第58話 最初の願い
――静かだった。
あまりにも静かで。
逆に。
耳が痛くなるほどだった。
俺は。
白い病室の前に立っていた。
見覚えがある。
いや。
忘れるはずがない。
ここは。
俺が。
すべてを始めた場所だ。
「……兄ちゃん」
隣にいたユウトが。
小さく呟く。
「ここ」
「ああ」
俺は。
頷いた。
「俺たちの」
「最初の世界だ」
廊下の先。
病室の中には。
一人の少年がいる。
ベッドの上で。
眠っている。
ユウト。
まだ。
何も知らない頃の。
俺の弟。
そして。
その隣には。
幼い俺がいた。
ベッドの横に座って。
弟の手を。
ずっと握っている。
「……」
俺は。
自分の姿を見つめる。
小さな手。
震える肩。
泣き腫らした目。
そして。
必死に祈っている。
『神様』
『お願い』
『ユウトを助けて』
『俺の命をあげてもいいから』
「……」
胸が。
苦しくなった。
分かっている。
この言葉が。
すべての始まりだった。
一つの願い。
一つの犠牲。
そして。
何度も繰り返された世界。
俺は。
ゆっくり。
病室へ入った。
「……!」
幼い俺が。
顔を上げた。
こちらを。
見ている。
当然だ。
この世界では。
俺たちは。
存在しないはずなのだから。
「……誰?」
幼い俺が。
怯えた声を出す。
俺は。
答えられなかった。
その顔を。
見るだけで。
胸が締め付けられる。
俺の。
過去だから。
俺が。
すべてを始めた。
その本人だから。
すると。
幼い俺の隣にいるユウトが。
ゆっくり。
目を開けた。
「……兄ちゃん?」
俺の隣にいるユウトが。
息を呑む。
「……俺だ」
病室のユウトが。
俺を見る。
「兄ちゃん?」
「違う」
幼い俺が。
首を振った。
「兄ちゃんはここにいる」
そう言って。
ベッドの横の。
幼い俺を見る。
俺は。
思わず。
苦笑した。
そうだった。
あの頃の俺には。
世界のすべてが。
ユウトだった。
「……なあ」
幼い俺が。
俺に尋ねる。
「お兄さん」
「……」
「ユウト」
「助かる?」
俺は。
黙った。
答えは。
分かっている。
この世界のユウトは。
このままなら。
助からない。
だけど。
だからといって。
俺が。
過去を変えることは。
できない。
第四の選択。
これは。
過去を改変する試験じゃない。
俺は。
そう理解していた。
「助かる」
俺は。
答えた。
幼い俺の目が。
大きく開く。
「本当?」
「ああ」
「どうやって?」
「……」
俺は。
一瞬。
言葉に詰まった。
以前の俺なら。
きっと。
こう答えていた。
『俺の命をあげればいい』
でも。
今は違う。
俺は。
しゃがみ込み。
幼い自分と目線を合わせた。
「ユウトを助ける方法は」
「一つじゃない」
「……?」
「誰か一人が」
「全部を背負う必要もない」
幼い俺は。
不思議そうな顔をする。
「でも」
「神様にお願いしたら」
「俺が代わりになれば」
「ユウトは助かるって」
「誰が言った?」
「……俺」
「どうして?」
「だって」
幼い俺は。
俯いた。
「ユウトがいなくなるのが」
「嫌だから」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が。
熱くなった。
そうだ。
俺は。
ユウトを救いたかった。
だけど。
本当は。
それだけじゃない。
俺は。
ユウトと。
一緒に生きたかった。
「だったら」
俺は。
幼い俺の頭に。
手を置いた。
「願いを」
「もう一度」
「言ってみろ」
「……?」
「今度は」
「自分の命を」
「犠牲にするんじゃなくて」
「何を望んでいるのか」
「ちゃんと」
「言葉にするんだ」
幼い俺は。
しばらく考えた。
そして。
ベッドの上のユウトを見る。
「……一緒に」
「うん?」
「ユウトと」
「一緒に生きたい」
「……」
「ずっと」
「一緒に」
「笑いたい」
「喧嘩もしたい」
「大人になって」
「一緒に遊びに行きたい」
「……」
「ユウトが」
「俺より先に」
「死ぬのは嫌だ」
幼い俺の目から。
涙が。
落ちた。
「だから」
「一緒に生きたい」
その瞬間。
病室が。
光に包まれた。
「……!」
俺の胸の。
第四の鍵が。
激しく輝く。
――約束。
俺は。
その光を見つめた。
「そうだったんだな」
隣にいるユウトが。
俺を見る。
「兄ちゃん」
「ああ」
「最初の願いって」
「助けて、じゃなかったんだね」
「……」
俺は。
頷いた。
「ああ」
本当の願いは。
もっと単純だった。
もっと。
当たり前だった。
――一緒に生きたい。
ただ。
それだけだった。
すると。
病室の扉が。
ゆっくり。
開いた。
「……!」
そこに。
一人の男が。
立っていた。
銀色の髪。
赤い瞳。
黒い服。
観測者。
「お前……」
俺が。
立ち上がる。
観測者は。
何も言わない。
ただ。
幼い俺と。
ユウトを見つめている。
「ここは」
「お前が」
「最初に選択した場所だ」
「……ああ」
「なら」
観測者は。
静かに言った。
「第四の選択は」
「この願いを」
「否定することだ」
「……何?」
俺は。
目を細めた。
観測者が。
手を上げる。
すると。
病室の光景が。
一瞬で変わった。
ベッドのユウトが。
消える。
「……!」
「ユウト!」
幼い俺が。
叫ぶ。
病室の扉が。
開く。
そこから。
黒い影が。
入ってくる。
そして。
幼い俺の前に。
一つの選択肢が。
現れた。
『ユウトを救う』
『ただし――』
『レオンの命を失う』
「……」
俺は。
歯を食いしばる。
「また」
「これか」
観測者は。
頷く。
「世界は」
「常に」
「代価を求める」
「それが」
「世界の法則だ」
「違う」
「何?」
「それは」
俺は。
観測者を睨む。
「お前たちが」
「そういう世界に」
「してきただけだ」
「……」
「願いには」
「犠牲が必要」
「救うには」
「何かを失う必要がある」
「そんなもの」
「絶対じゃない」
観測者が。
静かに答える。
「では」
「証明しろ」
「……」
「この少年に」
「もう一度」
「選ばせろ」
幼い俺が。
震えている。
「お兄さん……」
俺は。
振り返った。
「大丈夫だ」
「でも」
「ユウトが」
「いなくなる」
「大丈夫」
「どうして?」
「俺が」
「ここにいる」
幼い俺は。
涙を拭う。
「……?」
俺は。
自分の胸を。
指差した。
「お前が」
「昔の俺なら」
「俺は」
「今のお前だ」
「……」
「そして」
「お前の願いは」
「間違ってない」
幼い俺の瞳に。
光が戻る。
「でも」
「俺が死んだら」
「ユウトは」
「生きられる」
「それでも」
俺は。
首を横に振った。
「それは」
「お前の願いじゃない」
「……」
「お前は」
「ユウトと一緒に」
「生きたいんだろ?」
幼い俺は。
ゆっくり。
頷いた。
「だったら」
「選ぶな」
「……え?」
「その二つから」
「選ばなくていい」
観測者が。
初めて。
声を荒らげた。
「それでは」
「第四の選択を」
「越えられない!」
俺は。
振り返る。
「違う」
「……」
「それこそが」
「第四の選択なんだ」
世界が。
静まり返る。
「誰かを犠牲にする未来と」
「誰かを救うために」
「自分を犠牲にする未来」
「その二つしかないなら」
「俺たちは」
「三つ目を作る」
観測者の。
赤い瞳が。
大きく揺れた。
「……三つ目?」
「ああ」
俺は。
幼い俺の前に。
手を差し出す。
「一緒に探す」
「……」
「ユウトを救う方法を」
「誰も死なない方法を」
「一緒に生きる方法を」
幼い俺は。
その手を見る。
そして。
ゆっくり。
手を伸ばした。
――ぎゅっ。
小さな手が。
俺の手を握った。
その瞬間。
世界が。
大きく揺れた。
病室の壁が。
崩れていく。
床が。
光へ変わる。
天井が。
消える。
そして。
幼い俺の身体から。
一つの光が。
浮かび上がった。
それは。
小さな鍵だった。
「……」
俺は。
それを見つめる。
第四の鍵。
約束。
だが。
その隣に。
もう一つ。
小さな光が。
生まれた。
「これは……?」
ユウトが。
呟く。
観測者も。
言葉を失っている。
光は。
ゆっくり。
形を変える。
そして。
一つの文字になる。
『第五の選択』
「……」
俺は。
息を呑んだ。
「まだ」
「あるのか」
観測者が。
初めて。
恐怖を見せた。
「違う」
「……?」
「これは」
観測者が。
震える声で。
言う。
「私たちが」
「想定していなかった」
「選択だ」
「……何?」
その瞬間。
世界が。
真っ白になった。
そして。
どこからともなく。
声が聞こえた。
――俺の声。
『レオン』
「……!」
『お前は』
『本当に』
『全員を救えると思っているのか?』
「……」
『もし』
『どうしても』
『誰か一人しか』
『救えないなら?』
『もし』
『全員を救おうとした結果』
『全員が死ぬなら?』
『それでも』
『誰も選ばないのか?』
俺は。
答えられなかった。
初めて。
言葉が。
出なかった。
その問いだけは。
今までとは違う。
犠牲を選ぶか。
拒否するか。
そんな単純な話じゃない。
――もし。
本当に。
全員を救えないのなら。
俺は。
どうする?
隣で。
ユウトが。
俺を見る。
「兄ちゃん」
「……」
「俺は」
「どっちでもいいよ」
「……何?」
「兄ちゃんが」
「選んだ未来なら」
「俺は」
「一緒に行く」
「……」
俺は。
拳を握った。
すると。
アリアの声が。
遠くから。
聞こえた。
『レオン!』
「……!」
セリアの声。
『レオン! 聞こえる!?』
セレナ。
『戻ってきてください!』
ノア。
『一人で考えるな!』
カイン。
『俺たちがいる!』
リナ。
『一緒に考えよう!』
ミア。
『レオン……!』
そして。
ユナ。
『お兄ちゃん!』
俺は。
目を閉じた。
そして。
笑った。
「……そうだったな」
俺は。
一人じゃない。
だから。
答えは。
もう。
決まっていた。
俺は。
空へ向かって。
言った。
「全員を救えるかどうかなんて」
「まだ分からない」
「でも」
俺は。
拳を握る。
「最初から」
「一人で答えを出すつもりはない」
「俺たち全員で」
「答えを探す」
「それでも」
「誰か一人しか救えないなら」
「その時は」
俺は。
前を見る。
「その時になってから」
「みんなで決める」
世界が。
震えた。
そして。
どこかで。
何かが。
壊れる音がした。
――パキン。
観測者が。
呆然と呟く。
「……選択の」
「前提条件が」
「崩れた……」
俺は。
ユウトを見る。
「帰ろう」
「うん」
「みんなのところへ」
「うん」
俺たちは。
光の中へ。
歩き出した。
その直前。
幼い俺が。
後ろから。
声をかけた。
「お兄さん!」
俺は。
振り返る。
幼い俺は。
笑っていた。
「ありがとう!」
「……」
俺も。
笑う。
「こっちこそ」
そして。
光が。
すべてを包んだ。
――。
――――。
目を開ける。
そこには。
アリアがいた。
「レオン!」
「……アリア?」
「よかった……!」
彼女が。
俺の肩を掴む。
「急に倒れたんだよ!」
「どれくらい?」
「ほんの数分」
「……そうか」
俺は。
周囲を見る。
みんなが。
いる。
ユウトも。
いる。
そして。
世界樹も。
まだ。
生きている。
「第四の選択は?」
セリアが。
尋ねる。
俺は。
ゆっくり。
頷いた。
「終わった」
「……本当に?」
「ああ」
「何を選んだの?」
俺は。
みんなを見る。
そして。
答えた。
「誰も」
「選ばなかった」
一瞬。
沈黙。
そして。
アリアが。
微笑んだ。
「……それでいい」
「ああ」
だが。
その瞬間。
世界樹の奥から。
大きな音がした。
――ドン。
全員が。
振り向く。
「……何?」
――ドン。
もう一度。
そして。
世界樹の中央に。
新たな扉が。
浮かび上がった。
白い扉。
その表面には。
一つの言葉。
『第五の選択――未来』
俺は。
その文字を見つめる。
そして。
扉の向こうから。
聞こえた。
俺たち全員が。
知っている声。
「……レオン」
「え?」
アリアが。
息を呑む。
その声は。
――もう一人の俺。
世界樹と融合した。
百七十三番目の世界の。
もう一人のレオンだった。
『次は』
『俺を選べ』
「……!」
俺は。
扉へ。
近づいた。
すると。
声が。
続く。
『俺を犠牲にすれば』
『この世界は』
『完成する』
「……」
『お前が望んだ』
『誰も犠牲にならない世界を』
『作るためには』
『俺一人が』
『犠牲になればいい』
俺は。
拳を握る。
「……またか」
『レオン』
「何だ」
『今度こそ』
『俺を選べ』
俺は。
扉に手を置いた。
「――断る」
そして。
扉を開いた。




