははいつくばって慈悲を求める商人に答えた。
「余にはその権利と必要があるのだ」
商人たちの抗議が激しくなるのにさほど時間を要さなかった。商人たちは護身用の短剣やこん棒を振り回し、自らの荷馬車を守ろうと騎士たちに抵抗を始めたのだ。荷馬車は行商人にとって死守すべきものだ。四輪の大型馬車が、小さな貴族の私兵ならば丸ごと養えるだけの莫大な小麦とともに燃え盛る。
「やめろ!やめろ!」
持ち主の男が火を消そうと両手の爪がはがれるほどに地面を掘って土をすくい、それを炎に投げ込む。荷馬車は単なる商売道具ではなかった。職人にとっての金槌であり、騎士にとっての鎧であり剣である。父から受け継いだ遺産でもあり、幼い頃の自分が母と暮らした家でもあるのだ。この荷馬車の中で生まれ、育ってきた。それがいま眼前で灰と化そうとしていた。己の存在そのものが消え去ろうとしていた。
その商人の背中を悲鳴に神経を逆なでされた若い騎士が舌打ちと共に蹴り飛ばす。自分が惨い仕打ちに加担しているという自覚がねじれた加虐心として発露した。前のめりになった男は燃える馬車の炎に抱き着かれて叫び声をあげる。
市場が巨大な炉のように輝くころ、街道にあふれ出ていた荷馬車にも次々と火が放たれた。兵糧を運んできた荷馬車だけでなく、従軍商人の馬車にも見境なく火が放たれる。何もかもが炎と煙の中を逃げまどい、突然の友軍の凶行に叫び声をあげた。近衛騎士が抵抗するものを容赦なく切り捨てる。
いたるところでうまれた炎はやがて巨大な炎の蛇になって、草原を這いまわり、地平線を焼き尽くして黒煙が太陽を曇らせた。
「陛下……」
味方の従軍商人たちを蹴散らす騎士たちを見ながら、側近のドルダフトンは低く唸った。
「構うな。商人などいくらでもいる」
その声は声と呼ぶには感情が欠落しており、風鳴りのように聞こえた。
「連中は連れていけない。放置すれば草長の国の連中に物資を売るだろう。それよりは焼いたほうが良い」
「しかし……」
「クルーミルは、商人どもに特権を与えて味方に引き入れようと画策しているそうだ。そのせいで我が国の商人の中にも、クルーミルに協力しだすものがいる。これは良い見せしめになるだろう。ドルダフトンよ、私は間違っているか?私は成すべきことを成している。敵の追撃を遅らせ、軍勢を守るためならば!」
ダーハドの声は至って、落ち着き払っていた。
「陛下、陛下、本当にそうお考えなのですか。あれは陛下の臣民にございます」
「そうとも。わが友よ。あれはわが臣民だ。羊飼いは羊を処分する権利を持つ。私にはあれらを自由にする権利がある。そうではないか?」
「ですが……」
「友よ、戦いに勝とう。彼らの犠牲で我らは勝つのだ。勝って、平和をもたらそう」
ドルダフトンが反駁を試みた時、物見に出ていた騎士の叫び声がそれを遮った。
「敵です!草長の騎士どもが出てきました!」




