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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【新版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の娘たち

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9/22

第9話-人間の隣にいてもいい?

 エルは、その後も監理班区画で経過観察を受けた。


 一人にはされない。


 願いを話す必要のある職員は、精神保護室の職員を通す。


 エル本人へ不用意に答えを求めない。


 刺激を避けるためではない。


 何が普段と違うのかを確認するためだった。


 残留検査を受けていた若い監理班職員が、普通の花を見ながら言った。


「先ほどの光で、以前ここにいた人を思い出しました」


 精神保護室の職員が確認する。


「自分で話すと決めた内容ですか」


「はい」


 副長はエルを見る。


「聞くだけにできますか」


「うん」


「結果を想像しないでください」


「うん」


 若い職員は、少し離れた椅子へ座った。


「以前、この区画にいた職員です」


 エルは黙って聞く。


「同じ時期に監理班へ入って、長い間、一緒に仕事をしていました。忙しくなると私の書類を勝手に取り上げて、もう十分だから食事へ行けと言う人でした」


「今は、いない?」


「監理局にはいません」


 エルの指が、服の裾へ触れる。


「遠い惑星の監理機関へ移りました。生きています。今も、そこで仕事をしています」


「どうして、いなくなった?」


 職員は少し黙った。


「喧嘩をしました」


「喧嘩」


「大きな判断を巡って、意見が分かれました。お互い、言ってはいけないことも言いました。その直後に、あの人へ長期赴任の話が来た」


「行った」


「はい」


「止めなかった?」


「止めませんでした」


 若い職員は、自分の両手を見る。


「腹が立っていました。向こうも、私の顔を見たくなかったと思います」


「今も?」


「今は、分かりません」


「話してない?」


「何年も」


「会いたい?」


「はい」


 答えは、迷いなく出た。


 その声は、朝の願いより深かった。


 認めてほしいという願いより、もっと複雑だった。


 会いたい。


 話したい。


 謝りたい。


 謝ってほしい。


 以前のように笑いたい。


 けれど、自分から通信を開くのは怖い。


 拒まれるかもしれない。


 相手はもう、自分のいない場所で新しい生活を築いているかもしれない。


 エルは、教わった順番を思い出す。


「どうしてほしい?」


 職員は、すぐには答えなかった。


 沈黙が続く。


 誰も急かさない。


 エルも待った。


 待てていた。


「分かりません」


 やがて、職員が言う。


「会いたいです。でも、あの頃に戻りたいのかと聞かれると……分かりません」


「あの頃」


「一緒に仕事をしていた頃です」


 区画の隅に、空いた机が一つあった。


 現在の人員配置では使用されていない、予備の机。


 その机に、以前の職員が座っている光景を、エルは想像した。


 若い職員の手から書類を取り上げる。


 もう十分だと言う。


 一緒に食堂へ向かう。


 二人は喧嘩をしない。


 長期赴任の話が来ても、断る。


 あるいは、そもそも赴任の話が来ない。


 二人はずっと監理班で働いている。


 あの日、言ってはいけない言葉を口にしなかった結果。


 関係が壊れなかった結果。


 会いたいと思う必要さえなかった世界。


 幸せに見えた。


 普段のエルなら、そこで止まっていた。


 本人は、分からないと答えている。


 相手の意思も確認されていない。


 何年も離れていた時間には、二人とは別の人々と、別の選択と、別の生活がある。


 エルは全部、知っていた。


 それでも、その日は答えを作った。


 空いた机の上に、一冊の記録端末が現れた。


 誰も置いていない。


 古い型式。


 かつて、その職員が使っていたものと同じ型だった。


 若い職員が息を呑む。


「エルさん、停止してください」


 副長の声が響く。


「止める」


 エルは答えた。


 だが、端末は消えない。


 画面が淡く点灯する。


 現在の勤務記録へ、存在しないはずの名前が加わりかけた。


 壁際に置かれていた備品箱が消える。


 代わりに、使い込まれた椅子が現れる。


 机の端に、二つのカップ。


 一つは若い職員が今も使っているもの。


 もう一つは、何年も前に監理局から持ち出されたはずのもの。


「記録改変兆候!」


 情報班職員の声が飛ぶ。


「現在の職員配置が、過去の配置へ接続し始めています!」


「外部記録系統を切断。対象職員の現在地を確認してください」


 副長が即座に指示を出す。


「確認済み! 対象職員は現在、辺境惑星の監理機関で勤務中。現地記録に異常――」


 報告が途切れる。


「現地の赴任記録が、未確定状態へ移行しています!」


 若い職員の顔色が変わった。


「あの人が、ここにいた結果へ変わっている」


 エルの白い髪が、風もないのに浮き上がる。


 淡いピンクの毛先が、白熱するように光っていた。


「喧嘩しなかった」


 エルが言う。


「その人は、行かなかった」


「エルさん。本人はその結果を選んでいません」


「会いたいって言った」


「会いたいと、過去を変えてほしいは別です」


「知ってる」


 空いた机の引き出しが開く。


 中には、何年分もの私物が入っている。


 筆記具。


 古い認証札。


 二人で撮ったらしい、小さな写真。


 本来なら存在しない。


 もし、その職員が赴任しなかったなら。


 二人が一度も決裂しなかったなら。


 ここに残っていたはずのもの。


 若い職員の端末が鳴った。


 一通のメッセージが届く。


 送り主は、離れた惑星にいるはずの職員。


 内容は短い。


 昼食、先に行っている。


 若い職員の指が震える。


 何年も前なら、毎日のように届いていた言葉だった。


 会いたかった。


 声を聞きたかった。


 もう一度、自分を食堂へ連れ出してほしかった。


 目の前に、その結果がある。


 エルが、問いかける。


「それは、幸せ?」


 世界を動かしているのは問いではない。


 エル自身が、まだこの結果を幸福だと思っている。


 若い職員は、端末に届いた短い文を見る。


 懐かしい言葉。


 当たり前だった誘い。


 もう二度と届かないと思っていた連絡。


 それでも、首を振った。


「これは、私が会いたかった人ではありません」


 エルの瞳が職員へ向く。


「その人の言葉」


「言いそうな言葉です。でも、今のあの人が送ったものではありません」


「同じ」


「違います」


 若い職員は、はっきりと言った。


「この何年かを生きたあの人ではありません」


 机の上の写真が揺らぐ。


「赴任先で出会った人がいます。任された仕事があります。あの人が自分で選んだ生活があります」


「ここにいた方が、会える」


「私には会えます」


 職員の目から、涙がこぼれる。


「でも、あの人が生きた時間を消していい理由にはなりません」


「喧嘩も、なくなる」


「なくさないでください」


「つらかった」


「つらかったです」


「後悔してる」


「後悔しています」


「じゃあ、ない方がいい」


「いいえ」


 職員は首を振った。


「喧嘩をしたことも、その後に何も言えなかったことも、私がしたことです」


「幸せじゃない」


「幸せではありませんでした」


「それでも?」


「それでも、なかったことにはしたくありません」


 エルの髪を持ち上げていた光が、わずかに弱くなる。


「会いたいのに?」


「会いたいです」


「仲直りしたい?」


「したいです」


「じゃあ、仲直りした結果にする」


「それは、私がすることです」


 若い職員は涙を拭かなかった。


「あの人が拒むかもしれない。許してくれないかもしれない。私も、話したらまた腹が立つかもしれない」


「幸せじゃないかもしれない」


「はい」


「どうして、選ぶ?」


「私と、あの人のことだからです」


 明確な言葉だった。


「エルさんが作った、失敗しなかった私たちではありません」


 エルは若い職員を見る。


 会いたいと願いながら、会えている結果を拒んでいる、一人の人間を。


「この人は、会いたい」


 机の上の記録端末が薄くなる。


「でも、喧嘩を消してほしくない」


 存在しない勤務記録から、名前が消える。


「その人が、遠くで生きた時間も消してほしくない」


 二つ目のカップが透明になる。


「仲直りしたい。でも、仲直りしたことにはしてほしくない」


 端末に届いていたメッセージが消えた。


「自分で、する」


 古い椅子が光へほどける。


「その人と、決める」


 机の引き出しから、存在しない私物が一つずつ消えていく。


 最後に、写真だけが残った。


 それは魔法が作ったものではなかった。


 若い職員が、自分の端末の中に保存していた、本物の写真だった。


 古い。


 少しぼやけている。


 それでも、二人は確かに笑っていた。


 魔法が完全に収束すると、区画へ機械音が戻った。


 端末の駆動音。


 遠くの通信。


 誰かが堪えていた呼吸。


 副長が即座に指示を出す。


「対象職員の現在地を再確認。赴任記録、交友記録、生活記録の差分照合。影響区画は封鎖を継続してください」


 応答が重なる。


 エルは、空いた机の前に立ったまま動かない。


 白い髪は肩へ戻っている。


 身体も、いつもの小さな器へ収まっていた。


 表情は変わらない。


 泣いてもいない。


 俯いてもいない。


 ただ、普段なら少し浮いている足が、両方とも床についていた。


 副長はエルを見た。


 朝は、小さな幸福を追加した。


 二度目は、本人が答える前に承認の形を作った。


 三度目は、何年分もの選択を、幸福な関係へ揃えようとした。


 強くなっている。


 それだけではない。


 エルは、魔法を止める判断が遅くなっている。


「エルさん」


「うん」


「今は何も考えないでください」


「何も?」


「誰かを幸せにする方法を、考えないでください」


 エルは少しだけ迷った。


「……うん」


     ◆


 記録と認識の照合には、時間がかかった。


 遠方で勤務している職員の現在地に異常なし。


 赴任記録、勤務記録、人間関係、生活環境にも恒久的な変更は確認されなかった。


 影響区画の職員には、一時的な既視感が残ったが、現在は解消。


 魔法は、過去を書き換え切る前に収束している。


 検査が終わるまで、エルは監理班の休憩室で待った。


 レトとロジーが来たのは、区画封鎖が解除された後だった。


「エル!」


 レトが駆け込んでくる。


 入り口の職員に見られ、途中から急いで歩く動きへ変わった。


「大丈夫?」


「うん」


 レトはエルの顔を覗き込む。


 右から。


 左から。


 少し下から。


「しょんぼりしてる?」


「少し」


「そっか」


 レトは、元気を出してとは言わなかった。


 エルの隣へ座る。


 腕が触れるくらい近く。


 ロジーも反対側へ腰を下ろした。


 頭上のデバイスは、いつもより表示を減らしている。


「私、今日の事象記録、閲覧権限ないところは見てないよ」


「見たかった?」


「めちゃくちゃ見たかった」


 ロジーは即答した。


「記録差分、過去改変兆候、遠隔地の履歴変動。全部すっごく重要。でも、見ていい記録と、見たい記録は別だから」


「待った?」


「待った。超つらかった」


「ロジーも、知ってても難しい?」


「難しいよ」


 ロジーは自分のデバイスを指さす。


「知識だけなら分かってる。でも、目の前にすごい記録があったら、今でも全部ほしくなる」


 レトも言う。


「わたしも、敵がいたらすぐ壊したくなる時あるよ。でも、人が近くにいたら待つ。みんなが逃げるまで守る」


「二人も、待つの難しい」


「うん!」


「超難しい!」


 ロジーが大きく頷く。


「でもね、今日のエルは、待つのが苦手だっただけじゃない気がする」


 エルがロジーを見る。


「違う?」


「分かんない」


 ロジーは首を傾げた。


「いつものエルって、もっと見てるもん」


「見てる」


「うん。でも今日は、見終わる前に答えを作ってた感じ」


 エルは返事をしなかった。


 レトも、少しだけ考える。


「エル、早く正解したかったの?」


「正解」


「うん。人間はこうしたら幸せ、って」


「……分からない」


 エルは小さく答えた。


 扉の外で、精神保護室の職員が待っていた。


 エルの面談時間だった。


 レトはエルの手を握る。


「終わるまで待ってるね」


「どこで?」


「ここ!」


「私は待機記録を取る!」


「待つだけなのに?」


「待つことも出来事だよ!」


 エルは二人を見る。


 少しだけ手を握り返した。


「行ってくる」


     ◇


 面談室には、余計なものがなかった。


 小さな机。


 椅子が二つ。


 水の入ったコップ。


 壁際には副長がいたが、口を挟むためではない。


 事象規模を考慮し、監理責任者として立ち会っているだけだった。


 エルの向かいへ、精神保護室の職員が座る。


「エルさん」


「うん」


「今日は三度、普段とは違う魔法が発生しました」


「うん」


「身体に異常はありません。外部からの干渉も確認されていません」


「うん」


「ですので、エルさんの中で何かが起きていた可能性を確認します」


「何か」


「すぐに答えなくて結構です」


 職員は端末を開かなかった。


 記録は室内設備が行っている。


 エルの顔を見たまま、ゆっくり尋ねる。


「朝、夜勤明けの職員が必要としていたものは、分かっていましたか」


「眠る時間」


「分かっていたのに、朝祭りを作りました」


「うん」


「どうしてでしょう」


「少し、うれしそうだった」


「うれしくしたかった?」


「うん」


「眠ることより、うれしくすることを優先したかった?」


 エルは考える。


「違う」


「では、なぜ作りましたか」


「……分からない」


「分からないままにしましょう」


 職員は次へ進んだ。


「青い花の時、職員はまだ、どこまで見てほしいのか答えていませんでした」


「うん」


「それでも、エルさんは承認の形を作りました」


「幸せに見えた」


「誰にも見落とされない場所が?」


「うん」


「職員が選ぶ前に、正しい幸福だと決めました」


「うん」


「三度目はどうでしょう」


 エルの指先が、服の裾へ触れた。


「会いたい人がいた」


「その人は生きていました」


「うん」


「相手の意思を確認することもできたはずです」


「うん」


「通信を提案することもできました」


「うん」


「ですが、エルさんは喧嘩をしなかった過去を作ろうとしました」


「そっちの方が、幸せだと思った」


「なぜ、そう思いましたか」


「会いたいって言ったから」


「会いたいと、過去を変えてほしいは別だと知っていましたね」


「知ってた」


「では、なぜ確認を待てなかったのでしょう」


「……分からない」


 エルの声が、少しだけ小さくなる。


 職員は、そこで答えを与えなかった。


 沈黙を置く。


 エルが自分の言葉を探す時間だった。


「エルさん」


「うん」


「今日は、分からないことが三つ増えましたか」


 エルは職員を見る。


「増えた」


「それは嫌ですか」


「嫌?」


「分からないことが増えるのは、苦しいですか」


 エルはすぐには答えなかった。


 水の入ったコップを見る。


 透明な水面。


 何も映していない。


「分からないの、いつもある」


「はい」


「人間、分からない」


「はい」


「あたし、人間を見るためにここにいる」


「そうですね」


「ずっと見てる」


「はい」


「長い」


 エルは、自分の小さな手を見る。


「とても長い」


 監理局へ来てから。


 ジェレミーと会ってから。


 人間の言葉を覚えてから。


 食堂へ座る場所を得てから。


 レトとロジーと遊ぶようになってから。


 数え方の違う時間が、エルの中に積み重なっている。


「長く見ていたら、どうなると思っていましたか」


 職員が尋ねる。


 エルは口を開いた。


 閉じた。


 もう一度、開く。


「人間が、分かると思った」


 面談室は静かだった。


「今は、どうですか」


「たくさん知った」


「どんなことを知りましたか」


「うれしいと、笑う。でも、うれしくても泣く」


 エルは一つずつ並べる。


「嫌でも、する。したくても、しない。会いたくても、会わない。許したくても、許せない。楽しくても、帰る。悲しくても、消したくない」


「たくさん知っていますね」


「うん」


「人間を理解できたと思いますか」


 エルは長く黙った。


「……分からない」


「分からない?」


「知ってるのに」


 エルの指が、服の裾をつまむ。


「全然、人間が分かった感じがしない」


 声は普段と変わらない。


 平坦で、小さい。


 けれど、指先へ少しずつ力が入っていた。


「長く一緒にいる」


「はい」


「毎日、見てる」


「はい」


「話も聞く。止められる。教えてもらう」


「はい」


「でも、分からない」


 エルは、ようやく職員の顔を見る。


「まだ、分からない」


 職員は、その言葉を急いで慰めなかった。


「『まだ』と思っているのですね」


「まだ」


「いつまでに、分からなければならないのでしょう」


 エルは答えられなかった。


「誰かに、期限を決められましたか」


「ない」


「ジェレミー局長に、早く理解しろと言われましたか」


「ない」


「監理局の職員に、理解できなければ一緒にいられないと言われましたか」


「ない」


「では、誰が急がせていますか」


 エルは、自分の胸元へ手を置いた。


 小さな人間の身体。


 その中に収まることのない、本当の幸せ。


「あたし?」


「そうかもしれません」


 職員は断定しない。


「どう思いますか」


「分からないのが、ずっとある」


「はい」


「昨日も分からない。今日も分からない。明日も、分からないかもしれない」


「はい」


「もっと見たら分かると思った」


「はい」


「でも、分からないものが増える」


 エルは、朝の職員を思い出す。


 眠りたいのに、きれいな朝もうれしい人。


 認めてほしいのに、心を見せたくない人。


 仲直りしたいのに、失敗した過去を消したくない人。


「見たら、増える」


「何が増えますか」


「違う幸せ」


 エルの声が、少し揺れた。


「一人の中に、いっぱいある」


「はい」


「分かるために見たのに、もっと分からなくなる」


「それが、怖かったですか」


 エルはしばらく考える。


「怖い……たぶん」


「焦っていましたか」


「焦る」


 エルは、その言葉を口の中で確かめる。


 これまで知識として知っていた、人間の感情。


 自分の中にあるものとして、ゆっくり触れる。


「早くしないと、って思う?」


「はい」


「間に合わない?」


「何に、間に合わない?」


「それを、エルさんは分かっていますか」


「分からない」


 エルは少しだけ眉を寄せた。


「分からないのに、急いでた?」


「その可能性があります」


 職員は、三つの事象を振り返るように言う。


「今日は、人間を早く幸せにしようとしただけではありません」


「違う?」


「自分が人間を理解できていると、早く確かめようとしていたのかもしれません」


 エルの手が止まる。


「理解できたら、正しい幸せを作れる」


「そう考えていましたか」


「……たぶん」


「人間が喜べば、分かったことになる」


 朝祭りを見て、人間たちは笑った。


「温かいと感じれば、分かったことになる」


 青い花の中で、職員はうれしいと言った。


「望んだ関係を作れば、分かったことになる」


 若い職員は、会いたいと言った。


 エルは、彼らが喜ぶ結果を作った。


 その結果が正しければ。


 自分は人間を理解できている。


 長く見てきた時間は、無駄ではない。


 本当の幸せという名前のまま、人間の隣にいられる。


「正解したかった」


 エルが言った。


 レトが面談の前に使った言葉だった。


「はい」


「あたし、人間を使って、正解したかった?」


 職員は少し考えてから答える。


「そういう部分はあったかもしれません」


「悪い?」


「危険でした」


 優しい言葉へ置き換えない。


 だが、責める言葉にも変えない。


「相手が答えを選ぶ前に、エルさんの理解が正しいことを証明しようとしました」


「うん」


「その結果、人間の選択を消しかけました」


「うん」


「ですが、今それを言葉にできています」


「言葉にしたら、なくなる?」


「いいえ」


 職員は答えた。


「焦りは、言葉にしただけではなくなりません」


「じゃあ、どうする?」


「焦っていると分かった状態で、次の人を見ることができます」


「また、急ぐかもしれない」


「その時は、自分で止まる。止まれなければ、私たちが止めます」


「いつ、人間が分かる?」


「全部は、分からないかもしれません」


 エルは職員を見る。


「ずっと?」


「人間は、自分自身のことさえ、すべて分かっているわけではありません」


「じゃあ、あたしには無理?」


「人間を一度に完成した形で理解することは、難しいでしょう」


「本当の幸せなのに」


「本当の幸せだからこそ、一つの答えにしてはいけないのではありませんか」


 エルは黙る。


 職員は続ける。


「昨日分かった人も、今日は違うことを考えます」


「変わる」


「はい」


「今日の幸せと、明日の幸せも違う」


「違うことがあります」


「じゃあ、ずっと見る?」


「見ることが苦しくないなら」


「分からないまま?」


「分からないまま、尋ねることはできます」


 エルは、自分の手を見る。


「分からないまま、隣にいる?」


「はい」


「幸せにできなくても?」


「すぐには」


 職員の言葉に、エルは顔を上げた。


「以前、エルさんが覚えた言葉ですね」


「すぐには、幸せにしない」


「今日は、もう一つ増やせるかもしれません」


「なに?」


「分からないことを、急いで終わらせない」


 エルは、その言葉をゆっくり繰り返す。


「分からないことを、急いで終わらせない」


「はい」


「分からないまま、聞く」


「はい」


「聞いても分からなかったら?」


「また、待ちます」


「ずっと?」


「必要なら」


 エルは長い間、何も言わなかった。


 面談室の外では、レトとロジーが待っている。


 監理班区画では、職員たちが事象記録を整理している。


 遠い惑星では、一人の職員が、自分の知らないところで過去を変えられかけたことも知らず、今日の仕事を続けている。


 人間は、それぞれの場所にいる。


 エルには、全部は分からない。


「焦ってるの、まだある」


「はい」


「なくさない?」


「今は」


「幸せじゃない」


「それでも、そこにあってよい感情です」


 エルは小さく頷いた。


「分からないまま、持ってる」


「そうしてください」


     ◇


 夜。


 エルは自分の部屋へ戻った。


 白い天井。


 薄く落とされた照明。


 枕元の時計。


 いつもと同じ部屋。


 けれど、朝には名前を知らなかったものが、エルの中にあった。


 焦り。


 長い時間、人間を見てきた。


 それなのに、全然人間を理解できた気がしない。


 そのことを、エルは気にしていないつもりだった。


 人間は難しい。


 だから見る。


 分からなければ聞く。


 そう思っていた。


 けれど、心のどこかでは。


 長く見た分だけ、分かるようにならなければならないと思っていた。


 本当の幸せであるなら。


 いつか、人間の本当の幸せを理解できなければならないと思っていた。


 いつかが来ないことを、恐れていた。


 エルは机へ座り、小さな紙を一枚置く。


 人間から教わった文字を、ゆっくりと書く。


 それは、しあわせ?


 その下へ。


 だれが、きめた?


 さらに、その下へ。


 どうしてほしい?


 わからなかったら、まつ。


 すぐには、しあわせにしない。


 そこまでは、以前から知っていた言葉だった。


 エルは少し考えてから、新しい言葉を書き加える。


 わからないことを、いそいでおわらせない。


 さらに、その下へ。


 わからないまま、となりにいる。


 人間を理解できたことにしない。


 理解できないからといって、遠くへ戻らない。


 一人の言葉を聞く。


 今日の答えを聞く。


 明日、答えが変わったなら、また聞く。


「長いね」


 エルは誰もいない部屋で呟いた。


 人間を理解するための時間。


 いつ終わるのかは分からない。


 終わらないのかもしれない。


 それでも。


 今日、世界は大きく変わらなかった。


 朝祭りは消えた。


 青い花は、ただの花になった。


 離れた二人の過去は、書き換えられなかった。


 夜勤明けの職員は眠った。


 疲れていた職員は、自分の足で休憩へ向かった。


 会いたかった職員は、写真を見ながら、遠い惑星へ送る通信文を自分で書き始めた。


 送るかどうかは、まだ決めていない。


 それも、エルは変えなかった。


 明日も、人間は願う。


 うれしい。


 かなしい。


 つかれた。


 たのしい。


 こわい。


 さみしい。


 ほしい。


 たりない。


 一人の中に、いくつもの願いがある。


 全部を理解できなくても。


 すぐに正解できなくても。


 エルは明日も、人間の隣にいる。


 分からないまま。


 すぐには、幸せにしないまま。



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