第百十話 4ポンドの心臓
大山脈。草長の国と斧打ちの国を隔てる山脈をグルバスの人間はそう呼ぶ。斧打ちの国の伝説によれば山脈は鉄と石でできた巨大な女であり、全ての鉄と石は彼女から剥がれ落ちた皮膚であると伝えられる。伝説は続き、大山脈は渇きに苦しむ人々の願いを聞き届け天造神に願って自らの身体を裂かせると、そこから豊かな水があふれ出し、草長の国にはサオレ河が、斧打ちの国にはヴァノド河と呼ばれる大河になったとされている。事実、この山からは二つの川が発しているのだ。この山は偉大な聖地であり世界に数少ない「目に見える精霊」として崇められている存在でもあった。
その山脈のふもとの村にクレベール、ボン、レイニエ、そして新顔のダヴー将軍率いる四個師団が結集していた。騎兵部隊は山脈を越えるに適さないので、本軍に残っている。山脈には既に先行しているスフィラ率いるアンブローツィ傭兵団の精鋭五百が進み、全軍の索敵を務めていた。
「最高峰は推定4,000メートル。我々が進むアタソア峠は標高2,500メートル。ふもとまでの道のりは40キロメートルに達します。峠の道は巡礼の登山道として整備されており、完全装備の兵士が三人広がって通れます。山の中腹には小さな村があります。むき出しの岩や急勾配の場所が多々あり、馬車や荷車の通行は不可能ではありませんが困難でしょう」
山のふもと、フランス軍の集結地として選ばれた星見の村に置かれた司令部でボナパルトと将軍たちは先行して調査に当たっていたバクレ・ダルブ少佐から詳細な地勢の報告を受ける。
ボナパルトより八歳年上の浅黒い肌と人当たりの良い微笑を持つ活力に富んだこの男は、ボナパルトの出世のきっかけとなったトゥーロンの戦いから従っている優秀な参謀だった。参謀長のベルティエがボナパルトに集まる膨大な情報を処理するのに長けているように、ダルブは天性の地図製作者だった。
世界を知り尽くしたいという強欲なまでの探求心を以って、ダルブは地図を作っていた。時には騎兵を従え、時には農夫に化け、行商人や巡礼の僧侶を装って各地を踏破して回り詳細な地図を作ることに熱心なこの男は、イタリアに居た時から絶えずボナパルトの機動戦略に欠かせない詳細な地図を提供し続けており、ボナパルトはこの男の地味だが軍にとって欠かすことのできない能力を愛していた。
「アルプスを越えるよりは楽かもしれんが、雪の具合はどうだ?雪崩でも起きたら全軍がおしまいだぞ」
長い腕を組んだクレベール将軍が問いかけると、ダルブは行軍は明け方と夕方にするのが良く、雪崩が懸念される場所は事前に砲撃して雪崩を起しておくのが良いだろうと回答した。
「砲は?」
その問いはボン師団長から発せられた。それに応じるのは砲兵隊を預かるマルモンだ。彼もまたボナパルトと古い付き合いのある男であり、大砲の専門家である。ボナパルトの命を受けてグルバスにおいて大砲製造を成し遂げた彼の名はこの世界において砲兵の生みの親として記憶されるかもしれない。
「砲は4ポンド砲8門、8ポンド砲を9門。砲身は丸太をくり抜いてその中にいれて兵に引かせる。砲架は分解して、これも兵に運ばせる。弾薬と砲弾も同様だ」
残りの砲は騎兵部隊と共にテルマルタル伯指揮の本軍を行く。彼らはドンマルタン将軍に指揮されている。
「敵に作戦を察知された可能性は?」
そう発したのは新たに師団長に任命されたダヴー将軍だった。ボナパルトよりも若いが、その花崗岩を削って造形されたような険しい顔は彼に実年齢以上の貫禄を与えている。かけていた分厚い丸眼鏡を拭き直してダヴーは小さな司令官を睨みつけるように見つめた。
「リニーヴェン殿。その辺はどうかな」
ダヴーの眼力に怖気づいた少年の背中を押すような声でボナパルトが問う。大商人ネーヴェンの息子もこの場に居合わせていた。彼はフランス軍に物資を供給する多数の商人たちを統括するのと同時に、商人のネットワークを通じた諜報網を司っている。その背後に父親の巨大な姿があるとはいえ、その手腕は非凡なものだ。
「は、はい。山脈の出入り口付近に軍が移動しているとの報告はありません。山脈を出て最寄りのノランの街まで、商人たちの知らせでは敵はいません」
おずおずと地図を指差す。
「商人の報告がどれほど信用できますか。これに我々の命がかかってる」
ダヴーは子どもを無視してボナパルトの瞳だけをじっと見ていた。
「これには!」
存在を主張するようにリニーヴェンが声を上げる。
「これにはぼく、いえ、私たちの商会の運命もかかっています!」
歴戦の古強者に挑みかかる少年の声にダヴーはようやく目を向けた。
「失礼した。では間違いないのですな」
言葉の後半はボナパルトに向いている。
「ああ、間違いない」
司令官の言葉にダヴーは沈黙して服した。
◆
「兵隊!これよりわが軍は山脈を踏破し敵の背後に出る。この戦役で我らは戦争を終わらせるだろう。この世界に秩序を取り戻し、諸君は世界の救い主となる。この世界の運命が諸君の双肩にかかるを忘れるな。山の向こうにフランスがあるのだ。敵は未だ幾万の兵を抱え、その士気は高い。だが諸君らの敵ではない。思い返してほしい。我らが向かうところ、敵の剣は折れ、盾は砕けた。いかなる鎧兜も諸君らの銃火を防ぐ能わず。いかなる勇士も諸君らの武勇に及ばず。いかなる城壁も、諸君らの前に崩れ去ったではないか。勝利の日には、私は約束を果たして諸君らを一人残らず祖国へと連れ帰る。そして諸君は月桂冠を被り英雄として故郷に凱旋することとなるだろう。今回も諸君に期待してよいか。諸君を頼りにしてよいか!」
整列する兵士たちにボナパルトが姿を見せ、草原を吹き抜ける突風のように響き渡る声でそう宣言すると、地を揺らす歓呼の声がそれを迎えた。これより険しい山脈に挑む兵士たちは自分たちの征く先、ボナパルトの指図する先にいかなる困難が待ち受けようとそれを打ち破る気概と自信に満ち溢れていた。
「万歳!司令官万歳。共和国万歳!」
湖に投じられた巨石が波紋を広げるように沸き上がる声が鎮まるのを待った後、ボナパルトは運び込ませた弾薬輸送者から一発の砲を手に取った。
「各部隊ごとに割り当てられた砲弾と弾薬を運ぶように。私もこの通り砲弾を持っていこう」
各部隊は準備している補給官から各々に物資を受け取り、登山を開始した。クレベール師団が長い縦隊を作り、山を締め上げる蛇のようにのたうちながら進み始める。
「あなたも、砲弾を持っていくのですか?」
クルーミルの問いかけにボナパルトは肩を竦めた。
「そうよ」
今回は補給馬車が使えない分、兵士の背中に何もかもを運ばせる必要がある。とボナパルトは続ける。
「4.5キログラムのマスケット銃。10キロ近い8日分の携行糧食。22グラムの弾丸と火薬を50発。約15キロ。これが最低ライン」
兵士各自の毛布や着替え、調理器具、その他もろもろが残りの膂力に詰め込まれる。これに大砲も運び込まなければならない。
8ポンド砲は砲身だけで600キログラム近くになり、砲架は800キログラムに達する。小型の4ポンド砲ですら全体重量は1,000キロ近い。さらに各砲につき200発の砲弾を分配し、全体で3,400発の砲弾を運び込む手筈になっている。その重量は10トンにも達する。火薬は4ポンド砲は一度に1.5ポンド、グラムにして約700グラムの火薬を食う。3トンの火薬が兵士たちの背中にのしかかる計算になる。
「2万人で350トンを運び込む。平均して一人当たり17.5キログラム。これだけやって、わが軍は僅かに8日移動し、2回ほどの中規模の会戦をするのがやっと。しかも機動力は皆無」
ボナパルトは膨大な数字を苦も無く暗唱してのけた。それはこの戦役が始まってからボナパルトが延々と計算し続けていた値であり、数字は脳裏に焼き付いていた。
「私もこれを運ぶ必要がある」
ボナパルトは懐にいれた4ポンドの砲弾をクルーミルに見せる。真っ黒な鉄の弾は表面が欠けてざらざらとしていた。
「蹄鉄砦から回収した弾よ。この鉄の塊が、私の心臓。これが無ければ軍隊は3分と生きられない。この鉄くれが、人間の命を奪い、王国を滅ぼし、歴史を作り出す。私はこれより天の水門を開け放つ」
松明に照らされたその表情は、赤く照らされているにも関わらず凍っているようだった。
「……であるなら、私も一つ持っていきましょう、あなたと共に征くのですから」
クルーミルは荷車に積まれた砲弾を一つ拾い上げた。




