第4話 生命質量転換仮説
生命質量転換仮説
――俗称、生贄理論
地球の滅亡まで、残された時間は10年。
それは、誰にも覆せない結論だった。
科学者たちはあらゆる可能性を検討し、各国の政府は対策を講じ、莫大な資金と人材が投入された。
それでも、結果は変わらなかった。
人類だけではない。
動物も、植物も、微生物も。
地球に生まれ、長い年月をかけて進化し、繁栄してきた生命のすべてが、まもなく終わりを迎える。
人類は宇宙への移住を試みた。
しかし、数十億もの人間を移住させることなどできない。まして、地球上に存在する無数の生物を、すべて別の星へ運ぶことなど不可能だった。
冷凍保存、人工生命、遺伝情報の記録。
考え得る方法は、ことごとく検討された。
だが、遺伝情報を保存することと、生命そのものを存続させることは違う。
記録された設計図が残ったところで、それを再び生命へと戻せる保証はない。
時間だけが過ぎていった。
そんな絶望的な状況の中、一人の科学者が、誰も考えつかなかった仮説を提唱した。
生命質量転換仮説。
生命を構成する物質を、未知の変換過程によって膨大なエネルギーへと転換する。そして、そのエネルギーを特定の器へ集約し、生命が持つ情報と可能性を失わずに保存する。
理論上、それが可能ならば。
地球上の全生命を、一つの存在に集約できる。
無数の生命を個別に保存する必要はない。
一つの器さえあればいい。
ただし、実現するためには、生命の質量を転換するだけでは足りなかった。
集約したエネルギーを保持し、それを自在に制御できる器が必要だった。
そして、その器は生命でなければならない。
無機物では耐えられない。既存の機械では制御できない。人工的に作られた容器では、生命の持つ複雑な性質を維持できない。
必要だったのは、エネルギーを内包し、保存し、必要に応じて行使できる存在。
一人の人間だった。
それも、ただの人間ではない。
生命質量転換仮説を成立させるために、理論のすべてを受け止められる特別な器。
科学者は研究を重ね、試行錯誤の末に、その実現方法を見つけ出した。
それは、あまりにも途方もない計画だった。
地球上の全生命を、一人の人間に託す。
人間も、動物も、植物も、目に見えない無数の生命も。
地球が生み出したすべての命を、たった一人に集約する。
その人物こそ、科学者の息子だった。
なぜ一人なのか。
複数の人間に分散すれば、エネルギーの制御が難しくなる。生命を分けて保存すれば、滅亡後にそれらを再び集める保証もない。
一つの器にすべてを託す。
それが、生命を未来へ繋ぐための最後の方法だった。
人々は、やがてこの仮説を別の名前で呼ぶようになる。
[生贄理論]
地球上の生命を犠牲にして、一人の人間を生かす理論。
そう聞けば、確かにその通りだった。
だが、本当の意味は違う。
一人を生かすために、すべての生命を犠牲にするのではない。
すべての生命を未来へ繋ぐために、一人に託すのだ。
それは、ノアの方舟に似ていた。
ただし、箱はない。
船倉もない。
無数の生物を乗せる必要もない。
方舟そのものが、人間だった。
そして、その方舟には、行き先がなかった。
地球は滅びる。
主人公は宇宙へ旅立つ。
いつか生命が再び繁栄できる星を見つけるために。
それまでの間、地球が生み出したすべての生命は、一人の人間の内側で眠り続ける。
彼は人間の姿をしている。
食事も、睡眠も、呼吸さえも必要としない。
途方もないエネルギーを内包し、その力を使えば、普通の生命には不可能なことさえ実現できる。
全能の存在にも見えるだろう。
だが、彼は神ではない。
地球上の生命が託された、ただ一人の人間にすぎない。
彼が宇宙を彷徨う理由は、世界を支配するためでも、未知の力を試すためでもない。
ただ、生きる場所を探している。
地球が失われた後も、生命が存在し続けられる場所を。
父親が生み出した、あまりにも馬鹿げた方法で。
それでも確かに、生命を未来へ繋ぐための方法を。




