第8話-願望呼応反応
朝の事象は、小規模願望呼応事象として記録された。
食堂区画に残留する魔法作用はなし。
職員の身体、認識、記憶に異常なし。
魔法の影響を受けたスープとパンは、検査のため回収された。
エルは一人で行動を続けることを止められた。
罰ではない。
願いへの反応が通常より早い状態にあるか、確認するためだった。
監理班区画の一室。
普段は短時間の報告や、少人数の打ち合わせに使われる部屋へ、エルは座っていた。
向かいには副長。
壁際には、精神保護室の職員と魔術制御担当者。
机の上には、朝の事象記録が表示されている。
「身体に異常はありません」
医療班から届いた結果を、精神保護室の職員が読み上げた。
「認識状態も正常。強い疲労、睡眠不足、外部からの精神干渉は確認されていません」
副長がエルを見る。
「朝の状態を、もう一度説明できますか」
「眠りたい人がいた」
「はい」
「何が必要って聞いた。眠る時間って言った」
「はい」
「でも、少しきれいな朝も悪くないって言った」
「そこから、何が起きましたか」
「あたしが、きれいな朝を想像した」
エルは自分の手を見る。
「この人が少しうれしくなるなら、あった方がいいと思った」
「願いが勝手に魔法を起こしたのではありませんね」
「うん」
エルは迷わず答えた。
「あたしが、必要だと思った」
「その認識で正しいです」
副長は記録表示を閉じる。
「ただ、普段のあなたなら、必要だとは判断しません」
「うん」
「何が違いましたか」
「分からない」
エルはすぐに答えた。
考えてからの返事ではなかった。
本当に分からない時の声だった。
副長と精神保護室の職員が、短く視線を交わす。
その時、扉が開いた。
監理班の職員が、追加の記録書類を抱えて入ってくる。
「失礼します。食堂区画の聞き取り結果と、残留調査の速報です」
「そこへ」
「はい」
職員は机へ資料を置いた。
目元には薄い疲労が滲んでいる。
朝から通常業務へ加え、事象処理が重なっていた。
副長が資料を確認する。
「通常業務分まで、あなたが処理していますね」
「担当者が現地確認へ出ていますので」
「引き継ぎは」
「あと三件だけ終えれば――」
「その三件を処理している間に、別の三件が来ます」
職員が苦笑する。
「分かっています」
書類を置いた手が、そのまま机へ残る。
「誰かに、もう十分だと言ってほしいところです」
部屋の空気が止まった。
職員自身が、すぐに気づいた。
顔を上げ、エルを見る。
「申し訳ありません。曖昧な願望を口にしました」
エルは職員を見ていた。
朝の願いより、深く聞こえた。
楽しいものがほしいのではない。
自分がしたことを、誰かに見つけてほしい。
疲れたと言ってもよいと、許してほしい。
ここまで働いたことが、何もなかったことにはならないと知りたい。
エルは、教わった順番を思い出した。
「誰に、どうしてほしい?」
職員は少し考える。
「誰に、というのは分かりません」
「どうしてほしい?」
「今日の私を見て、もう休んでいいと言ってほしいです」
副長が続けて尋ねる。
「見てほしい範囲は」
職員はそこで言葉を止めた。
「あなたが話した内容だけですか。記録されている業務全体ですか。それとも、あなた自身も言葉にしていないものまで含みますか」
「それは……」
答えが出るまで待たなければならない。
エルは知っていた。
けれど、その前に見えてしまった。
誰にも見つけられず積み上がった一日。
片づけても片づけても増えていく仕事。
できて当然として流れていく努力。
それらがすべて、柔らかな光に照らされる場所。
誰一人、見落とされない場所。
頑張った人間が、自分には価値があるのかと迷わなくてよい場所。
きれいだった。
温かかった。
エルには、幸せに見えた。
「エルさん」
副長の声が届いた時には、机の中央に透明な花瓶があった。
現れる過程はない。
一瞬前まで何もなかった場所に、淡い青い花が咲いている。
花瓶から、夕暮れに似た光が広がった。
仕事を終えた人間が家へ帰る時のような、柔らかな色。
机の上の書類が、淡い光に縁取られる。
それは記録を読まない。
件数を数えない。
誰がどれほど働いたのかを、勝手に拾い上げることもしない。
ただ、そこにいる人間へ向けて、言葉にならない承認を満たしていく。
見ていた。
ここにいた。
足りなかったわけではない。
もう休んでもよい。
職員の肩から、力が抜けた。
「……うれしいですね、これは」
その言葉を、部屋の外にいた別の職員が聞いた。
扉の向こう。
廊下。
壁の向こうの監理班区画。
似た願いが、いくつもあった。
誰かに認めてほしい。
自分がしてきたことを知ってほしい。
もう十分だと、言ってほしい。
最初の花の隣から、細い芽が伸びる。
床の継ぎ目。
書類の隙間。
閉じた端末の縁。
淡い青い蕾が、一つ、二つと現れた。
「拡大を停止してください」
副長の声が鋭くなる。
「止める」
エルは答えた。
新しい芽は止まった。
だが、すでに生じた蕾は消えない。
夕方の光が、隣の部屋まで滲み出している。
「監理班区画、発話状態を確認。言葉が自分の意思より先に出そうな場合のみ報告してください」
副長が通信を開く。
区画全体から、短い応答が返った。
魔法は人間の秘密を読んでいなかった。
記憶も記録も、勝手に表示してはいない。
けれど、誰にも見落とされない幸福を作ろうとしていた。
隠している努力も。
言いたくない弱さも。
まだ言葉にしたくない痛みも。
すべてを「見つけてもらえた」と感じられる場所にしようとしていた。
一人の職員が、自分の口元を押さえた。
「発言衝動があります」
精神保護室の職員が近づく。
「内容を言わなくて結構です。自分で止められますか」
「はい。ですが、普段なら話さないことまで、誰かに聞いてほしいと思っています」
別の机の上で、蕾が大きく震えた。
持ち主の職員が顔色を変える。
「それは、開かせないでください」
エルが蕾を見る。
中に何があるのかは、エルにも分からない。
ただ、その人が何かを見つけてほしいと願っていることだけは伝わった。
「見つけてほしい」
エルが言う。
蕾が震える。
「でも、見せたくない」
職員が答えた。
「見つけてほしいと思うことと、今ここで話したいことは別です」
最初の職員も、青い花を見ながら言った。
「私は、うれしいです」
「うれしい?」
「はい。誰かに見ていてもらえたようで、安心しました」
「それは、幸せ?」
エルの問いに、花々がわずかに明るくなる。
問いが魔法を動かしたのではない。
エルが、その答えを求めながら、まだこの光を幸福だと思っている。
職員は、慎重に答えた。
「一部は」
「一部」
「ですが、自分で話すと決めていないことまで、話したくなっています。それは怖いです」
「うれしいより?」
「今は、怖い方が大きいです」
エルは花々を見る。
美しい。
温かい。
誰も一人ではない。
それでも、この人の幸せではない。
「この人は、見つけてほしいんじゃない」
エルはゆっくり言う。
夕方の光が止まる。
「自分で見せたものを、見てほしい」
一つの蕾が閉じた。
「全部を知ってほしいんじゃない」
机の隙間から伸びていた芽が引いていく。
「休んでいいって、言ってほしい」
区画を満たしていた温かな気配が、少しずつ薄れる。
「心を開いてほしいんじゃない」
青い花が、一輪ずつ透明な光へほどけていく。
最後まで残ったのは、最初の花瓶だった。
文字もない。
声もない。
心を緩める作用もない。
ただの淡い青い花が、一輪。
魔法が収束すると、監理班区画へ機械音が戻った。
端末の駆動音。
遠くの通信。
誰かが堪えていた呼吸。
副長はすぐに指示を出す。
「区画封鎖は継続。魔術制御担当は残留反応を確認。情報班は記録差分を照合。精神保護室は全員の発話選択と認識状態を検査してください」
誰も立ち尽くさない。
誰も、エルの反省を待って仕事を止めない。
危険な事象が起きたなら、まず日常へ戻すための処理をする。
それが監理局だった。
エルは椅子に座ったまま、動かない。
服の裾を、小さな指でつまんでいる。
「エルさんはこの場で待機。移動は残留確認後です」
「うん」
「苦しさは」
「少し」
「魔法を続けたい感覚は」
「ない」
「別の形で作り直したい感覚は」
エルは普通の花を見る。
「少しある」
「作らないでください」
「うん」
精神保護室の職員が、影響を受けた者たちを一人ずつ確認していく。
副長は、その様子を見ながらエルへ視線を戻した。
朝は、必要を確認した後で、別の幸福を作った。
今は、答えを最後まで待つ前に、理想の形を作った。
二度続いた。
どちらも、普段のエルならしない。
「エルさん」
「うん」
「今、結論を急いでいますか」
エルは少し考えた。
「急いでない」
「そうですか」
副長は否定しなかった。
「では、その可能性も記録しておきます」




