第4話-レトvsぷちぷち
ぷち。
「……ひっ」
惑星監理局、昼休み前。
生活班の備品保管区画へ続く廊下で、レトは足を止めた。
両腕には、透明な緩衝材の束を抱えている。
薄いシートの上に、小さな丸い気泡が規則正しく並んでいる。荷物を衝撃から守るための、ごく普通の梱包材だった。
危険性はない。
魔力反応もない。
敵意など、あるはずもない。
一般には、潰した時の音からこう呼ばれている。
ぷちぷち。
けれど、レトはその名前も用途も知らなかった。
生活班の職員から、
「こちらを奥の棚へ戻していただけますか」
と頼まれただけである。
持っていく。
棚へ置く。
それだけの、簡単な手伝いだった。
「……いま、なにしたの?」
レトは腕の中を見下ろした。
透明な緩衝材は何も答えない。
気のせいかと思い、少しだけ抱え直す。
ぷちぷち。
「ひゃっ!?」
レトは緩衝材を放り出した。
束が床へ落ちる。
ぷち。
ぱちっ。
ぷちぷち。
「うわあああっ!?」
レトは大きく飛び退いた。
淡緑の長い髪が揺れ、左側のワンサイドテールについた青いキューブの髪飾りが激しく跳ねる。
「落ちても鳴る……!」
廊下にいた職員たちが振り返った。
生活班職員が一人。
技術班職員が二人。
調査班職員が一人。
全員が、床に落ちたものの正体を知っていた。
そして全員が、何が起きたのかを理解した。
生活班職員が小声で言う。
「握ってしまったんですね」
技術班職員が頷いた。
「そのあと、驚いて落としました」
「本人の認識では、何もしていないようですが」
「厳しい判定です」
レトには聞こえていなかった。
涙目になりながら、床の緩衝材を見つめている。
「わたし、なにもしてないのに……」
恐る恐る近づく。
「棚に戻したいだけなの」
返事はない。
「ここにいたら、誰かに踏まれちゃうよ」
レトはそっと手を伸ばした。
指先が、一つの気泡へ触れる。
ぷち。
「やっ!」
すぐに手を引っ込める。
「触ったら鳴る……」
もう一度。
今度は、撫でるように触れてみる。
ぷち。
「やめて」
緩衝材へ言う。
「やめてって言ってるのに……」
ぷちぷち。
目に涙が溜まっていく。
「なんで返事みたいに鳴るの……?」
レトは、硝子の彗星から生まれた。
だから昔は、自分と動かない物との境目が、よく分からなかった。
今では、物は話さず、痛みも感情も持たないと理解している。
けれど、不意に音を返されれば、古い感覚が顔を出す。
自分が触れるたびに鳴る。
やめてと言っても鳴る。
小さな声で、何度も何度も何かを訴えてくる。
なのに、何を言われているのか分からない。
「そんなに小さい声で、いっぱい怒らなくてもいいでしょ……」
レトの目から、涙が一粒落ちた。
廊下の角には、副長が立っていた。
金髪の、細身で長身の男性。
惑星監理局の中枢を担い、ジェレミーを補佐し、緊急時には全体指揮を代行する監理班の副長である。
レトの悲鳴を聞き、すぐに駆けつけていた。
抱えていた緩衝材。
潰れた気泡。
負傷なし。
魔力反応なし。
危険性なし。
副長は、一目で状況を把握した。
けれど、すぐには姿を現さなかった。
レトは以前、分からないことがあるたびに、周囲の大人へ答えを求めていた。
今は違う。
怖くても、まず見る。
分からなくても、自分で考える。
危険がない限り、その機会を奪わない。
副長は、必要になればすぐに介入できる位置から、レトを見守っていた。
少なくとも。
最初は、そのためだった。
「わたし、踏まれないようにしてあげたいの」
レトは涙を拭い、もう一度だけ緩衝材へ手を伸ばした。
ぷち。
「ひっ……!」
肩が大きく跳ねる。
それでも逃げない。
「助けようとしてるのに……!」
ぷちぷち。
「なんで怒るの……?」
副長の肩が震えた。
端末を口元へ当てる。
笑ってはいけない。
レトは本気で怖がっている。
それでも、自分を怖がらせる相手が廊下で踏まれないように、どうにか棚へ戻そうとしている。
あまりにも真剣だった。
あまりにも優しかった。
そして、あまりにも予想外だった。
副長は、大人の尊厳を総動員して耐えていた。
生活班職員が、廊下の角へ視線を向ける。
「副長」
副長は片手を上げた。
問題ありません。
その合図だった。
まったく問題のない顔ではなかった。
肩が震えている。
耳まで赤い。
目尻には、すでに涙まで浮かんでいた。
調査班職員が囁く。
「完全にツボへ入りましたね」
技術班職員が頷いた。
「かなり深いです」
「そろそろ助けていただかないと」
「出ていける状態でしょうか」
全員が副長を見た。
無理そうだった。
「わたし、悪いことしてないよ……」
レトの声が、すっかり泣き声へ変わる。
副長は一度、大きく息を吸った。
ここまで。
見守る段階は終わりだった。
副長は廊下の角から姿を現した。
「レト」
「……っ」
レトが顔を上げる。
副長は、いつもの薄い笑みを保とうとしていた。
だが、腹筋はすでに限界だった。
口元を片手で覆っている。
肩が震えている。
笑いをこらえ続けたせいで、目尻から頬へ、一筋の涙まで流れていた。
「副長……?」
副長は、どうにか息を整えようとした。
「その緩衝材は――」
声が震えた。
レトの目が大きく見開かれる。
「副長、泣いてるの?」
廊下の職員たちが固まった。
違う。
けれど、副長自身がすぐには訂正できなかった。
レトは床のぷちぷちから離れ、副長へ駆け寄った。
途中で一つ踏みかける。
ぷち。
「ひっ!」
跳ねた。
けれど、もうぷちぷちどころではない。
レトは涙目のまま、副長の袖を両手でつかんだ。
「副長、大丈夫!?」
「はい。問題、ありません」
「問題あるよ! 泣いてるもん!」
副長が目元を押さえる。
指の隙間から、笑い涙が一粒落ちた。
レトの顔が青ざめる。
「ほんとに泣いてる……!」
「違い、ます」
「違わないよ! 涙出てるもん!」
自分も泣いていることなど、もう忘れていた。
レトは副長の手を、両手でぎゅっと握る。
「副長も怖かったの?」
「いいえ」
「無理しないで」
「無理はしていません」
「声も震えてるよ!」
「これは――」
レトは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、懸命に笑った。
副長を安心させようとする、健気な笑顔だった。
「大丈夫だよ、副長」
握った手に力を込める。
「わたし、いるから」
副長は目を閉じた。
完全に、とどめだった。
「……っ」
喉の奥から妙な音が漏れる。
レトがびくりとする。
「苦しいの!?」
「いえ」
「呼吸できない!?」
「できます」
「できてないよ!」
実際、できていなかった。
笑いを無理に押し殺しているせいで、まともに呼吸できていない。
レトは振り返った。
生活班職員は口元を押さえている。
技術班職員は天井を見ている。
調査班職員は、そっと記録端末をしまっている。
誰も副長を助けようとしない。
レトは、信じられないものを見る顔になった。
「みんな、なんで平気なの!?」
職員たちの肩が跳ねる。
「副長が泣いてるんだよ!」
一人が咳払いをする。
一人は資料で顔を隠す。
もう一人は、
「確認事項を思い出しました」
と、不自然な速さで立ち去ろうとした。
レトは怒った。
「笑わないで!」
青白い光が弾けた。
レトの周囲へ、透明な硝子の短剣が数本現れる。
剣先は職員たちには向けられていない。
レトと副長を中心に、床へ落ちたぷちぷちとの間を遮るように浮かんでいる。
即席の防護陣。
副長を守るための、レトなりの警戒態勢だった。
「レト」
「副長は下がってて!」
「危険はありません」
「副長は被害者なんだから!」
副長が俯いた。
肩の震えが、さらにひどくなる。
被害者になった。
いつの間にか。
ぷちぷちを怖がり。
涙を流し。
呼吸困難になり。
レトに庇われる被害者になっていた。
「副長は悪くないよ!」
レトは硝子短剣を浮かべたまま言う。
「ぷちぷちがいっぱい鳴いたら、びっくりするもんね!」
副長の膝が、僅かに曲がった。
「……そう、ですね」
「わたしも怖かったけど、副長も怖かったんだね……!」
「はい……」
訂正を諦め始めていた。
レトは副長の前へ完全に立ち、両腕を広げた。
透明な短剣が、レトの感情に合わせて小さく揺れる。
敵を斬るための構えではない。
誰も近づけないための壁だった。
「もう大丈夫」
レトは振り返り、副長を見上げる。
「わたしが守るから」
副長は片手で顔を覆った。
また涙が落ちる。
「そんなに怖かったんだ……!」
違う。
職員たちは心の中で叫んだ。
違う。
けれど、もう誰にも止められなかった。
「副長、座って」
「必要ありません」
「足も震えてるよ」
「これは笑いを――」
「無理しないで!」
レトは副長の手を引き、その場へしゃがませた。
副長も限界だったため、まともに抵抗できない。
壁へ背を預けるようにしゃがみ、片手で口元を覆う。
肩が揺れる。
涙が落ちる。
どう見ても、泣いている人だった。
レトも隣へしゃがんだ。
硝子短剣は、防護陣のように周囲へ浮かせたまま。
副長の肩へ手を伸ばす。
よしよしと、ゆっくり撫でた。
「副長も、ぷちぷち怖かったね……」
副長の身体が大きく震える。
「……はい」
「いっぱい鳴いたもんね」
「そうですね」
「一人で我慢してたの?」
「いえ」
「わたしが泣いてたから、助けに来てくれたんだね」
「それは、そうです」
「自分も怖いのに?」
「怖くは――」
レトが、さらに優しく背中を撫でた。
「もう強がらなくていいよ」
副長は壁へ額をつけた。
職員たちは、誰もその姿を直視できなかった。
普段は冷静沈着。
どのような緊急事態でも、薄い笑みを崩さない監理局の副長。
その男が今。
小さな少女に背中を撫でられ、
ぷちぷちが怖かったね。
と慰められている。
副長の威厳は、目に見えない音を立てながら削れていた。
レトは副長の頭へも手を伸ばした。
金色の髪を、そっと撫でる。
「よしよし」
「レト」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「私は大丈夫です」
「泣いたこと、誰にも言わないから!」
大声だった。
廊下の端まで響いた。
副長が顔を上げる。
「レト」
「安心して!」
「声を落としてください」
「みんなにも言わないようにお願いするね!」
レトは職員たちを振り返った。
「みんな!」
全員が身構える。
レトは、惑星監理局の廊下へ響き渡る声で宣言した。
「副長がぷちぷち怖くて泣いたこと、内緒だからね!!」
静寂。
完全な静寂だった。
副長は目を閉じた。
生活班職員が視線を逸らす。
技術班職員が唇を噛む。
調査班職員は、もう一度記録端末へ手を伸ばしかけ、どうにか倫理で止めた。
記録してはいけない。
だが、記憶から消すこともできない。
副長は、笑いすぎた罰を受けていた。
見守りには教育的な理由があった。
安全を確認し、レトが自分で対処する機会を守った。
その判断自体は正しい。
けれど。
訳も分からず泣くレトを、かなり面白がっていたことも事実だった。
その結果、副長は監理局職員たちの前で、
ぷちぷちを怖がって泣いた男。
になっていた。
「レト」
副長は、ようやく呼吸を整えた。
「なに?」
「まず、短剣をしまってください」
レトは床のぷちぷちと、副長の顔を交互に見た。
「もう攻撃してこない?」
「最初から攻撃していません」
「でも、鳴くよ」
「音が鳴るだけです」
「副長も、ほんとに大丈夫?」
目元が赤い副長には、説得力がなかった。
それでも、副長は今度こそ真顔で答えた。
「大丈夫です。ですから、一緒に確認しましょう」
レトはしばらく迷ったあと、硝子短剣の数を半分だけ減らした。
完全解除ではない。
副長の正面には、まだ二本残っている。
「半分だけね」
「十分です」
副長は立ち上がり、床の気泡緩衝材を一枚持ち上げた。
「これは、物を衝撃から守るための緩衝材です」
「守るもの?」
「そうです」
レトの警戒が、少しだけ和らぐ。
副長は丸い気泡を指先で示した。
「この中には空気が入っています。押すと表面の膜が破れ、中の空気が外へ出ます」
「それで鳴くの?」
「鳴くのではなく、音が鳴ります」
「返事じゃない?」
「違います」
「怒ってない?」
「怒っていません」
「痛くないの?」
「生き物ではありませんから、痛みもありません」
レトは緩衝材を見つめた。
信じたい。
けれど、まだ怖い。
副長は説明を重ねる代わりに、潰れていない一粒へ指を置いた。
ゆっくり押す。
ぷち。
レトの肩が跳ねた。
残っていた二本の短剣が、副長の前へ集まる。
「副長!」
「私が押しました」
副長は自分の指を見せた。
傷はない。
緩衝材も動かない。
「攻撃されなかった?」
「されません」
「……ほんとに?」
「ええ」
レトは副長の袖をつかんだまま、反対の手を伸ばした。
けれど、指先が気泡の直前で止まる。
「一緒にして」
「分かりました」
副長が一粒へ指を置く。
その隣へ、レトも指を置いた。
「ゆっくりね」
「ええ」
「副長、怖くなったら手を離していいよ」
「怖くありません」
「わたしがいるからね」
「ありがとうございます」
二人で、ゆっくり力を込める。
気泡が潰れていく。
ぷち。
「ひゃっ!」
レトは副長の袖を強く握った。
けれど、逃げなかった。
自分の指を見る。
怪我はない。
緩衝材を見る。
何も襲ってこない。
「……空気が出た?」
「ええ」
レトはもう一粒へ触れた。
ぷち。
肩が跳ねる。
それでも、手は離さなかった。
さらに一粒。
ぷち。
「返事じゃない」
「はい」
もう一粒。
ぷちぷち。
「いっぱい音がしても、怒ってない」
「鳴っているだけです」
レトの顔から、少しずつ恐怖が消えていく。
「そういう作りなんだね」
「その通りです」
最後に残っていた硝子短剣が、青白い光へ戻っていった。
防護態勢、解除。
職員たちが密かに安堵する。
レトは床の緩衝材を両腕で抱えた。
ぷち。
身体が跳ねる。
それでも、もう手放さない。
ぷちぷち。
「怒ってない」
「ええ」
ぷち。
「返事じゃない」
「ええ」
「わたし、分かった!」
「よくできました」
レトは、涙の跡が残った顔でぱあっと笑った。
それから副長を見る。
「副長も、もう怖くない?」
副長の肩が震えた。
職員たちは一斉に目を閉じる。
終わらない。
「はい。怖くありません」
「じゃあ、一緒に戻そ!」
「承知しました」
レトと副長は並んで、備品保管区画へ歩き始めた。
腕の中で、ときどき音が鳴る。
ぷち。
レトの身体が跳ねる。
それでも歩く。
ぷちぷち。
今度は足を止めず、副長の様子だけを横目で確認する。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
レトは、副長の袖へ少しだけ身体を寄せた。
「わたしもいるからね」
「ありがとうございます」
二人は、そのまま並んで歩いた。
やがて、指定された棚へ到着する。
レトは慎重に緩衝材を置いた。
ぷち。
最後の一粒が鳴る。
レトは一瞬だけ身構えた。
けれど、もう泣かなかった。
「任務完了!」
「ええ。無事に戻せました」
「副長と共同解決!」
「そうですね」
レトは胸を張った。
「わたし、ぷちぷちに勝った?」
副長は少し考えた。
「勝敗ではありません」
「じゃあ、負けた?」
「それも違います」
「じゃあ……」
レトは棚のぷちぷちを見た。
もう怖くはない。
けれど、自分が思っていたような何かでもなかった。
少し悩んでから、明るく頷く。
「いい負けだったね!」
副長は訂正しようとして、やめた。
「ええ。良い経験でした」
主にレトにとって。
そして、副長の腹筋と威厳にとっても。




