第50話-あたしの宇宙で生きていた
前夜、ジェレミーはレトへ自分から話すと決めていた。
だが、実際にレトを前にすると、何も言うことができなかった。伝えるべき事実も、使うべき言葉も分かっていた。それを口にすれば、花畑に残された少女へレトが抱いていた希望を、自分の手で終わらせることになる。
翌日、ジェレミーは三人を同じ部屋へ集め、監理局が開示可能と判断した範囲だけを伝えた。
花畑の地下施設にいた少女は、箱庭の娘であった可能性が極めて高いこと。少女は既に死亡しており、救助することはできないこと。地下施設から記録映像が回収されているが、その内容は三人には開示しないこと。関係する組織については、現在も調査が続いていること。
三人は、それ以上を尋ねなかった。
ロジーは、記録へ接続しようとしなかった。見ようと思えば、そこへ至る道を探せるかもしれない。それでも、ジェレミーとの約束を守った。
情報班主任が近くについていたのは、監視するためではない。見られる記録を、自分の意思で見ない。その選択をロジー一人に背負わせないためだった。
エルも魔法を使わなかった。過去を探らず、少女を戻そうともせず、監理局から伝えられた事実だけを受け取った。
それでも、その日の夕方、エルは一人で局長室を訪れた。
白い髪の毛先を淡いピンクに揺らしながら、普段よりも速い足取りで廊下を進む。扉の前で迷うこともなく、一度だけノックした。
「入れ」
中からジェレミーの声が返ってくる。
エルが扉を開けると、ジェレミーは机に向かっていた。卓上には処理途中の書類が積まれ、端末には複数の封鎖案件が並んでいる。
花畑の惑星に関する案件は、そこには表示されていなかった。局長権限で伏せられているのだと、エルにも分かった。
「エル」
ジェレミーが顔を上げる。
エルは机の前まで歩き、両手を胸元で重ねた。
「映像、見せて」
「駄目だ」
返事は早かった。
エルは驚かなかった。拒まれることは分かっていたらしい。
「全部じゃなくていい。あの子が、捕まる前に花畑で過ごしてたところを見たい」
ジェレミーは答えなかった。
「あの子、箱庭の娘だったんだね」
「可能性は極めて高い」
「この宇宙で生まれた」
「ああ」
「あたしがつくった宇宙で生まれて、ずっといたのに、あたしは知らなかった」
「知らないものは助けられない」
「でも、あたしが創った宇宙」
ジェレミーは椅子から立ち上がり、机を回ってエルの前へ来た。
「君がこの宇宙を創ったことと、そこで起きたすべてを君の罪にすることは違う」
「何も知らなくていいってこと?」
「そうは言っていない。知らなかったことは変えられないが、知った後に何をするかは選べる」
エルは自分の手を見た。
「だから、見たい」
「何のために」
少しの沈黙があった。
エルは罰を受けたいわけではなかった。少女が受けた苦痛を、自分も同じように背負いたいのでもない。
言葉にするまで、少し時間がかかった。
「あたし、あの子が死んだことしか知らない」
ジェレミーは黙って聞いている。
「死んじゃった子としてしか知らない。それは、いや」
「あの映像は、少女自身が残したものではない」
エルが顔を上げる。
「捕らえた者たちが残した記録だ。大半は、あの子が傷つけられていく姿を、研究対象として撮影したものになる」
エルの指が、胸元で僅かに強く重なる。
「あいつらの視線だけで、君たちに少女を覚えさせるつもりはない」
「でも、花畑にいたときは、まだ傷つけられてない」
「記録した者は同じだ」
「映ってるあの子は違う。捕まる前に、花畑で笑ってたところを見たい」
三人には映像を見せないと決めていた。その判断を、ジェレミーは変えるつもりがなかった。
拘束され、傷つけられ、殺されていく記録を三人へ見せる理由はない。ただし、少女が生きていた時間まで、研究記録と一緒に封じるべきかどうかは別だった。
「レトとロジーは」
「外で待ってる。三人で話してきた」
ジェレミーは閉じた扉へ視線を向けた。
「呼べ」
エルが扉を開けると、レトとロジーは少し離れた廊下の壁際に並んでいた。
二人は中の会話を聞こうとはしていなかった。ロジーの頭上にあるデバイスも、すべての表示を閉じている。
エルが手招きすると、二人は局長室へ入った。
「勝手に見ないって約束は守るよ」
ロジーは最初にそう言った。
「自分では接続しない。解析もしない。局長が見せていいって決めたところだけ、自分の目で見る」
「それ以上を求めないか」
「求めない」
レトも頷いた。
「わたしも、あの子が傷つけられるところは見ない。花畑にいたところだけ見る」
ジェレミーは三人を順番に見た。
「研究記録は見せない。少女が花畑にいた冒頭部分だけだ。拘束が始まる前に止める」
三人は頷いた。
それでも、ジェレミーはすぐには端末へ向かわなかった。
「エル。自分を責めるために見るのなら、許可しない」
エルは黙る。
「知らなかったことまでエルが悪いなら、わたしたちも悪いことになる」
レトが横から言った。
「わたしたちも、あの場所まで行ったのに見つけられなかった。でも、あの子に悪いことをしたのは、わたしたちじゃない。エルも同じだよ」
エルはレトを見る。
ロジーは頭上のデバイスへ目を向けずに続けた。
「私は、見ないのがすごく苦しい。記録があるのに見ないなんて、私には向いてないし、見れば分かることもあるかもしれない」
ロジーは胸元へ手を置いた。
「でも、壊れながら覚えるのは違う。私たちが壊れたら、あの子を覚える人が減る」
「覚える人」
「うん。だから私も、自分を壊すためには見ない。あの子が生きてたところだけを見る」
エルは二人を交互に見た。
レトもロジーも、少女の死を自分たちの痛みに置き換えようとはしていない。忘れないために、自分たちが壊れずに残ることを選んでいる。
エルは少し考えてから、ジェレミーへ向き直った。
「あたしも、自分を壊すために見ない。あの子がいたことを、死んだことだけで覚えないために見る」
ジェレミーは数秒間、エルの目を見た。
それから端末へ戻り、封鎖記録へ局長認証を通した。閲覧範囲を冒頭部分だけに限定し、停止位置を装甲部隊が拘束術式を起動する直前へ設定する。
「記録しない。解析しない。魔法を使わない」
「分かった」
閲覧可能な記録を感知したのか、ロジーのデバイスが淡く一度だけ明滅した。
ロジーは操作しなかった。
エルも両手を下ろしたまま、画面が現れるのを待つ。
ジェレミーが再生を開始した。
机の上に、小さな花畑が映し出された。
白い花、淡い紫の花、薄い黄色の花が、穏やかな風に揺れている。草花の綿毛が青空へ舞い上がり、丸い丘の向こうへ流れていった。
花畑の中心には、小さな少女が座っていた。
少女は足元へ落ちた花びらを両手ですくい、風にさらわれていく色を見上げて笑った。古い映像の中でも、その笑い声だけは驚くほど鮮明に残っている。
レトの目に涙が浮かんだ。
ロジーは唇を結び、エルは画面から目を逸らさなかった。
「あの子、笑ってる」
「ああ」
ジェレミーが答えた。
少女は足元に咲いていた白い花へ手を伸ばした。細い茎を傷つけないように摘み、胸元へ持ち上げる。
花へ向かって、何かを話していた。
声は残っていない。それでも、少女の表情は明るかった。
やがて、映像の端に灰色の装甲を着た人間たちが現れる。
少女は逃げなかった。白い花を持ったまま立ち上がり、人間たちへ笑いかける。
その直後、装甲部隊が反応するより早く、少女を中心に中枢術式の反応が立ち上がった。
人間たちは一斉に身構えた。前列が防護障壁を展開し、後方の者たちは反射的に攻撃魔術の照準を少女へ合わせる。
しかし、少女の周囲から広がったのは花吹雪だった。
色とりどりの花びらが装甲の周囲を巡り、首元へ花の輪をかける。密閉兜の上には小さな花束が載り、肩の魔術増幅器にも白い花が一輪ずつ添えられた。
少女は、自分が持つ白い花と、人間たちについた花を交互に指した。
そして、もう一度笑った。
「先に力を使った」
エルが言った。
「でも、攻撃しなかった」
装甲を着た人間たちは、花で飾られたまま少女を見ている。
「あの子、人間を花で飾った。花をあげたかったのかも」
それは、映像を見たエルの解釈だった。
ジェレミーは肯定も否定もしなかった。
画面の中で短い沈黙が続き、前列の一人が腕を上げかけたところで映像が停止する。
拘束術式が展開される直前だった。
少女は、自分がつけた花を見ながら、まだ笑っていた。
局長室には、誰の声もなかった。
レトの頬を涙が流れ、エルの手を握る。エルは少し驚いたようにレトを見たが、その手を離さなかった。
ロジーも反対側から、エルの手へ自分の指を重ねる。頭上のデバイスは静かなままだった。
「名前、なかった?」
エルが尋ねた。
「記録には残っていない」
「名前で呼ばれたところも?」
「少なくとも、残された記録にはない」
エルは停止した少女の顔を見る。
「勝手につけない」
「ああ」
「でも、名前が分からないから、いなかったことにはしない」
エルは二人と手をつないだまま、画面を見つめた。
「あたし、あの子が死んだことも忘れない。でも、死んだところだけで覚えない」
花畑で笑い、花に触れ、自分の力で人間たちを飾った時間があった。
「見て、覚えておく。変えないで」
過去を戻さない。映像を作り替えない。自分が耐えやすい形へ、少女の生涯を変えない。
見たものを、そのまま持っている。
今のエルが選んだのは、それだった。
しばらくして、エルが言った。
「あの花畑に行きたい」
レトとロジーもジェレミーを見る。
「今は駄目だ。調査と保全が終わってから、三人で正式に申請しろ」
「三人で行っていい?」
「勝手に行かないなら検討する」
レトが強く頷く。
「もう勝手に行かない」
ロジーも続けた。
「記録担当じゃなくていい。見るだけでいい」
エルは二人の手を握ったまま言った。
「魔法も使わない」
「その時に改めて判断する」
許可ではなかったが、拒絶でもなかった。三人はそれ以上を求めなかった。
ジェレミーは、停止していた映像を閉じようとした。
その直前、エルが言った。
「待って」
ジェレミーの手が止まる。
「どうした」
「花を持つところ、もう一回見たい」
レトとロジーがエルを見る。
「何かあった?」
ロジーが尋ねた。
エルは、すぐには答えなかった。
映像を調べたわけではない。魔法で過去へ触れたわけでも、少女や花から何かを読み取ったわけでもない。
ただ、最初に見た時から、僅かに何かが引っかかっていた。
「分からない。もう一回、見るだけ」
ジェレミーは映像を花畑の場面まで戻し、通常の速度で再生した。
少女が両手で花びらをすくい、風に舞う色を見上げて笑う。足元の白い花へ手を伸ばし、花を摘んで胸元へ運ぶ。
ジェレミーが再生を止めた。
「何が気になった」
エルは、画面の中の白い花を見つめていた。
「もう一回」
同じ場面が再生される。
少女の手が伸びる。
風の中で白い花が揺れる。
細い指先が花へ近づき、次の瞬間には、白い花が少女の手の中へ収まっていた。
記録が古いため、一部の動きが欠けているのかもしれない。風に押されただけかもしれない。少女の指が素早く動き、映像に残らなかっただけかもしれない。
映像を見れば、少女が花を摘んだようにしか見えなかった。
それでもエルは、僅かに首を傾げた。
少女の指先が触れるより、ほんの少しだけ早く。
白い花の方から、その手へ近づいたような気がした。




