第9話-人間の隣にいてもいい?
エルは、その後も監理班区画で経過観察を受けた。
一人にはされない。
願いを話す必要のある職員は、精神保護室の職員を通す。
エル本人へ不用意に答えを求めない。
刺激を避けるためではない。
何が普段と違うのかを確認するためだった。
残留検査を受けていた若い監理班職員が、普通の花を見ながら言った。
「先ほどの光で、以前ここにいた人を思い出しました」
精神保護室の職員が確認する。
「自分で話すと決めた内容ですか」
「はい」
副長はエルを見る。
「聞くだけにできますか」
「うん」
「結果を想像しないでください」
「うん」
若い職員は、少し離れた椅子へ座った。
「以前、この区画にいた職員です」
エルは黙って聞く。
「同じ時期に監理班へ入って、長い間、一緒に仕事をしていました。忙しくなると私の書類を勝手に取り上げて、もう十分だから食事へ行けと言う人でした」
「今は、いない?」
「監理局にはいません」
エルの指が、服の裾へ触れる。
「遠い惑星の監理機関へ移りました。生きています。今も、そこで仕事をしています」
「どうして、いなくなった?」
職員は少し黙った。
「喧嘩をしました」
「喧嘩」
「大きな判断を巡って、意見が分かれました。お互い、言ってはいけないことも言いました。その直後に、あの人へ長期赴任の話が来た」
「行った」
「はい」
「止めなかった?」
「止めませんでした」
若い職員は、自分の両手を見る。
「腹が立っていました。向こうも、私の顔を見たくなかったと思います」
「今も?」
「今は、分かりません」
「話してない?」
「何年も」
「会いたい?」
「はい」
答えは、迷いなく出た。
その声は、朝の願いより深かった。
認めてほしいという願いより、もっと複雑だった。
会いたい。
話したい。
謝りたい。
謝ってほしい。
以前のように笑いたい。
けれど、自分から通信を開くのは怖い。
拒まれるかもしれない。
相手はもう、自分のいない場所で新しい生活を築いているかもしれない。
エルは、教わった順番を思い出す。
「どうしてほしい?」
職員は、すぐには答えなかった。
沈黙が続く。
誰も急かさない。
エルも待った。
待てていた。
「分かりません」
やがて、職員が言う。
「会いたいです。でも、あの頃に戻りたいのかと聞かれると……分かりません」
「あの頃」
「一緒に仕事をしていた頃です」
区画の隅に、空いた机が一つあった。
現在の人員配置では使用されていない、予備の机。
その机に、以前の職員が座っている光景を、エルは想像した。
若い職員の手から書類を取り上げる。
もう十分だと言う。
一緒に食堂へ向かう。
二人は喧嘩をしない。
長期赴任の話が来ても、断る。
あるいは、そもそも赴任の話が来ない。
二人はずっと監理班で働いている。
あの日、言ってはいけない言葉を口にしなかった結果。
関係が壊れなかった結果。
会いたいと思う必要さえなかった世界。
幸せに見えた。
普段のエルなら、そこで止まっていた。
本人は、分からないと答えている。
相手の意思も確認されていない。
何年も離れていた時間には、二人とは別の人々と、別の選択と、別の生活がある。
エルは全部、知っていた。
それでも、その日は答えを作った。
空いた机の上に、一冊の記録端末が現れた。
誰も置いていない。
古い型式。
かつて、その職員が使っていたものと同じ型だった。
若い職員が息を呑む。
「エルさん、停止してください」
副長の声が響く。
「止める」
エルは答えた。
だが、端末は消えない。
画面が淡く点灯する。
現在の勤務記録へ、存在しないはずの名前が加わりかけた。
壁際に置かれていた備品箱が消える。
代わりに、使い込まれた椅子が現れる。
机の端に、二つのカップ。
一つは若い職員が今も使っているもの。
もう一つは、何年も前に監理局から持ち出されたはずのもの。
「記録改変兆候!」
情報班職員の声が飛ぶ。
「現在の職員配置が、過去の配置へ接続し始めています!」
「外部記録系統を切断。対象職員の現在地を確認してください」
副長が即座に指示を出す。
「確認済み! 対象職員は現在、辺境惑星の監理機関で勤務中。現地記録に異常――」
報告が途切れる。
「現地の赴任記録が、未確定状態へ移行しています!」
若い職員の顔色が変わった。
「あの人が、ここにいた結果へ変わっている」
エルの白い髪が、風もないのに浮き上がる。
淡いピンクの毛先が、白熱するように光っていた。
「喧嘩しなかった」
エルが言う。
「その人は、行かなかった」
「エルさん。本人はその結果を選んでいません」
「会いたいって言った」
「会いたいと、過去を変えてほしいは別です」
「知ってる」
空いた机の引き出しが開く。
中には、何年分もの私物が入っている。
筆記具。
古い認証札。
二人で撮ったらしい、小さな写真。
本来なら存在しない。
もし、その職員が赴任しなかったなら。
二人が一度も決裂しなかったなら。
ここに残っていたはずのもの。
若い職員の端末が鳴った。
一通のメッセージが届く。
送り主は、離れた惑星にいるはずの職員。
内容は短い。
昼食、先に行っている。
若い職員の指が震える。
何年も前なら、毎日のように届いていた言葉だった。
会いたかった。
声を聞きたかった。
もう一度、自分を食堂へ連れ出してほしかった。
目の前に、その結果がある。
エルが、問いかける。
「それは、幸せ?」
世界を動かしているのは問いではない。
エル自身が、まだこの結果を幸福だと思っている。
若い職員は、端末に届いた短い文を見る。
懐かしい言葉。
当たり前だった誘い。
もう二度と届かないと思っていた連絡。
それでも、首を振った。
「これは、私が会いたかった人ではありません」
エルの瞳が職員へ向く。
「その人の言葉」
「言いそうな言葉です。でも、今のあの人が送ったものではありません」
「同じ」
「違います」
若い職員は、はっきりと言った。
「この何年かを生きたあの人ではありません」
机の上の写真が揺らぐ。
「赴任先で出会った人がいます。任された仕事があります。あの人が自分で選んだ生活があります」
「ここにいた方が、会える」
「私には会えます」
職員の目から、涙がこぼれる。
「でも、あの人が生きた時間を消していい理由にはなりません」
「喧嘩も、なくなる」
「なくさないでください」
「つらかった」
「つらかったです」
「後悔してる」
「後悔しています」
「じゃあ、ない方がいい」
「いいえ」
職員は首を振った。
「喧嘩をしたことも、その後に何も言えなかったことも、私がしたことです」
「幸せじゃない」
「幸せではありませんでした」
「それでも?」
「それでも、なかったことにはしたくありません」
エルの髪を持ち上げていた光が、わずかに弱くなる。
「会いたいのに?」
「会いたいです」
「仲直りしたい?」
「したいです」
「じゃあ、仲直りした結果にする」
「それは、私がすることです」
若い職員は涙を拭かなかった。
「あの人が拒むかもしれない。許してくれないかもしれない。私も、話したらまた腹が立つかもしれない」
「幸せじゃないかもしれない」
「はい」
「どうして、選ぶ?」
「私と、あの人のことだからです」
明確な言葉だった。
「エルさんが作った、失敗しなかった私たちではありません」
エルは若い職員を見る。
会いたいと願いながら、会えている結果を拒んでいる、一人の人間を。
「この人は、会いたい」
机の上の記録端末が薄くなる。
「でも、喧嘩を消してほしくない」
存在しない勤務記録から、名前が消える。
「その人が、遠くで生きた時間も消してほしくない」
二つ目のカップが透明になる。
「仲直りしたい。でも、仲直りしたことにはしてほしくない」
端末に届いていたメッセージが消えた。
「自分で、する」
古い椅子が光へほどける。
「その人と、決める」
机の引き出しから、存在しない私物が一つずつ消えていく。
最後に、写真だけが残った。
それは魔法が作ったものではなかった。
若い職員が、自分の端末の中に保存していた、本物の写真だった。
古い。
少しぼやけている。
それでも、二人は確かに笑っていた。
魔法が完全に収束すると、区画へ機械音が戻った。
端末の駆動音。
遠くの通信。
誰かが堪えていた呼吸。
副長が即座に指示を出す。
「対象職員の現在地を再確認。赴任記録、交友記録、生活記録の差分照合。影響区画は封鎖を継続してください」
応答が重なる。
エルは、空いた机の前に立ったまま動かない。
白い髪は肩へ戻っている。
身体も、いつもの小さな器へ収まっていた。
表情は変わらない。
泣いてもいない。
俯いてもいない。
ただ、普段なら少し浮いている足が、両方とも床についていた。
副長はエルを見た。
朝は、小さな幸福を追加した。
二度目は、本人が答える前に承認の形を作った。
三度目は、何年分もの選択を、幸福な関係へ揃えようとした。
強くなっている。
それだけではない。
エルは、魔法を止める判断が遅くなっている。
「エルさん」
「うん」
「今は何も考えないでください」
「何も?」
「誰かを幸せにする方法を、考えないでください」
エルは少しだけ迷った。
「……うん」
◆
記録と認識の照合には、時間がかかった。
遠方で勤務している職員の現在地に異常なし。
赴任記録、勤務記録、人間関係、生活環境にも恒久的な変更は確認されなかった。
影響区画の職員には、一時的な既視感が残ったが、現在は解消。
魔法は、過去を書き換え切る前に収束している。
検査が終わるまで、エルは監理班の休憩室で待った。
レトとロジーが来たのは、区画封鎖が解除された後だった。
「エル!」
レトが駆け込んでくる。
入り口の職員に見られ、途中から急いで歩く動きへ変わった。
「大丈夫?」
「うん」
レトはエルの顔を覗き込む。
右から。
左から。
少し下から。
「しょんぼりしてる?」
「少し」
「そっか」
レトは、元気を出してとは言わなかった。
エルの隣へ座る。
腕が触れるくらい近く。
ロジーも反対側へ腰を下ろした。
頭上のデバイスは、いつもより表示を減らしている。
「私、今日の事象記録、閲覧権限ないところは見てないよ」
「見たかった?」
「めちゃくちゃ見たかった」
ロジーは即答した。
「記録差分、過去改変兆候、遠隔地の履歴変動。全部すっごく重要。でも、見ていい記録と、見たい記録は別だから」
「待った?」
「待った。超つらかった」
「ロジーも、知ってても難しい?」
「難しいよ」
ロジーは自分のデバイスを指さす。
「知識だけなら分かってる。でも、目の前にすごい記録があったら、今でも全部ほしくなる」
レトも言う。
「わたしも、敵がいたらすぐ壊したくなる時あるよ。でも、人が近くにいたら待つ。みんなが逃げるまで守る」
「二人も、待つの難しい」
「うん!」
「超難しい!」
ロジーが大きく頷く。
「でもね、今日のエルは、待つのが苦手だっただけじゃない気がする」
エルがロジーを見る。
「違う?」
「分かんない」
ロジーは首を傾げた。
「いつものエルって、もっと見てるもん」
「見てる」
「うん。でも今日は、見終わる前に答えを作ってた感じ」
エルは返事をしなかった。
レトも、少しだけ考える。
「エル、早く正解したかったの?」
「正解」
「うん。人間はこうしたら幸せ、って」
「……分からない」
エルは小さく答えた。
扉の外で、精神保護室の職員が待っていた。
エルの面談時間だった。
レトはエルの手を握る。
「終わるまで待ってるね」
「どこで?」
「ここ!」
「私は待機記録を取る!」
「待つだけなのに?」
「待つことも出来事だよ!」
エルは二人を見る。
少しだけ手を握り返した。
「行ってくる」
◇
面談室には、余計なものがなかった。
小さな机。
椅子が二つ。
水の入ったコップ。
壁際には副長がいたが、口を挟むためではない。
事象規模を考慮し、監理責任者として立ち会っているだけだった。
エルの向かいへ、精神保護室の職員が座る。
「エルさん」
「うん」
「今日は三度、普段とは違う魔法が発生しました」
「うん」
「身体に異常はありません。外部からの干渉も確認されていません」
「うん」
「ですので、エルさんの中で何かが起きていた可能性を確認します」
「何か」
「すぐに答えなくて結構です」
職員は端末を開かなかった。
記録は室内設備が行っている。
エルの顔を見たまま、ゆっくり尋ねる。
「朝、夜勤明けの職員が必要としていたものは、分かっていましたか」
「眠る時間」
「分かっていたのに、朝祭りを作りました」
「うん」
「どうしてでしょう」
「少し、うれしそうだった」
「うれしくしたかった?」
「うん」
「眠ることより、うれしくすることを優先したかった?」
エルは考える。
「違う」
「では、なぜ作りましたか」
「……分からない」
「分からないままにしましょう」
職員は次へ進んだ。
「青い花の時、職員はまだ、どこまで見てほしいのか答えていませんでした」
「うん」
「それでも、エルさんは承認の形を作りました」
「幸せに見えた」
「誰にも見落とされない場所が?」
「うん」
「職員が選ぶ前に、正しい幸福だと決めました」
「うん」
「三度目はどうでしょう」
エルの指先が、服の裾へ触れた。
「会いたい人がいた」
「その人は生きていました」
「うん」
「相手の意思を確認することもできたはずです」
「うん」
「通信を提案することもできました」
「うん」
「ですが、エルさんは喧嘩をしなかった過去を作ろうとしました」
「そっちの方が、幸せだと思った」
「なぜ、そう思いましたか」
「会いたいって言ったから」
「会いたいと、過去を変えてほしいは別だと知っていましたね」
「知ってた」
「では、なぜ確認を待てなかったのでしょう」
「……分からない」
エルの声が、少しだけ小さくなる。
職員は、そこで答えを与えなかった。
沈黙を置く。
エルが自分の言葉を探す時間だった。
「エルさん」
「うん」
「今日は、分からないことが三つ増えましたか」
エルは職員を見る。
「増えた」
「それは嫌ですか」
「嫌?」
「分からないことが増えるのは、苦しいですか」
エルはすぐには答えなかった。
水の入ったコップを見る。
透明な水面。
何も映していない。
「分からないの、いつもある」
「はい」
「人間、分からない」
「はい」
「あたし、人間を見るためにここにいる」
「そうですね」
「ずっと見てる」
「はい」
「長い」
エルは、自分の小さな手を見る。
「とても長い」
監理局へ来てから。
ジェレミーと会ってから。
人間の言葉を覚えてから。
食堂へ座る場所を得てから。
レトとロジーと遊ぶようになってから。
数え方の違う時間が、エルの中に積み重なっている。
「長く見ていたら、どうなると思っていましたか」
職員が尋ねる。
エルは口を開いた。
閉じた。
もう一度、開く。
「人間が、分かると思った」
面談室は静かだった。
「今は、どうですか」
「たくさん知った」
「どんなことを知りましたか」
「うれしいと、笑う。でも、うれしくても泣く」
エルは一つずつ並べる。
「嫌でも、する。したくても、しない。会いたくても、会わない。許したくても、許せない。楽しくても、帰る。悲しくても、消したくない」
「たくさん知っていますね」
「うん」
「人間を理解できたと思いますか」
エルは長く黙った。
「……分からない」
「分からない?」
「知ってるのに」
エルの指が、服の裾をつまむ。
「全然、人間が分かった感じがしない」
声は普段と変わらない。
平坦で、小さい。
けれど、指先へ少しずつ力が入っていた。
「長く一緒にいる」
「はい」
「毎日、見てる」
「はい」
「話も聞く。止められる。教えてもらう」
「はい」
「でも、分からない」
エルは、ようやく職員の顔を見る。
「まだ、分からない」
職員は、その言葉を急いで慰めなかった。
「『まだ』と思っているのですね」
「まだ」
「いつまでに、分からなければならないのでしょう」
エルは答えられなかった。
「誰かに、期限を決められましたか」
「ない」
「ジェレミー局長に、早く理解しろと言われましたか」
「ない」
「監理局の職員に、理解できなければ一緒にいられないと言われましたか」
「ない」
「では、誰が急がせていますか」
エルは、自分の胸元へ手を置いた。
小さな人間の身体。
その中に収まることのない、本当の幸せ。
「あたし?」
「そうかもしれません」
職員は断定しない。
「どう思いますか」
「分からないのが、ずっとある」
「はい」
「昨日も分からない。今日も分からない。明日も、分からないかもしれない」
「はい」
「もっと見たら分かると思った」
「はい」
「でも、分からないものが増える」
エルは、朝の職員を思い出す。
眠りたいのに、きれいな朝もうれしい人。
認めてほしいのに、心を見せたくない人。
仲直りしたいのに、失敗した過去を消したくない人。
「見たら、増える」
「何が増えますか」
「違う幸せ」
エルの声が、少し揺れた。
「一人の中に、いっぱいある」
「はい」
「分かるために見たのに、もっと分からなくなる」
「それが、怖かったですか」
エルはしばらく考える。
「怖い……たぶん」
「焦っていましたか」
「焦る」
エルは、その言葉を口の中で確かめる。
これまで知識として知っていた、人間の感情。
自分の中にあるものとして、ゆっくり触れる。
「早くしないと、って思う?」
「はい」
「間に合わない?」
「何に、間に合わない?」
「それを、エルさんは分かっていますか」
「分からない」
エルは少しだけ眉を寄せた。
「分からないのに、急いでた?」
「その可能性があります」
職員は、三つの事象を振り返るように言う。
「今日は、人間を早く幸せにしようとしただけではありません」
「違う?」
「自分が人間を理解できていると、早く確かめようとしていたのかもしれません」
エルの手が止まる。
「理解できたら、正しい幸せを作れる」
「そう考えていましたか」
「……たぶん」
「人間が喜べば、分かったことになる」
朝祭りを見て、人間たちは笑った。
「温かいと感じれば、分かったことになる」
青い花の中で、職員はうれしいと言った。
「望んだ関係を作れば、分かったことになる」
若い職員は、会いたいと言った。
エルは、彼らが喜ぶ結果を作った。
その結果が正しければ。
自分は人間を理解できている。
長く見てきた時間は、無駄ではない。
本当の幸せという名前のまま、人間の隣にいられる。
「正解したかった」
エルが言った。
レトが面談の前に使った言葉だった。
「はい」
「あたし、人間を使って、正解したかった?」
職員は少し考えてから答える。
「そういう部分はあったかもしれません」
「悪い?」
「危険でした」
優しい言葉へ置き換えない。
だが、責める言葉にも変えない。
「相手が答えを選ぶ前に、エルさんの理解が正しいことを証明しようとしました」
「うん」
「その結果、人間の選択を消しかけました」
「うん」
「ですが、今それを言葉にできています」
「言葉にしたら、なくなる?」
「いいえ」
職員は答えた。
「焦りは、言葉にしただけではなくなりません」
「じゃあ、どうする?」
「焦っていると分かった状態で、次の人を見ることができます」
「また、急ぐかもしれない」
「その時は、自分で止まる。止まれなければ、私たちが止めます」
「いつ、人間が分かる?」
「全部は、分からないかもしれません」
エルは職員を見る。
「ずっと?」
「人間は、自分自身のことさえ、すべて分かっているわけではありません」
「じゃあ、あたしには無理?」
「人間を一度に完成した形で理解することは、難しいでしょう」
「本当の幸せなのに」
「本当の幸せだからこそ、一つの答えにしてはいけないのではありませんか」
エルは黙る。
職員は続ける。
「昨日分かった人も、今日は違うことを考えます」
「変わる」
「はい」
「今日の幸せと、明日の幸せも違う」
「違うことがあります」
「じゃあ、ずっと見る?」
「見ることが苦しくないなら」
「分からないまま?」
「分からないまま、尋ねることはできます」
エルは、自分の手を見る。
「分からないまま、隣にいる?」
「はい」
「幸せにできなくても?」
「すぐには」
職員の言葉に、エルは顔を上げた。
「以前、エルさんが覚えた言葉ですね」
「すぐには、幸せにしない」
「今日は、もう一つ増やせるかもしれません」
「なに?」
「分からないことを、急いで終わらせない」
エルは、その言葉をゆっくり繰り返す。
「分からないことを、急いで終わらせない」
「はい」
「分からないまま、聞く」
「はい」
「聞いても分からなかったら?」
「また、待ちます」
「ずっと?」
「必要なら」
エルは長い間、何も言わなかった。
面談室の外では、レトとロジーが待っている。
監理班区画では、職員たちが事象記録を整理している。
遠い惑星では、一人の職員が、自分の知らないところで過去を変えられかけたことも知らず、今日の仕事を続けている。
人間は、それぞれの場所にいる。
エルには、全部は分からない。
「焦ってるの、まだある」
「はい」
「なくさない?」
「今は」
「幸せじゃない」
「それでも、そこにあってよい感情です」
エルは小さく頷いた。
「分からないまま、持ってる」
「そうしてください」
◇
夜。
エルは自分の部屋へ戻った。
白い天井。
薄く落とされた照明。
枕元の時計。
いつもと同じ部屋。
けれど、朝には名前を知らなかったものが、エルの中にあった。
焦り。
長い時間、人間を見てきた。
それなのに、全然人間を理解できた気がしない。
そのことを、エルは気にしていないつもりだった。
人間は難しい。
だから見る。
分からなければ聞く。
そう思っていた。
けれど、心のどこかでは。
長く見た分だけ、分かるようにならなければならないと思っていた。
本当の幸せであるなら。
いつか、人間の本当の幸せを理解できなければならないと思っていた。
いつかが来ないことを、恐れていた。
エルは机へ座り、小さな紙を一枚置く。
人間から教わった文字を、ゆっくりと書く。
それは、しあわせ?
その下へ。
だれが、きめた?
さらに、その下へ。
どうしてほしい?
わからなかったら、まつ。
すぐには、しあわせにしない。
そこまでは、以前から知っていた言葉だった。
エルは少し考えてから、新しい言葉を書き加える。
わからないことを、いそいでおわらせない。
さらに、その下へ。
わからないまま、となりにいる。
人間を理解できたことにしない。
理解できないからといって、遠くへ戻らない。
一人の言葉を聞く。
今日の答えを聞く。
明日、答えが変わったなら、また聞く。
「長いね」
エルは誰もいない部屋で呟いた。
人間を理解するための時間。
いつ終わるのかは分からない。
終わらないのかもしれない。
それでも。
今日、世界は大きく変わらなかった。
朝祭りは消えた。
青い花は、ただの花になった。
離れた二人の過去は、書き換えられなかった。
夜勤明けの職員は眠った。
疲れていた職員は、自分の足で休憩へ向かった。
会いたかった職員は、写真を見ながら、遠い惑星へ送る通信文を自分で書き始めた。
送るかどうかは、まだ決めていない。
それも、エルは変えなかった。
明日も、人間は願う。
うれしい。
かなしい。
つかれた。
たのしい。
こわい。
さみしい。
ほしい。
たりない。
一人の中に、いくつもの願いがある。
全部を理解できなくても。
すぐに正解できなくても。
エルは明日も、人間の隣にいる。
分からないまま。
すぐには、幸せにしないまま。




