第5話 #2 接触
この星に降りてから、10年が経った。
男は街の人混みに紛れていた。
上空から都市を眺めることも、遠方から文明の発展を観察することもできる。
だが、今回はそうしなかった。
彼らと同じ道を歩き、同じ市場を訪れ、同じ場所で立ち止まる。
周囲の会話に耳を傾け、時には自分から声をかけた。
初めの数年は、言葉を学ぶことに費やした。
文法や単語だけではない。
言葉の抑揚。
間の取り方。
相手との距離。
表情や触角の動きによる感情表現。
この星の人々は、複数の惑星に広がっている。
地域によって発音や言い回しに多少の違いがあるようだが、根本的な言語体系は共通していた。
同じ種族なのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
それでも、彼らの一員として自然に振る舞うなら、現地の人間と区別がつかない程度には習得する必要があった。
「言葉の習得率は、ほぼ100%です」
「ほぼ、か」
「地域による表現の違いや、古い慣用句については、まだ完全ではありません」
「それは仕方ないな。徐々に覚えればいい」
チャッピーは何も言わなかった。
男は、彼らの時間感覚についても、少しずつ理解し始めていた。
平均寿命は300年から500年。
彼らにとって10年は、長い時間ではない。
街の人々は、10年前とほとんど変わらない姿で暮らしていた。
もっとも、街そのものは変わっている。
建物が増え、道路が整備され、新しい交通機関が導入された。
文明が停滞しているわけではない。
ただ、変化の速さが、彼らの寿命に対して比較的緩やかなのだ。
男は歩きながら考えた。
長く生きることは、社会にどんな影響を与えるのだろう。
一度覚えた技術を、数百年にわたって使い続ける者もいる。
反対に、何度も新しい仕事に就き、異なる人生を経験する者もいる。
彼らの生き方は、思っていた以上に多様だった。
*
彼らに宗教はなかった。
少なくとも、男が観察した範囲では、神や創造主を崇拝する習慣は確認できなかった。
死者を神聖視することも、死後の世界を信じることも、一般的ではないようだった。
ただし、彼らには独特の考え方があった。
それは、生きるための指針であり、社会を維持するための規範でもあった。
個人が守るべき事柄。
他者に対して行ってはならない事柄。
集団で生活するために必要な事柄。
それらが一つの体系としてまとめられ、法律と道徳の境界が曖昧になっている。
彼らは、それを特別なものとして扱わなかった。
生きるうえで、当たり前に必要なもの。
ただ、それだけだった。
「超常的存在や創造主を信じないのか?」
俺が何気なく尋ねたとき、相手は不思議そうに触角を動かした。
「信じる必要があるのか?」
「いや、必要というわけではないけどね」
「ならば、なぜ信じる?」
俺は答えに困った。
彼らにとって、世界は理解し、調べ、必要ならば変えていくものらしい。
分からないことがあれば、分からないままにしておく。
あるいは、研究する。
そこに超越的な存在を置く必要はなかった。
もちろん、彼らが何も信じていないというわけではない。
社会の規範や、他者への配慮、長い時間をかけて積み上げてきた知識。
そうしたものを、彼らは大切にしていた。
男は思った。
宗教がないことと、信念がないことは違う。
当たり前の話だった。
*
彼らには、明確な性別があった。
雌型と雄型。
雌型は生涯に何度か卵を産む。
卵を産んだ後、その保護と孵化は、基本的に雄型が担う。
卵が孵るまで、雄型は外敵や環境の変化から卵を守った時代の名残りだろう。
孵化した後も、すぐに親元を離れるわけではない。
雄型は子どもに知識を教え、社会の規範を身につけさせる。
周囲との関わり方。
危険を避ける方法。
社会の中で生きるために必要な知識。
そうしたものを教えながら、亜成体になるまで一緒に暮らす。
その後、子どもは独立する。
親の役割は、そこで一区切りとなる。
雌型が子育てをしないわけではない。
定期的に雄型と子どものもとを訪れ、成長を確かめる。
子どもへの愛情は、雄型にも雌型にも存在するようだった。
ただ、彼らには地球人のような夫婦という概念がなかった。
交接を行い、雌型が卵を産む。
その後は、それぞれの生活に戻る。
生涯を通じて一人の相手と暮らす必要もなければ、子どもの両親が同じ住居で暮らす必要もない。
彼らにとって、それはごく自然なことだった。
男は、この星で最も平均的な生活を送っていると思われる一組の親に注目した。
特別に裕福でもない。
社会的な地位が高いわけでもない。
知識や能力が際立っているわけでもない。
彼らの社会を知るには、まず普通の人々を知るのがよかった。
雌型の名前は、ヌェル・クァシェル。
雄型の名前は、グァル・ツェンディ。
地球人には発音しにくい名前だったが、男はすでに自然に発音できるようになっていた。
ヌェルは、先日、新しい卵を産んだばかりだった。
グァルは、その卵を保護していた。
男が彼らに注目したのは、特別な理由があったからではない。
ただ、彼らが平均的だったからだ。
この星の人々が、どのように子どもを育て、どのように愛情を示し、どのように生きているのか。
それを知るには、ちょうどよい対象だった。
*
グァルは、毎日決まった時間に住居を出ていた。
仕事に向かうためだ。
卵の保護を続けながら働くことができるのは、社会の仕組みが整っているからだった。
卵を安全に保管する設備。
保護者の負担を軽減する制度。
必要に応じて利用できる支援施設。
彼らは長い歴史の中で、そうした仕組みを作り上げていた。
男は、グァルの生活をしばらく観察した。
やがて、接触する機会が訪れた。
街の公共施設で、男はグァルの隣に座った。
「今日は、少し疲れているようだな」
グァルは、ゆっくりと男の方を向いた。
触角がわずかに動く。
「そう見えるか?」
「ああ。何かあったのか?」
「卵のことが気になってね」
グァルは、少しだけ姿勢を変えた。
「まだ孵化には時間がかかる。それは分かっているんだが、何か問題が起きていないか、つい気になってしまう」
「初めての卵なのか?」
「いや。以前にも経験はある」
「それでも心配なんだな」
「そういうものだろう?」
俺は、思わず笑いそうになった。
どこの星でも、親というものは似たようなものなのかもしれない。
もちろん、彼らと地球人は違う。
姿形も、生理的な構造も、寿命も、文化も違う。
それでも、目の前の卵を心配する気持ちは、理解できる気がした。
「そうだな。そういうものかもしれない」
男は、そう答えた。
グァルは男を見た。
「君にも子どもがいるのか?」
男は、ほんの一瞬だけ考えた。
「いや。私にはいない」
「そうか」
グァルは、それ以上尋ねなかった。
彼らには、他者の事情を無理に聞き出さないという習慣があるようだった。
会話はそこで終わった。
しかし、俺は翌日も同じ場所を訪れた。
グァルもまた、そこにいた。
二人は、少しずつ言葉を交わすようになった。
仕事の話。
街の話。
最近変わった制度の話。
そして、卵の話。
グァルは、卵が孵る日を楽しみにしていた。
男も、その日が来るのを待つことにした。
この星の人々が、どのように子どもを育て、どのように成長を見守るのか。
それを、もっと近くで知りたかった。
彼は、自分の正体を明かすつもりはなかった。
この星で暮らす、ただの一個体として。
それで十分だった。




