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異世界大陸軍戦記-鷲と女王-  作者: 長靴熊毛帽子
第七章『斧打ちの国』戦争~鷲の飛翔~
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第百十一話 糸を手繰る

 巨大な満月が見下ろす大山脈の山道に巨大な炎の蛇が絡みついている。その蛇はまたの名をフランス軍といい、月と松明の明かりを頼りに大自然が彫刻した荒々しい道を司令官の命令の下、寡黙に進み続けていた。


 山道は登山道としては整備されていたものの、舗装の類は一切されてはおらず、尖った石がそこかしこに転がっており、靴底がすり減るのを惜しんで裸足で歩いている兵士の足裏に容赦なく突き刺さる。靴を履けばよかったと後悔するのだが、行軍中に靴を履く余裕はなく、一時間後の小休止までその兵士は足裏の痛みに耐え続けるほかなかった。


「この坂を越えれば村があるぞ。あと少しだ」


 登山道を見下ろす大きな岩の上からボナパルトは声を上げた。満月を背にした小さな司令官の姿を見て、兵士たちはくたくたに疲れた果てた足を前に動かし、帽子を振ってそれに応える。彼らが仰ぎ見るのは擬人化された希望そのものだった。


 兵士の士気を一通り高めた後、ボナパルトは側近たちの手を借りて小さなロバに跨る。司令官は登山で極力体力を消耗するべきではなかった。肉体的な疲労は判断力を鈍らせ、決断を誤らせるからだ。乗り手に不愛想なロバの手綱を引いて歩くのは義理の息子であり、副官でもあるウジェーヌの仕事になる。


「兵の士気は高いようですね。歓声がよく聞こえます」


 ボナパルトを待っていたクルーミルは堂々とした白馬に跨っている。彼女はボナパルトと違い、荒れた山道でも難なく馬を御して登山を続けている。馬のほうも乗り手の信頼によく応えて足を踏み外すことなく草原を走り回るような身軽さで彼女を運んでいた。


「まだ行程は半分あるわ」


 ボナパルトはぶっきらぼうに言う。


 ◆


 夜通し歩くフランス兵たちを迎え入れたのはアタソア村という小さな村である。アタソアとはこの山道を拓いたとある交信者の名前であり、彼は精霊の導きに従って山を進み、小屋を建てて修行生活に入ったと言われている。その小さな修行小屋がやがて彼を慕う修行者たちの集う場所となり、少しずつ拡張されていき、現在の小さな村へと成長したという歴史を持つ。今では巡礼者の貴重な避難所として機能しておりそれなりに立派な宿泊施設も建っている。


 今、その巡礼の宿はフランス兵に占領され、彼らの寝床となっていた。といっても2万近い人間を収容しきる家屋は無い。部屋の中は将校で占められ、家屋の壁を風よけに出来た兵士は最も幸運で殆どの兵士は村の周辺で焚火を起こし芋虫のようにくるまって眠るのがせいぜいだ。


「くそったれ」


 山を吹き抜ける寒風と自分たちに無茶をさせる司令官との双方を短く罵った兵士は少しでも風よけを作ろうと銃剣を地面に突き刺し、凍った土がそれを受け付けないと分かると銃剣を投げ捨てた。


背嚢(はいのう)寄越せ。集めて壁にしろ」


 仲間の誰かがそう言うと兵たちは背嚢をかき集めて分厚い壁を築き上げて寒さに対抗した。


 劣悪な野営地だったが、村人が一日中煮炊きして用意した暖かい豆スープが配給されるのが兵にはありがたかった。草長の国で広く食用にされる赤豆を湯がいただけの簡素なものだったが、暖かく水気のある食事は兵士には涙を流すに値した。


 ◆


 兵が苦難の行軍を終えて眠りに着く頃、ボナパルトは臨時の司令部を置いた家で仕事にかかっていた。部屋の中をぐるぐると歩きまわりながら、報告書に目を通して参謀長のベルティエに細々とした指示を与える。


 王都からは百数十キロ離れているがボナパルトの元には絶えず報告書が届く。その数は二十枚はくだらないだろう。それも、「今」来ているのがそれだけという話であって、大山脈に入ってから既に百枚以上の報告書がボナパルトと他のフランス軍の間を行き交いしている。ベルティエによって組織された伝令部隊は山を越え川を越え、昼夜を問わずに脳に血液が流れるような頻度で往来し続けているのだ。


 操り人形を手繰る練達の職人のように、ボナパルトはどこにいても全てを操ろうと試みていた。


 ボナパルトの口述命令をベルティエが殆ど職人技と言っても良い技能で正式な命令文の書式に移していく。書きあがった文章は直ちに封をされ、控えている伝令に渡される。哀れな伝令は兵士でごった返す山道を今すぐ下山しなければならい。



 フランス軍への命令を一通り出し終えると、ボナパルトは慌ただしく隣の部屋に入った。二人分のスープが置かれたテーブルがあり、クルーミルが待っていた。


「テルマルタル伯はどうしてる」


 椅子に座り、スプーンを手に取ったボナパルトの第一声はそれだった。


 あまりの不躾さに控えている侍女のスーイラは眉をしかめたが、当のクルーミルはというと顔色を変えることなく、ごく自然に手元に置かれた三枚の手紙のうちの一枚をめくるとボナパルトの左手に手を重ねた。彼女にとってボナパルトのこの慌ただしさは距離の近さの表れのように思えるのだ。ボナパルトの態度をそこまで好意的に解釈できる人間は彼女だけかもしれない。


「伯は『鉄門』でダーハド王の主力と対峙しています。一日行軍の距離を隔て、難所に陣取って土塁陣地を構築しているとのことで」


 スープを一口すすって豆を噛みつぶしてボナパルトは問う。


「敵は?動いてる?」


「絶えず軽騎兵を送り出して動向を監視しているが、今のところ敵に大きな動きはないとのことです」


「よし、よし……」


 ボナパルトにとって敵の動きは最大の懸念事項だった。テルマルタルにはダーハドと積極的に交戦したり、撃破することは期待していない。ただ自分たちが敵の後背に出るまでの間注意を反らしてくれればよいのだ。


「作戦は八割がた上手くいってるというところね。いま、動いていないならダーハドは我々が退路を遮断するのを妨害するには間に合わない。大急ぎで輜重を放り出して撤退するなら、その背後を叩くぐらいの手腕はあの老人に期待してもいいでしょうね」


 クルーミルはボナパルトの瞳を興味深そうに覗き込む。彼女はボナパルトが話しているのを見るのが好きだった。より正確に言えば、自分に向かって話しかけてくるのを見るのが。


「対峙している敵に背を向けるのは軍事行動の中で最も困難な事の一つよ。移動するとなると軍は道路に沿って細長くなる。今の私たちみたいにね。そこを攻撃されれば著しく不利になる。我々に対処しようとすればテルマルタルに背を向ける事になる。だからといって動かずにいれば我々が包囲する。兵力を二分して対処しようというなら各個撃破する……もうどうにでも料理できる」


 ボナパルトは小さな口を大きく開けて豆を次から次に頬張る。それに合わせるようにクルーミルも豆を口にした。よく煮込まれた豆の甘さと、一緒に似込まれているベーコンの出汁が美味しく思えた。


「あ、そうそう。これ、サインしといて」


 思い出したように懐から紙切れを出した。実のところ、テルマルタル伯の軍勢に指示を出しているのはボナパルトである。命令文は全てボナパルトの司令部で作成され、クルーミルが名前だけ署名しているのだ。


 クルーミルはスプーンを置いて控えている侍女のスーイラにペンを持ってくるように命じ、内容を見ることもなくサインしてボナパルトに返した。ボナパルトはそれを控えている副官のウジェーヌに渡す。


 テルマルタルは報告書をボナパルトにではなく、クルーミルに届けている。これは伯の立場からすれば当然の話である。彼の主君はクルーミルであり、報告の義務は女王に対してのみあるのだ。結果、ボナパルトが送り出した命令の返事はクルーミルに届き、クルーミルがボナパルトに伝えるという回りくどい構造になっている。


 命令文はテルマルタルの元に送り出されている通訳のシノーの手によって翻訳され伝えられることだろう。クルーミルが傍にいる間、ボナパルトは他の通訳を必要としない上、シノーの車椅子は山を越えるには不適だったので、彼女は今テルマルタルの軍営に入り文章の翻訳を果たしている。いわば、彼女はフランス軍の出張所になっていた。


シノー(アテナ)からの報告は完璧なフランス語で書かれておりフランス軍のどの将校よりも流麗な文章を書く」とは報告を受け取ったベルティエの言である。彼はシノーをテルマルタルの元に送り込むのに際して優秀なスタッフなのですが、とボナパルトに珍しく異議申し立てをしていた。


「こちらのお手紙はシノーからベルティエさんに宛てたものです」


「ベルティエに?」


 クルーミルは二通目の手紙を手渡した。


『お手紙ありがとうございます。ベルティエ様のお手紙は私の心を安からな場所に連れて行ってくださいますので、封を開ける音さえ心地よく聞こえてしまいます。書庫を解放するようにお計らいくださり、誠に嬉しく思います。私は『イーリアス』という本を借り受けています。ベルティエ様の世界の物語は大変奥深く、仕事の合間を縫って読み進めるのが幸せです。私のほうからも、実家に使いをやって『賢者ムルドの遍歴』という本を送っています。ぜひ感想をお聞かせください。また机を並べてベルティエ様の横顔を見る日を楽しみにしています……』


 完璧なフランス語で書かれた手紙を読んでボナパルトは眉を寄せたりほぐしたりとせわしなく動かした。


「なにこれ。なんの報告?」


「これは私的なお手紙ではありませんか?勝手にのぞき見するようなものではないかと……」


「伝令に何を運ばせてるのよベルティエのやつ!」


 ボナパルトはクルーミルに軍事戦略を説いていた時の鋭利な表情から毒気を抜かれて半分呆れたような顔になった。


「まあ、手紙の一枚二枚を託すのは別にいいではありませんか」


「ちっ」


 ボナパルトはそっぽを向いた。自分もイタリアにいた頃、妻であるジョゼフィーヌに宛てて私的な手紙を送り続けたことがあった。


「まあ、ベルティエに渡しておく。……それはそうと、貴女の報告書ってその三枚だけ?一枚はテルマルタルの報告書、一枚はその手紙、あと一枚は?」


 ボナパルトは話題をすり替えた。


「これはアビドードからのものです。政務の報告と、議会発足のための委員会を立ち上げているとのことです。仕事の大部分はアビドードや大臣たちに委任してきたので、彼らが上手くやってくれるでしょう」


「任せて大丈夫?」


「みな優秀なそれぞれの分野に秀でたものを登用しています。それに、私の決裁を待っていては政務が滞るでしょう。少なくとも遠征してる間は、彼らに任せて問題ありません」


 クルーミルは言い切った。彼女は自分に出来ることの限界を慎重に見極めているようにボナパルトには見える。ボナパルトが何もかもを自分で統御しようとする一方でクルーミルは委任できる部分は委任することにしているようだ。それはクルーミルの能力の欠如を意味するものではない。数万の軍勢を管理することと、数百万の民を統治することに求められる処理能力は全く異なっているのだ。もしクルーミルがここから国全体を支配しようとすれば、行政は著しい停滞を引き起こすことになるだろう。むしろ、委任することは彼女の君主としての器量を物語っていた。


「まあ、貴女がそう言うならそうなんでしょうね。……よし、食事も終わったし」


 ボナパルトは席を立つ。食事にはニ十分とかからなかった。


「ちょっと寝るわ」


 そう言ってボナパルトは座ったまま目をつむった。


「貴女も眠れる時に寝ときなさいよ。明日には山の出口の砦が落ちてる。平野に出たら忙しいわよ」


「落ちてる」と完了形で言われたことについてクルーミルが問いかけようとしたとき、ボナパルトは既に寝息を立てていた。


 働き、慌ただしく食事をしたらすぐに眠る。遊び盛りの子供のように次から次にせわしなく動き回り、それでいて絶えず思考を巡らせる顔が無垢に漂白された顔を見て、クルーミルは微笑みを浮かべ、スーイラに毛布を持ってくるように命じた。

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― 新着の感想 ―
少なくともボナパルトに見えている範囲では、敵の主力を取り逃す可能性はほぼ消失した。さて、この先はどうなるか…
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