第5話-わたしと同じだと思ったの
少し後。
惑星監理局、局長室。
ジェレミー・クリエットは、提出された報告書へ目を通していた。
執務机の前には、副長が立っている。
いつもの薄い笑みは戻っていた。
ただし、目元には僅かな赤みが残っている。
ジェレミーは報告書から顔を上げなかった。
「レトの状態は」
「問題ありません。緩衝材の構造と、音が発生する原理を理解しました。最後まで自分で運び、指定された棚へ戻しています」
「そうか」
「現在は食堂です。任務を完遂した報酬として、プリンが追加されるそうです」
「妥当だ」
副長は小さく頷いた。
報告は、それで終わるはずだった。
だが、ジェレミーは次の書類へ進まなかった。
「副長」
「はい」
「泣いたそうだな」
局長室が静かになった。
副長の笑みが、ほんの僅かに深くなる。
「笑いを抑えたことによる生理的な涙です」
「レトは、そう認識していない」
「そのようですね」
「呼吸もできなくなったと聞いた」
「笑いを抑えたことによる一時的な呼吸困難です」
「足も震えていた」
「同じ理由です」
「座らされ、背中と頭を撫でられた」
「……よくご存じですね」
ジェレミーは報告書の一箇所へ指を置いた。
「記録にある」
副長は僅かに身を乗り出した。
「誰が記録したのですか」
「複数の職員から、ほぼ同一内容の報告が上がっている」
「口止めを命じられたはずですが」
「レトが命じたのは、外部へ言わないことだ。業務報告まで禁じてはいない」
「なるほど」
副長は素直に頷いた。
反論の余地はなかった。
ジェレミーは報告書を一枚めくる。
「教育目的で、すぐには介入しなかったそうだな」
「はい。危険がなく、レトが自力で対処しようとしていましたので」
「途中からは」
副長は少しだけ黙った。
「……個人的な興味も含まれていました」
「そうか」
「非常に興味深い反応でした」
「その結果、お前はぷちぷちを怖がって泣いた男になった」
「はい」
ジェレミーの声は、いつも通り平坦だった。
けれど、副長には分かる。
面白がっている。
明確に。
「局長」
「何だ」
「笑っておられますか」
「笑っていない」
「そうですか」
「ああ」
ジェレミーは無表情だった。
声にも変化はない。
ただし、報告書を持つ手が、先ほどから一度も次のページへ進んでいなかった。
副長は追及しなかった。
代わりに、穏やかな笑みを浮かべる。
「なお、レトには誤認を訂正しました」
「訂正できたのか」
「緩衝材については」
「お前については」
僅かな間。
「……今後の課題です」
ジェレミーは報告書を閉じた。
「次からは、泣く前に助けろ」
「泣いていたのはレトです」
「記録上はお前だ」
副長は、静かに目を閉じた。
「承知しました、局長」
◇
その日の昼。
食堂の長い食卓の端に、レトは座っていた。
前には、温かいスープ。
小さなパン。
野菜と肉を煮込んだ料理。
そして、いつもの昼食にはない、小さなプリンまで置かれている。
「今日は特別です」
食堂班職員がプリンを置き、レトの頭を一度撫でた。
「怖いものへ向き合って、最後まで仕事を終えましたからね」
「もう怖くないよ!」
レトは胸を張った。
「ぷちぷちは、空気が出る音なの。怒ってないんだよ」
「よく分かりましたね」
「副長と共同解決した!」
「立派です」
医療班職員から渡された冷たい布を頬へ当て、生活班職員に乱れたワンサイドテールを整えてもらう。
通りかかった戦闘班員も、レトの頭を軽く撫でた。
「途中で泣いても、最後まで任務を遂行した。それでいい」
「えへへ」
レトは嬉しそうに足を揺らした。
職員たちは、泣いたことを笑わない。
怖かったことを責めない。
自分で確かめたことを褒めてくれる。
レトは温かいスープを飲み、パンを食べ、少しずついつもの元気を取り戻していった。
けれど。
プリンを半分ほど食べたところで、スプーンが止まった。
「どうしました?」
隣にいた職員が尋ねる。
レトは、透明な器の中で揺れるプリンを見つめていた。
「……ぷちぷち」
「はい」
「喋ったわけじゃなかったんだね」
周囲の声が、少しだけ静かになった。
「音がしたから、わたしに何か言ってるのかと思ったの」
自分が触れるたびに音がした。
やめてと言えば、また鳴った。
返事のように思えた。
何を言われているのか分からなくて、怖かった。
けれど。
それだけではなかった。
「わたしみたいに、おはなしできるのかもって、ちょっと思っちゃった……」
レトは、硝子の彗星から生まれた。
人間の親から生まれたのではない。
宇宙を進み続けていた巨大な硝子質の天体から、ある日、一人の少女として生まれた。
物だったものから。
喋り。
考え。
笑い。
泣く存在になった。
だから、ぷちぷちが音を返した時。
怖いと思うのと同時に。
自分と同じなのかもしれないと、ほんの少しだけ期待した。
「仲間かと思ったけど、違った」
レトの声は小さかった。
「空気が出る音だった」
スプーンでプリンの表面へ触れる。
ぷるん、と揺れる。
けれど、プリンも何も話さない。
「そっかぁ……」
ワンサイドテールが、少しだけしょんぼりと垂れた。
職員たちは、すぐには何も言わなかった。
笑うところではない。
間違いを訂正する必要もない。
物と生命の違いを理解したうえで、それでも少し寂しいと思ったレトの気持ちを、なかったことにはできない。
やがて、隣にいた職員が静かに言った。
「私たちはいますよ」
レトが顔を上げる。
「レトさんとお話しして、触れ合える私たちが」
別の職員も頷いた。
「呼べば返事をします」
「一緒に食事もできます」
「泣いていたら、隣へ行けます」
「嬉しいことがあれば、聞かせてもらえます」
「怖いものがあれば、一緒に確かめられます」
職員の一人が、レトの頭を優しく撫でた。
「硝子の彗星から生まれた仲間ではありませんけどね。それでも、私たちはレトさんの仲間ですよ」
レトは、ぱちぱちと瞬いた。
周囲を見る。
食堂班。
生活班。
医療班。
戦闘班。
それぞれ違う制服を着た職員たちが、レトの周りにいる。
話しかければ、答えてくれる。
泣けば、心配してくれる。
笑えば、一緒に笑ってくれる。
分からないものがあれば、一緒に確かめてくれる。
「みんな、仲間?」
「ええ」
「職員さんたち、みんな?」
「もちろんです」
レトの目が、少しだけ潤んだ。
今度の涙は、怖いからではなかった。
「……そっか」
頭を撫でている手へ、自分から少しだけ頭を寄せる。
「じゃあ、寂しくないね」
「はい」
「ぷちぷちが喋らなくても?」
「私たちがたくさん喋ります」
「たくさん?」
「少しうるさいくらいに」
周囲から小さな笑いが起きた。
レトも笑う。
「ロジーより?」
職員たちは一斉に黙った。
少し考える。
「それは難しいですね」
「ロジーは、すっごく喋るもんね」
「勝つ必要もないでしょう」
「そっか!」
レトの声に、いつもの元気が戻った。
残っていたプリンを一口食べる。
嬉しそうに足をぱたぱたさせた。
「おいしい!」
「よかったですね」
「うん!」
レトはもう一口食べ、それから周囲にいる職員たちを順番に見た。
「職員さん」
「はい」
「これからも、いっぱいお話ししてね」
「もちろんです」
「いっぱい触れ合ってね」
「レトさんが嫌でなければ」
「嫌じゃないよ!」
レトは胸を張った。
「わたし、みんなのこと大好きだから!」
まっすぐで。
隠すことのない言葉だった。
また頭を撫でられる。
今度は二人同時だった。
後ろからも肩を撫でられ、頬を軽くつつかれる。
「もうっ、みんな近いよぉ!」
そう言いながら、レトは楽しそうに笑っていた。
硝子の彗星から生まれた少女は。
声を返すたくさんの仲間たちに囲まれて。
残っていたプリンを、嬉しそうに食べた。
◇
翌朝。
副長が執務室へ入ると、自分の机の上に見慣れない物が置かれていた。
透明な硝子細工。
薄い板の上に、小さな丸い膨らみが規則正しく並んでいる。
形は、昨日のぷちぷちとよく似ていた。
しかし、内部に空気は入っていない。
代わりに、青白い光が一粒ずつ閉じ込められている。
光は硝子の内側をゆっくり流れ、ときどき星のように瞬いた。
その隣には、二つ折りにされた小さな手紙が置かれていた。
副長は手紙を開く。
少し不揃いな、レトの文字だった。
『副長へ。
きのうは、ぷちぷちこわかったね。
これは、おしてもならないぷちぷちです。
つぶれないから、だいじょうぶです。
これがあれば、もうこわくないよ。
もしまたこわくなったら、わたしをよんでね。
わたしがまもります。
泣いたことは、ちゃんとないしょにします。
レト』
副長は、最後の一文をしばらく見つめた。
昨日。
レトは廊下の端まで響く声で、職員たち全員へ秘密を宣言した。
そして今。
誰もいない早朝に、硝子細工と手紙だけを置いていった。
直接渡せば、自分がまた怖かったことを思い出させてしまう。
そう考えたのかもしれない。
あるいは、泣いたことへ触れるのが恥ずかしいだろうと、レトなりに気を遣ったのかもしれない。
配慮の方向は、完全に間違っている。
それでも。
そこに込められた気持ちは、間違っていなかった。
副長は硝子細工を手に取った。
一つの膨らみへ、指先を置く。
ゆっくり押す。
硝子は潰れない。
音も鳴らない。
閉じ込められた青白い光だけが、指先を避けるように丸い膨らみの中を巡った。
副長は、ほんの少しだけ笑った。
「よくできています」
答える者はいない。
レトはもう、戦闘班へ向かったのだろう。
副長は手紙を丁寧に折り直し、机の引き出しへしまった。
硝子細工はしまわなかった。
端末の横。
仕事中でも目に入る場所へ置く。
その日から。
惑星監理局の副長の机には、押しても鳴らない、青白く光る硝子製のぷちぷちが置かれることになった。
事情を知る職員は、誰も何も言わなかった。
レトとの約束を守るために。
そして。
口を開けば、笑ってしまうからだった。




