第百十二話 木挽き砦の戦い
フランス軍が到達した村の十数キロを隔てた距離にある山脈のふもとには「木挽き砦」と呼ばれる小さな砦がある。
元はその名の通り山林から切り出した木を加工するための作業場であり、森を監視するために作られた塔である。風化してあちこち欠けたレンガを積み上げた砦は見るからに頼りなげだが、塔の上には巨大なクロスボウとでもいうべき、バリスタが二基備え付けられてあり、峠から降りてくる軍勢にとって脅威であった。
守備隊長を務めるのはフラドという中年の騎士で、彼は祖父の代からこの砦の守りを務めていた。そんな彼は塔の窓から闇に沈黙する峠に目を凝らしていた。
途方もない数の軍勢が峠に押し寄せてくる。
そう通報してきたのはアタソア村の親ダーハド派の住人だった。最初フラドはそれを一笑にふしたが、念のため送り出した兵が同じことを口にしたとき、全身の血が逆流する思いに駆られた。
なんたることか!急ぎで王にこのことを知らせ、近隣の村に警報を発する。城壁を補強して砦を死守しなければならない!
砦に駐留する五十名ばかりの兵は山賊と戦うことはあっても、本格的な衝突を経験したことは皆無である。が、フラドには持ちこたえられる自信と根拠がそれなりにあった。一つには塔に据え付けられた大型のバリスタ。そして砦の立地である。
アタソア峠の道幅が狭まった急所に位置するこの砦は四方を急斜面に守られ、城門に通じるのは馬車一台が通るのがやっとの細道、さらにその奥には跳ね橋と小ぶりだが非常に堅牢なつくりになっている。しかも、山脈を超えるならば攻城兵器の類は持ち込めぬはずである。梯子を恃みにがむしゃらに突っ込んでくるならいくらでも守れるだろう……守れるに違いない。
一日か二日も持ちこたえれば、立ち往生した敵は補給に支障を来すだろう。そこへダーハド王が援軍を率いて現れれば勝利は疑いない。フラドはそう諭して浮足立つ部下の士気を高めた。言葉の半分以上は自分に言い聞かせるものである。彼自身、軍隊同士の衝突など経験したことが絶無だった。
「隊長!灯りが見えます!」
その言葉にフラドは心臓を握りつぶされかけた。
「敵か!」
「いえ、あれは荷馬車です。一台、いや、二台。暗くてよくわかりませんが……国のほうからです」
「荷馬車だと?」
フラドは息の塊を吐いた。敵ではないらしい。だが、自国側から荷馬車?この時期にか?
しばらくして、馬車が跳ね橋の手前までやってきた。
「我らはアブロージュ伯の庇護下、ハッハクルム商会に委託された商人である。敵襲に際して補給物資を運んできた。開門されたい!」
山脈にこだまする、それは若干の西方訛りのあるグルバス語だった。
「補給だそうです。どうなさいますか、隊長」
副官に問われてフラドは汗を拭いた。妙だ。契約しているいつもの商会ではないし、事前連絡も来ていない。第一、敵襲を伝える使者を送り出したのは二日前だ。使者が到着し、そこから物資を用立てて送り出すのにもっと時間がかかるはずだ。敵の罠ではないか?
「証拠はあるか?」
「伯の手紙を預かっている。お確かめあれ!」
砦から降ろされたロープに括り付けられた手紙をフラドは慎重に手にした。
手紙についている青い封蝋に刻印されているのは確かにアブロージュ伯の紋章である。伯はこの近くに領地をもつ貴族であり、フラドも何度か顔を合わせたことがある。
手紙を開封してみると、そこには一見、ミミズが這いまわったような文字と幼児の落書きの中間のような文章がのたうっていた。
これは斧打ちの国で広く使われている東部グルバス語であり、省略記号が使われている。さらにそれらは文章としては全く意味の通じないでたらめな単語の羅列で埋められているのだ。
フラドは部屋から小箱をとって来させると、首から下げている鍵を使って箱を開けさせた。中には符号帳が入っている。手紙に書かれている単語をその用紙に書かれている単語に置き換えると、はじめて意味が通じるようになるのだ。
これを正しく使うには暗号文を作る側と受け取る側が同じ数字が書かれた用紙を持っている必要がある。すなわちこれは、アブロージュ伯からの本物の手紙ということになる。
さらにもう一つ、この手紙には巧妙な仕掛けが施されている。手紙の折り方だ。手紙が普通は使われない独特の手順で折られているということがフラドにとってこの手紙が本物であることを確信させる決め手となった。
内容を解読してみると、木挽き砦からの救援要請を受け取ったので物資を送る。もともとはダーハド王に送る軍需物資をそちらに送るので、いつもの業者ではないが許容されたい。我々もすぐに救援に駆け付ける。というような内容であった。その下には、輸送される物資の目録が続く。30束の矢。5樽の穀物、2樽の果実。8樽の麦酒……
「なるほど。そういうことか」
フラドはすっかり安心して、跳ね橋を降ろすように命令した。手紙は本物であるし、敵軍はまだ一日以上の距離がある。見たところ御者は四人ほどだ。仮に敵だとしても、こちらは五十人はいる。
籠城するに武器、兵糧はまさに喉から手が出るほど欲しいものであったという事情もあった。
跳ね橋が軋む音を立てながらゆっくりと降りた。
◆
「うまくいきましたな」
「ああ」
アブロージュ伯の庇護下、ハッハクルム商会の商人は深く被ったフードの下に笑みを作った。草長の国の女王、クルーミルに雇われているアンブローツィ傭兵団の兵、というのが彼らの本当の身分だった。
馬車を先導する二人のうち、一人は団長のスフィラ・アンブローツィである。一流の戦技と長身、美しい黒髪を持つ美貌の持ち主でもある。その横に続くのは副長のカルメダル・エラルニである。
カルダメル・エラルニ。彼はもともとはアンブローツィ傭兵団の従軍パン職人だったがある時、敵が彼のいる後方部隊に襲い掛かったとき、樫のめん棒を片手に五人の敵兵を殴り倒すという武功を立て、以来兵士として戦いに加わるようになったという来歴を持つ。
パン職人としての腕は味にこだわらない兵士の舌をして二流半という腕前であったが、戦士としての彼は我流の力任せの剣の使い手として卓越しており、部隊の統率者としてはさらに高い実力を発揮した。傭兵団長のスフィラの父からもその実力を認められ、彼は五年のうちに副長に収まり傭兵団を引き継いだスフィラの右腕としてよく務めていた。大胆な戦いぶりと緻密な計算のできるこの男は、傭兵団の副長に求められる資質をすべて有していた。
一方で彼は仲間たちからは蜂蜜かぶりと呼ばれている。それは彼の蜂蜜色の金髪を喩えたものなのだが、別の意味も存在する。彼は酒にも女にも興味を示さず、金を手に入れるとそれをほとんど蜂蜜を買うのに使い、毎食蜂蜜たっぷりぬりたくったパンを食べるという癖があったのだ。「副長は蜂蜜の食べ過ぎで髪まで黄色くなっちまったのさ」とは、古参の団員が新入りをからかう常套句であった。
◆
スフィラと少数の仲間は巡礼者を装い、山脈を超えて堂々と斧打ちの国に入り込むと、ふもとで待機していたネーヴェン商会の息のかかった行商人から荷馬車を受け取り、商人に偽装してきたのだ。
彼らが持ち込んだ手紙は、白馬丘でフランス軍に捕獲された暗号表を使って、ニッケト率いる情報部門が作り上げた偽手紙である。手紙の折り方はボナパルトが押収した東部諸侯の書庫より押収されたアブロージュ家の手紙を模倣したものである。
中庭に引き入れられた商人をフラドは出迎えた。
「よくぞ来られた。アブロージュ伯のお心遣い、まことに痛み入る。さ、入って休まれよ」
馬から降りた商人を鷹揚に腕を広げて歓迎するフラドの心遣いは、しかし一瞬のうちに鋼鉄の冷たさで報われた。目の前の商人が信じられない速度で自分に向かって跳躍したかと思えば、そのまま押し倒されて喉元に短剣を突き付けてきたのだ。
「動くな!」
スフィラの鋭い声が場を圧する。
「き、貴様!」
うめいた副官は剣を抜く前にカルダメルの強靭な拳を顔面に叩き込まれる。
「おとなしく降伏すれば命は助けてやる」
「命乞いすると思うなよ。相手は四人だ、殺せッ!殺せ!」
フラドは短剣の冷たさに怯まなかった。つばを吐きかけると浮足立つ部下に戦うように叫ぶ。
「大した男だ」
その勇敢を認める一言。スフィラは腕に力を込めてフラドを締め落とした。
「金首輪の犬ども!戦いだ!」
カルメダルが叫ぶとたちまち荷車の布を切り裂いて完全武装した十人ばかりの兵が躍り出て襲い掛かる。敵襲を砦全体に告げる鐘が乱打され、静寂に包まれた砦を震わせた。
「残りが出てくる前に片付けろ」
スフィラは短く命じると羽織っていたマントを脱ぎ棄てた。鎖帷子の鎧と長剣が露わになる。彼女もまた武装していた。厳しい寒さが却ってこの重装備を隠すマントを自然なものに見せていた。
傭兵団は一流の戦技を持つ者たち揃いである。そのうえ、白兵戦では武装の差が如実に表れた。
鎧を着こんだ人間にとって斬撃は文字通りかすり傷にすらならないのに対し、そうでない者にとっては軽く刃が当たっただけでも容易に傷を負い、戦闘力を低下させ、戦闘不能に追い込む。
鎧に身を固めた側が鎧が守ってくれることを前提に全力で攻撃できるのに対し、そうでない側は常に攻撃を防いだり避けたりすることに神経を割かねばならないという心理効果も大きい。
武器の面でも、スフィラたちが使う剣はやや小ぶりで、先端が細く尖った構造をしている西方諸都市で使われる独特な剣だった。これは閉所での戦闘に長けたもので、刺突することも斬撃することもできる。国土に無数の砦や城塞があり、戦争が攻城戦の連なりになりがちな西方諸都市ならではの武器である。
防具を着る余裕もなく、部屋着で飛び出してきた敵をスフィラと仲間たちはほとんど一方的に切り捨てた。一撃で死に至らずとも、肉を切り裂かれ、骨を砕かれてた敵は戦闘する意志と力を失ってのたうつ。
数の上では砦の守備隊が圧倒的に勝っているが、本来は防御側を利するはずの砦の構造それ自体が不利に働く。砦は基本的に少人数で多数を相手にすることを前提に設計される。通路の幅は狭く、扉は小さく、意図的に曲がり角が作られ一度に多人数が通れないように作られているのだ。
二十人余りが血の池に叩き込まれたとき、残りの者は戦意を失って降伏した。しかし、降伏を潔しとしない八人ばかりが屋上に立てこもった。
「仕留めそこなったか」
「どうしますか隊長」
「燻し出せ」
スフィラが短く命じると、兵は荷車から木箱を取り出した。中にはこぶし大の泥団子のようなものがいくつも入っている。
これは硫黄やある種の薬草を混ぜ込んだもので煙を吸い込むと目、鼻、喉にすさまじい痛みを引き起こす。その苦痛は死に至るものではないが、この攻撃を受けたものは死を懇願すると表現される。一種の毒ガス兵器だった。領土内に無数の城や砦を抱えて、攻城戦が頻発する西方諸都市で編み出された最悪の城攻め武器の一つである。煙が重く拡散しないこと、風向き次第では味方に甚大な被害を及ぼすことから野戦では使用されない。
たちまち黄色い不吉な煙が立てこもった兵を襲い、痛みに耐えかねて二人が屋上から飛び降りて攻城戦は終結した。
生き残った者たちを地下の牢にまとめて放り込むとスフィラは鎧の紐を緩めた。火照った体から、魂のような白い息が漏れた。
「こちらの損害はありません。隊長」
「……うん。上出来」
スフィラの口調がどこか間の抜けた柔らかなものになる。口数の多くない傭兵隊長は雪の衣を反射して光輝に満ちていく大山脈の壮麗さに目を奪われているようだった。向こう側から、闇を押しのけながら陽が姿を見せている。
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