第70話 おかえり
「……ただいま」
俺が。
そう呟いた瞬間。
世界が。
静かになった。
風も。
木々のざわめきも。
仲間たちの声も。
全部。
遠くなったような気がした。
目の前にあるのは。
懐かしい家。
古びた木の扉。
小さな窓。
庭にある一本の木。
そして。
その玄関の前に立つ。
一人の女性。
「……」
俺は。
動けなかった。
声が出ない。
胸の奥が。
痛い。
でも。
嫌な痛みじゃない。
ずっと。
忘れたくなかった痛み。
「レオン」
隣から。
ユウトの声がする。
俺は。
振り返らなかった。
「……兄ちゃん」
「ああ」
「行こう」
「……」
「俺も」
「一緒に行くから」
俺は。
ゆっくり。
頷いた。
そして。
一歩。
門の向こうへ。
足を踏み入れた。
――その瞬間。
空気が変わった。
懐かしい匂い。
料理の匂い。
木の匂い。
洗濯物の匂い。
そして。
誰かが。
そこで暮らしている匂い。
「……」
俺の目から。
また。
涙が落ちた。
女性が。
こちらへ歩いてくる。
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
「大きくなったね」
その声。
俺は。
知っている。
忘れることなんて。
できるはずがない。
「……母さん」
女性は。
優しく笑った。
「うん」
「……」
俺は。
拳を握った。
何度も。
夢に見た。
何度も。
会いたかった。
何度も。
もう一度。
話したかった。
だけど。
これは。
本物なのか。
俺は。
一歩も。
近づけなかった。
「……母さん」
「なに?」
「……本当に」
「ここにいるの?」
母さんは。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
「違うよ」
「……」
「私は」
「あなたが覚えている」
「私じゃない」
俺は。
息を止めた。
「……」
「ここにいる私は」
母さんは。
胸に手を当てる。
「あなたが」
「心の中で」
「ずっと守ってきた」
「未来の私」
「……未来?」
「うん」
「この家で」
「あなたたちが」
「普通に暮らしていたら」
「そうなっていたかもしれない」
俺は。
目を伏せた。
そういうことか。
これは。
過去じゃない。
失ったものを。
取り戻す場所でもない。
これは。
俺たちが。
選ばなかった。
一つの未来。
「……」
母さんが。
俺の頬に。
手を伸ばす。
温かい。
でも。
少しだけ。
透けている。
「触れられる……」
「未来だから」
母さんは。
笑った。
「あなたが」
「選べば」
「もっと」
「近くなる」
「……」
「でも」
「無理に選ばなくていい」
俺は。
顔を上げた。
「え?」
「あなたは」
「もう」
「誰か一人を選ぶ必要はないでしょう?」
「……」
母さんが。
笑う。
「ずいぶん」
「頑張ったね」
その言葉で。
胸の奥に。
溜まっていたものが。
全部。
崩れた。
「……俺」
「うん」
「ずっと」
「怖かった」
「うん」
「ユウトを助けたら」
「誰かが死ぬ」
「世界を救ったら」
「誰かを失う」
「俺が生きたら」
「別の誰かが消える」
「だから」
俺は。
涙を拭った。
「ずっと」
「正しい答えを」
「探してた」
母さんは。
黙って聞いている。
「でも」
俺は。
笑った。
「正しい答えなんて」
「なかったんだ」
「……」
「みんなが」
「自分で選んでいい」
「それだけだった」
母さんは。
優しく。
頷いた。
「うん」
「それでいいんだよ」
その時。
背後から。
声がした。
「……母さん」
ユウトだった。
母さんが。
ユウトを見る。
「ユウト」
「……」
ユウトは。
泣きそうな顔で。
笑った。
「久しぶり」
「うん」
「俺」
「元気だよ」
「知ってる」
「兄ちゃんが」
「ずっと」
「頑張ってくれたから」
母さんは。
二人を見る。
そして。
嬉しそうに笑った。
「二人とも」
「ちゃんと」
「大きくなったね」
俺は。
母さんを見る。
「……母さん」
「なに?」
「一つだけ」
「聞いていい?」
「もちろん」
「もし」
俺は。
少し迷ってから。
尋ねた。
「もし」
「俺が」
「もっと早く」
「違う選択をしてたら」
「母さんは」
「生きてた?」
沈黙。
母さんは。
すぐには。
答えなかった。
そして。
ゆっくり。
首を横に振った。
「分からない」
「……」
「未来は」
「一つじゃないから」
「……」
「あなたが」
「どんな選択をしても」
「必ず」
「誰かが笑って」
「誰かが泣く」
「それが」
「生きるってこと」
俺は。
黙って。
聞いていた。
「だから」
母さんは。
俺の手を。
握った。
「自分を」
「責めないで」
「……」
「あなたは」
「あなたにできることを」
「ちゃんと」
「やったよ」
俺は。
その手を。
握り返した。
「……ありがとう」
「うん」
その瞬間。
家の中から。
物音がした。
「……?」
トタトタ。
小さな足音。
母さんが。
振り返る。
「あら」
「……?」
玄関の奥から。
小さな男の子が。
顔を出した。
年齢は。
三歳くらい。
黒い髪。
そして。
俺と同じ。
赤い目。
「……誰?」
男の子が。
俺を見る。
俺は。
固まった。
「……」
母さんが。
笑った。
「あなたの」
「弟だよ」
「……!」
ユウトも。
目を見開く。
「弟……?」
「うん」
男の子は。
俺たちを見て。
首を傾げる。
「お兄ちゃん?」
俺は。
答えられなかった。
これは。
知らない未来。
俺が。
選ばなかった未来。
俺たちに。
もう一人。
家族がいた未来。
「……」
男の子が。
俺のところへ。
駆けてくる。
そして。
俺の服を掴む。
「お兄ちゃん」
「……」
「遊ぼ」
俺は。
膝をついた。
「……ああ」
「何して遊ぶ?」
「おにごっこ!」
「分かった」
俺は。
笑った。
「じゃあ」
「逃げろ」
「うん!」
男の子が。
庭へ走っていく。
俺も。
追いかける。
「待てー!」
「きゃー!」
笑い声。
庭を。
走り回る。
何も起きない。
世界が滅びることもない。
誰かが犠牲になることもない。
ただ。
弟と。
遊ぶ。
それだけ。
――それだけなのに。
俺は。
泣いていた。
「……兄ちゃん」
ユウトが。
笑う。
「よかったね」
「ああ」
「俺も」
「うん」
「こういう未来」
「好きだよ」
俺たちは。
しばらく。
庭で遊んだ。
やがて。
夕方になる。
空が。
赤く染まる。
母さんが。
家の中から。
声をかける。
「ご飯できたよー」
「はーい!」
俺が。
返事をする。
ユウトも。
笑う。
「帰ろう」
「うん」
俺たちは。
家へ戻る。
玄関を開ける。
そこには。
食卓があった。
四人分。
俺。
ユウト。
母さん。
そして。
小さな弟。
「……」
胸が。
締め付けられる。
こんな未来も。
あったんだ。
俺が。
知らなかっただけで。
ずっと。
どこかに。
存在していた。
食卓につく。
「いただきます」
四人の声。
料理を。
口に運ぶ。
美味しい。
普通に。
美味しい。
母さんが。
笑う。
弟が。
騒ぐ。
ユウトが。
笑う。
俺も。
笑う。
――こんな時間が。
欲しかった。
ずっと。
欲しかった。
けれど。
その時。
俺は。
気づいた。
何かが。
おかしい。
「……」
俺は。
箸を止めた。
「どうしたの?」
ユウトが。
聞く。
「いや」
俺は。
周囲を見る。
この家。
この家族。
この未来。
完璧すぎる。
「……」
俺の胸の。
三つの光が。
同時に。
点滅した。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
そして。
窓の外が。
真っ黒になった。
「……!」
俺は。
立ち上がる。
「何?」
ユウトも。
立つ。
母さんが。
振り返る。
「どうしたの?」
俺は。
窓を見る。
そこには。
何もない。
空も。
星も。
全部。
消えている。
「……」
そして。
窓ガラスに。
文字が浮かんだ。
『この未来は、選択されていません』
「……!」
さらに。
文字が。
増える。
『よって、存在を維持できません』
「ふざけるな……!」
俺は。
窓へ駆け寄った。
拳を握る。
「この未来も」
「この家族も」
「誰かが選ばなかったからって」
「消えるのかよ!」
返事はない。
母さんが。
俺を見る。
悲しそうに。
笑った。
「レオン」
「……!」
「行って」
「嫌だ」
「あなたの場所は」
「ここじゃない」
「嫌だ!」
俺は。
母さんの手を掴む。
「今度こそ」
「今度こそ」
「守る!」
「レオン」
母さんは。
首を横に振った。
「守るんじゃない」
「……」
「選ぶの」
「……」
「私たちが」
「ここにいたいと」
「自分で選ぶの」
俺は。
ハッとした。
「……」
母さんは。
俺を見る。
「この未来を」
「消さないでほしいなら」
「あなた一人で」
「戦わないで」
「……」
「ここにいる」
「私たち自身に」
「選ばせて」
その瞬間。
家の中が。
光に包まれた。
母さん。
ユウト。
弟。
三人の胸から。
小さな光が。
浮かび上がる。
「……!」
それぞれの光が。
俺の胸へ。
向かってくる。
だが。
俺は。
手を伸ばして。
止めた。
「違う」
「……?」
「俺が」
「この未来を」
「背負うんじゃない」
俺は。
三人を見る。
「みんなが」
「自分で」
「ここにいることを」
「選ぶんだ」
母さんが。
笑った。
「うん」
ユウトも。
頷く。
「俺は」
「ここにいたい」
弟も。
笑う。
「ぼくも!」
三つの光が。
今度は。
俺の胸には入らず。
家全体へ。
広がっていく。
――ドクン。
家が。
光る。
庭が。
光る。
村が。
光る。
そして。
世界全体が。
輝き始めた。
窓に浮かんでいた文字が。
一つずつ。
消えていく。
『未選択』
『維持』
『選択』
最後に。
一つだけ。
新しい文字が浮かぶ。
『共存』
「……」
俺は。
その文字を。
見つめた。
すると。
背後から。
聞き慣れた声がした。
「……そういうことだったのか」
振り返る。
そこには。
ハルがいた。
その隣に。
ルナ。
そして。
仲間たちもいる。
「この門は」
ハルが。
静かに言う。
「誰か一人の未来を」
「選ぶための門じゃない」
「……」
「選ばれなかった未来と」
「今の未来を」
「一緒に存在させるための門なんだ」
ルナが。
頷く。
「だから」
「この家も」
「消えない」
俺は。
胸を撫でる。
三つの光が。
静かに輝いている。
「……」
だけど。
俺は。
まだ。
気づいていなかった。
この世界の外。
遥か遠く。
無数の門の向こう側。
一つの巨大な影が。
俺たちを見ていた。
その影は。
ゆっくりと。
目を開く。
「……ようやく」
低い声が。
響く。
「見つけた」
「最後の欠片を」
その瞬間。
俺の胸にある。
三つの光のうち。
一つが。
突然。
黒く染まった。
「――っ!」
胸を押さえる。
「レオン!?」
アリアが。
駆け寄ってくる。
「どうしたの!?」
「分からない……!」
黒い光が。
脈打つ。
――ドクン。
――ドクン。
そして。
俺の頭の中に。
声が響いた。
『レオン』
「……誰だ」
『お前が』
『最初の願いを』
『口にするより』
『もっと前』
「……」
『お前が』
『まだ』
『ユウトのことすら』
『知らなかった頃』
「……何を言ってる?」
声が。
笑う。
『その時から』
『一つの未来が』
『存在していた』
「……」
『お前が』
『最初の願いを』
『口にした瞬間』
『その未来だけが』
『世界から』
『切り離された』
「……!」
俺は。
息を呑んだ。
『それが』
『今』
『帰ってきた』
黒い光が。
さらに。
強く輝く。
そして。
俺の目の前に。
一つの門が。
現れた。
今までの門とは。
違う。
白くもない。
黒くもない。
ただ。
何もない。
完全な透明。
その門の向こうには。
何も見えない。
文字だけが。
刻まれている。
『第零の門』
「……第零?」
原初が。
初めて。
顔色を変えた。
「そんなものは」
「存在しない」
「……」
「世界が生まれる前に」
「選択という概念すら存在しなかった」
原初が。
震える声で。
続ける。
「そこに」
「門があるはずがない」
俺は。
透明な門を見る。
そして。
その向こうから。
聞こえた。
赤ん坊の声でもない。
母さんの声でもない。
ユウトの声でもない。
俺自身の声でもない。
もっと。
もっと。
古い声。
『――レオン』
「……」
『お前が』
『最初の願いを』
『選ぶ前の世界へ』
門が。
ゆっくり。
開き始めた。




