第百十四話 炎の蛇(前編)
「フランス軍、大山脈を越える」
その知らせをダーハド王が受け取ったのはフランス軍がノランの街を陥落させた二日後のことだった。その軍営の中にクルーミル在り、との報告もまた同時に受け取っている。これは、クルーミル側が自分の存在を広範囲に喧伝した結果であった。テルマルタル伯の軍勢と対峙しているダーハド王の諸将はハチの巣を突いたような騒ぎになった。
「フランス軍が後背に現れただと!一体ノラン伯は何をしていたのか。これは裏切りだ!」
「ただちに後背に備えなくては領地の守りが危うい。王は如何にお考えか、いますぐ撤退を……」
「山脈を越えるなど奴らには翼でも生えているのか?悪霊の呪いだ!」
王の臨席する軍議において、諸侯は文字通り右往左往していた。フランス軍に退路を断たれてしまえば軍が崩壊する。いや、軍どころか国が崩壊するのだ。諸侯の胸のうちには、故郷に残してきた家族や領民のことが絶えず浮かぶ。ただちに兵を返さねば、フランス軍は守りのない領地を好きなだけ蹂躙するだろう。
「裏切者!」
暴発した貴族の一人が、青ざめた頬を震わせるノラン伯を言葉と拳で殴りつけた。
伯にはもはや微塵も名誉も面目も残されていなかった。あろうことが、城を預けた城代が降伏し、敵を引き入れてしまったのだ。切れた口から広がる血を飲み込んで伯はうなだれた。
降伏した城代は、わずかな守備隊が軍旗とともに離脱するのを見届けたのち、自害して果てたと知らせが来ている。主君から城を任されそれを果たせなかった臣下に取れる唯一の道だった。
伯は、街を明け渡した城代を憎む気にはなれない。もし戦場になっていれば、都市は灰燼に帰し、領民ことごとくが殺戮されていたに違いない。街に十分な守備兵力を残していかなかったのは自分の責任なのだ!
フランス軍が山脈を越えて出現したのは、諸侯にとって衝撃であった。これは大軍が山脈を越えるのは補給の問題から不可能であるという常識に基づく。
それは軍事を知る者ならば当然のことであり、戦場を生きる諸侯にとってはその常識を覆された分、受ける衝撃はより増幅されたものがあった。
ボナパルトは戦巧者であるというのは、諸侯にとって広く知られている。そんな人物が補給を無視した作戦を強行するとは思えない。であるからには、補給のアテがある。つまり斧打ちの国にあって内通する者がいるに違いない。それは、真っ先に降伏したノラン伯であると考えるのは当然のことだった。
無論、ノラン伯にとっては自分の領地が一戦も交えず降伏したのは寝耳に水の出来事であり、彼は事実、ボナパルトと内通などしていなかった。しかし事実が事実である以上、ノラン伯は殴られるがままだった。次第に別の貴族たちも混じり、殴られ、蹴り倒された伯は床に這いつくばったところをさらに踏みつけにされ、ついに短刀が抜かれた。
「やめよ」
そうなってはじめて王は口を開いた。
「ボナパルトの奇襲を許したのは余の不明であった。ノラン伯を責めるな」
その言葉に全員の動きが止まる。
「伯。失態であるが、戦場での働きで挽回してもらうぞ。ボナパルトを打ち負かし、領地と名誉を回復せよ。期待してよいな」
口内に溢れる血を飲み干して、伯は喘ぐように答えた。
「はっ……陛下のご温情には言葉もございません。身命を賭して償わせていただきます」
「よろしい」
その言葉が終わるや、ダーハドの思考は地を離れて飛翔する。
さて、敵は何を考えているのか。ボナパルトは背後に出た。次はどう出るか。一つ、わが軍の退路を遮断し、包囲殲滅を狙う。二つ、わが軍を無視し、一気に首都を直撃する。三つ、諸侯の領地を荒して回ってわが軍の分裂を図る。
首都を直撃する。これに成功すれば王国の評議会議員や王家を捕縛できよう。だが首都を陥れるには時間がかかる。いかにボナパルトに大砲があるとはいえ、草長の国の王都を落すのに日数を要していることからその可能性は低い。だが蹄鉄砦を速攻で落とした例もある。あのグーエナスが持ちこたえらえなかったのだ。
「コルネス」
ダーハドは静かに新参の武将の名を呼んだ。グーエナスの腹心の部下である。彼は主の遺体と盾を持ち、ダーハドの元に戻っていた。
「ボナパルトの軍は首都の城壁を崩せるか」
「崩せるでしょう。しかし、フランス兵は接近戦に弱く、充分な守備隊を備える王都を短期間で落城させ得るとも思えません。また、城壁に取り付けばわが軍に背を向けることになります」
「ふむ」
コルネスが持ち帰った戦訓は重要である。第一の城壁を崩されたとて、首都は巨大な人口を抱える都市なのだ。街の角という角に障害物を置き、白兵戦に持ち込めばフランス軍とて容易には崩せない。首都が早期に陥落するという可能性は低いだろう。
では、諸侯の領地を荒すだろうか。その可能性もまた低い。領地を荒すことによって結束が崩れるのを期待する、などという迂遠なやり方をボナパルトはしないだろう。
となれば、敵の狙いは軍である。結局のところ、軍勢を撃滅しないことには、自分を討ち取らないことには戦いは終わらないのだ。ボナパルトならばそのことを洞察しているだろう。
であれば、なぜ山脈を越えた。なぜリスクの高い作戦をとった……?
答えは一つ、ボナパルトは戦いを長引かせたくないのだ。普通に戦えば軍は損害を受けても壊滅せずに後退する。ずるずると領内で会戦に次ぐ会戦、あるいは攻城戦をしたくない、だからこそ、危険を冒して一度の会戦で包囲殲滅という機会に持ち込もうとしているのではないか!
であるならば、わが軍は包囲殲滅を回避し、撤退するのだ。首都に撤退して仕切り直しにすればよい。
いや、むしろボナパルトを撃破する好機ではないか。敵はわざわざ軍を分割し、わが軍の各個撃破の標的になろうとしている!
ダーハドは宝石で飾られた手斧をテーブルにたたきつけた。王命が発せられる。
「スヌエビラ!」
「はっ」
「ただちに軽騎兵を束ねる諸侯と共にボナパルトに備えよ。騎兵の遮蔽幕を展開して敵に位置を気取られるな。山を越えた敵に騎兵は少なかろう。敵の偵察騎兵を通すな。同時に、大街道沿いの大王橋を確保せよ」
「はっ!」
「私自らは近衛騎兵と共に殿を務め、追撃に出てくる草長の騎兵共を迎え撃つ!」
「ははっ」
「この『鉄門』の守備隊はいかにいたしますか。どなたを守備に任されますか」
「『鉄門』は放棄する。集積した食料はやむを得ないがすべて焼き払え。敵に物資を与えてはならん」
それはダーハドにとって苦渋の選択であった。ダーハド軍がテルマルタル軍に対して積極的な攻撃に出なかったのは、一つには侵攻に必要な食料を集積する必要があったという事情がある。もともとはグーエナスが確保していた蹄鉄砦に備蓄された兵糧があったのだが、これが失われた今、ダーハドは遠征に必要な物資を後方から集めるのに日数を要していたのだ。
「倉庫に火を放て……それと、物資を運んできた商人どもの荷馬車もすべて焼き払うのだ。守り切れぬなら焼き払うほかに無い」
「は……しかし、兵糧を積んだ馬車を焼いては……」
王の命令に諸侯は顔を見合わせた。確かに敵に物資を渡すぐらいならば破壊したほうが良いのは道理だが、膨大な物資を焼き払うのはそうそうできる決断ではなかった。
「道中にある村や町から徴収すればよい。馬車があると行軍が遅くなる。焼き捨てる」
王は眉一つ動かさずに繰り返した。自軍の補給品を焼き払うのは文字通り断腸の念があるが、足の遅い商人共をもたもた待っていては退路を遮断されて国を失うのだという判断が王を非情にした。守り切れぬならば、破壊するしかない。
ボナパルトが機動力で奇襲を仕掛けてくるならば、こちらも機動力で応じなければならない。ボナパルトの軍勢を打ち負かし、クルーミルを殺すか捕えるかできれば、遠征の物資を焼いたことなど問題にならない。
「軍議は決した。わが軍はこれより転進し、全軍はフランス軍に向けて前進する。我ら軍を返すも、撤退するにあらず。クルーミルとボナパルトを打ち取る好機であるぞ!」
ダーハド王の力強い言葉に諸侯は場の混乱を収め、各々はあわただしく陣払いの支度を始めた。




